第14話 sincerity-3rd

 俺は学内で部活動や委員会に属していない代わりに学外でアルバイトをしている。今までやってきたバイトはファミレスと古本屋の店員、そして今も続けているものを含め計三つ。

 その中で一番長く働いているのは今も継続して働いているホテルスタッフだ。


 皇国ホテル。創業は19世紀後半。日本を代表するホテルで現在は国内で一番の実績を誇っている。このホテルが保有している棟は二つあり、本館と別館に分かれている。階層で言えば本館が十八階で別館が32階となっている。本館にはレストランバーや宴会場、婚礼施設があり、隣接している別館にはフィットネスやプールサウナ、会議室がある。そしてどちらにも客室があり、各ビルの上層部にはゲストルームがあって全150室完備されている。最もベーシックなもので約50平方メートルの広さ。最高級のスイートは200平方メートル以上の広さがある。


 ただし国内一になったのは建物の性能だけではない。時には設備以上の評価を受けるのはホテルスタッフ全員のホスピタリティだ。

 例えばお客が「~がほしい」と言うならすぐ用意する、もしくはほしい物品、ないしは要望を提供するといった風に、即座に対応し回答を瞬時に出す。そんなおもてなしをするスタッフの心は多くのユーザーを作り、そのおかげで「一番行きたいホテル」となった。ちなみに俺はそこでフロント対応の仕事に就いている。今日も平日だというのに、俺が対応しただけでも50人くらいの宿泊者がひっきりなしにやってきた。会社員や家族連れ、海外旅行者は当たり前で中にはテレビにも出てくる映画俳優や、政界の人間までやってくることも少なくない。


「……ふう」


 今は休憩時間。激務の中、僅かでも入る小休止にはありがたさしか生まれないのだが、休憩室でコーヒー片手に寛いでいる時も、彼女のことが頭から離れないでいた。

 朝宮優が部活を休んだ理由。バイト中もそのことばかり考えていた。本来なら集中して仕事に当たるべきだったのに、そんなこともできないほど、朝宮という存在が大きくなっていた。


「みんなから慕われる、憧れの存在か……」


 本音を言えば、放課後はあれこれ動くはずだったのだが、帰宅途中に尊敬する上司からヘルプの連絡が入ったこともあって今日はホテルに顔出した。本格的に動くのは明日以降になりそうだ。


「とりあえずバイトが終わったら」

「日比野。お疲れ」


 今後の方針を考えていると、休憩室にやってきたのは20代前半の女性。

 本来なら肩くらいまである黒髪をヘアゴムとヘアピンでまとめて黒のスーツを着ている。化粧はかなり薄くしかしていないが、彼女の美貌が損なわれることはない。

 通り過ぎれば一度は振り返って見たくなるほどの整った顔を持つ美人は林屋美夜はやしやみやさんだ。彼女は前任の教えとホスピリティをしっかり受け継ぎ、一つのミスなくホテルを盛り上げる凄腕の上司だ。常に多忙を極める仕事場だが、俺が見る限り美夜さんが連続して休みを取ったところを見たことがない。さらに仕事の合間の休憩時間でさえまともに取らず、菓子パン片手にパソコンを打つような人だ。


 そしてもっとも驚いたのはここまで仕事をしているのに、身分は社会人1年目の新人。4月を迎えればようやく二年目になるのだが上司からすでに仕事廃人と言われ、本人もそこのところを認めている。彼女が学生時代からこのホテルでアルバイトをしていたようだが、その当時からも社員並みの仕事をこなしていたのだから驚嘆に値する。ちなみに俺は敬愛の意味も込めて『マネージャー』と呼んでいる。


「急なヘルプに入ってもらって悪かったな。今日は休みだったのに」

「急な欠勤が出たなら仕方ないですよ。俺も今日は何もなかったのでヘルプに入れて良かったです」

「おかげでこっちは助かったよ。また何かの形でお礼はするわ」

「……それは良いんですけどマネージャー。もう定時過ぎてますよ」


 ちなみに美夜さんは昨日から夜勤として仕事に入っており、7時間も前に帰っても良かった(帰らなければならなかった)のだが、さっきまで自身のデスクでキーボードを軽快にタイプしていた。


「仕事が詰まっていたからその処理のためにいたんだ」

「その仕事、急ぎじゃないでしょう?」

「結構急ぎなのよ。提出は1ヶ月後」

「仕事しないで帰ってください」

「明日できると思ってそのまましないっていうのが癖になると、取り返しがつかなくなるんだ。日比野もよく覚えておくと良いわよ」


 美夜さんからはいつもありがたい言葉を頂戴しているが、全部言う通りにすると確実に身が持たない。話は全部聞いているが落とし込むのは半分くらいにしている。


「マネージャーのようにはなりませんって。いつもついて行くのが必死なんですから」

「これくらいのことはしてくれないと困るのよ。バイトでも数に数えてるんだから」

「みんなマネージャーみたいに鍛えていませんから」

「私は鍛えてなんかないわよ。人をアスリートみたく言わないで」

「でも、最近家に帰る時は走って帰るって聞きましたよ」

「走って帰るって言っても自分のペースでゆっくりとよ。1時間かけて」


 激務後に1時間もかけて帰ることが異常だ、とは口が裂けても言えないので話を続ける。


「最近はスポーツジムにも行ってるんでしたよね?」

「水泳だけだからそれほどの効果はないと思うけど」


 休みの日にも体を動かす上司の無尽蔵の体力に感服するばかりだ。これで一つも疲れを見せないのだから、たまにこの人は人間なのかと思ってしまうこともしばしばある。


「マネージャーが連続夜勤しても倒れないのがよくわかります。無理して倒れないで下さいね」

「私をなんだと思ってるんだ。疲れていたら休むし、そこまで自分の管理を甘くはしない」


 心配されることがお気に召さなかったようで、美夜さんはむすっとした表情で反論する。そんな表情を見ながら俺はコーヒーを味わう。


「ところで日比野。高校で何かあったの?」


 だが、突然の質問に飲んでいたコーヒーでむせそうになった。

 なんとか平静を装ってむせることはしなかったが、コーヒーを飲み下すのに少しだけ間を作ってしまった。


「どうしたんですか、唐突に?」

「いや、他のみんなは表情や態度で何考えてるかなんとなくわかるんだけど、お前に関してはよくわからないから、勘みたいなものなんだ」


 確かに朝宮のことで悩んでいたが、考えながらでもミスしないように細心の注意を払ったつもりだ。美夜さんはどこで気付いたのだろうか。


「お前は何か問題があっても他人に頼らず、自分でなんとかしようとする。それは立派なことだ。社会に出たらそれが基本になるし」


 ただし、と美夜さんは補足する。


「それは自分の限界値を知っている人間ができる行為であって、無理していることに気付かない人間がすればいつかは壊れる」


 俺は無言になっていた。不自然さは向こうにも伝わっているかもしれない。


「何か悩んでいるのなら、相談に乗るけど?」

「ありがとうございます。でもなんでもありませんから心配しないで下さい」

「本当に?」

「はい」


 美夜さんは納得がいかない顔をしているが、そこを確認する術はない。彼女が言った通り、俺はポーカーフェイスで接しているから。


「……わかった。日比野がなんでもないって言うならそうなんだろう。こっちとしてもそれを信じるしかない」

「本当に大丈夫ですよ。でも心配してくれてありがとうございます」


 そこで話は終わるものだと思い、飲み干したコーヒーの容器を捨て、持ち場に戻ろうとした時、美夜さんは「そうだ」と何かを思い出したように手を打ち鳴らした。


「それはそれとしてだ。日比野、お前に言わなければならないことがあったんだ」

「仕事のことですか、何かミスを?」

「お前のミスなんて、お前がここに来た時から見たことがないぞ。そこじゃなくて」


 美夜さんは割と真剣な顔つきで俺を見据える。こういう場合はかなりの確率で何かしでかした時の雰囲気だ。しかしミスではないと言うし、俺自身も心当たりがない。


「お前はいつになったら、私のことを役職名以外の名前で呼んでくれるんだ?」


 聞き違えだと思いたかったが、両耳は正常に機能している。春に学校で受けた健康診断で良好と判断されてから一度も異常はきたしていない。となると聞こえた内容に間違いはない。ただそれを信じられずにいるだけだ。


「えっと『マネージャー』では気に入りませんか?」

「壁を感じる。そして私は厳密にいえばマネージャーじゃない」

「とはいっても、今まではそれで良かったじゃ」


 ないですか、という言葉は最後まで言えなかった。正確には言おうとしたのだが、美夜さんに顔を向け直すと、そこには膨れっ面の美夜さんがあった。


「どのようにお呼びすれば」

「マネージャー以外ならなんでも良い。だが礼節を弁えた上でな」

「それなら林屋さん」

「美夜さんなんてどうだ?」


 礼節はどこにいったというツッコミを置いておいて、一縷いちるの望みをかけてもう一度苗字で呼ぶことを提案する。


「やはり苗字で」

「美夜さん」


 どうやら下の名前で呼べという命令だったようだ。だがさすがにこれは呑めそうにない。気恥ずかしくてたまらないからだ。


「いくらなんでも下の名前は馴れ馴れし過ぎるでしょう」

「上司が良いと言ってるんだから良いんだ。さ、言ってみろ」

「礼節は」

「言ってみろ」


 俺と美夜さんしかいないこの状況で、これ以上の抵抗は無意味だった。最悪これ以上の要求もされかねない。


「それでは、その」


 実に楽しそうな美夜さん。俺はその代わりに冷や汗でびっしょりだ。


「み、美夜さん……」

「小さいな。もっと大きな声で」


 絶対嘘だ。この部屋そんなに広くはないから確実に聞こえてるはずだ!


「……美夜さん」

「ううん、もう一声かな」


 完全に遊んでいる! だが今ここで言わなければ少しの間このことでいじられるのも明らかだった。羞恥心を抑え込んで意を決した。


「美夜さん!」


 休憩室に響き渡る上司の名前。この瞬間、ここに俺と美夜さん以外に人がいなかったこと、そして新たに誰かが入って来なかったことを神に感謝した。


「そうだな、ぎこちないがまぁ良いだろう」


 ここまでしたのにこの反応。しかし言いたいことも虚脱感に全て持って行かれた。休憩室を出て行くつもりだったのに俺は再び椅子に座り直す。


「じゃあ、これからは美夜さん、だ。良いな?」

「……はい」


 清々しい顔をして退出する美夜さんに対して、精魂尽き果てた俺には頷くことしかできなかった。


「どう? 少しは気持ちが紛れたか」


 美夜さんは出る間際にこちらに振り返ってそう告げた。反射で美夜さんを見た時点で遅かった。俺は彼女の本当の目的を見逃していたのだ。


「お前の悩みを取り除くことなんて私にはできない。でもこれだけははっきり言ってやれる。もし何か迷って立ち止まりそうになったら、自分を信じて突っ走れ。ただひたすら走り抜けろ。失敗を恐れて立ち止まるような年でもないんだ。やれること全部してみろ」


 美夜さんの言葉は中途半端な俺の気持ちに喝を入れ、しるべを示してくれた。


「たまには私に話してくれると文句なしなんだけど。今日時間あれば聞いてやるぞ?」

「し、知りません。それと後ちょっとしたら帰りますので」

「おい! それはないだろ! お前の終業時間を待っていたのに!」

「それこそ知らないですよ。じゃあ先に行きますから」


 俺はその場から逃げるように立ち去る。美夜さんも追いつこうと全速力だ。


「日比野! 上司に向かってその口の利き方はなんだ!」


 でも絶対に追いつかれたくなかった。だって美夜さんが、俺を気遣ってあんなことをしたんだという優しさに、目頭が熱くなったから。

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