第12話 sincerity-1st
昨夜、俺が風俗街で見た光景は全て噓だったんじゃないか。
俺の妄想が勝手に生み出した夢幻だったのではないだろうか。
今朝起きぬけに思い起こされたのはそんな妄想だった。
だが俺が昨夜見て聞いて感じた全ては嘘ではない。そういうことをするホテルのフロントスタッフにつかみかかり、金も払わず館内に侵入した挙句、部屋のドアを連打したわけだ。ここだけ切り取れば迷惑極まりない悪質な客だ。出禁程度で済んだのは奇跡と言ってもいい。傾や学校の世話になるのはもちろん、最悪あのババアの厄介になっていたかもしれない。
「直接本人に聞くしかないか」
どんなことが起ころうとも一日は始まるし、俺自身学校に行かなくてはならない。朝宮ともそこで会えるはずだし、登校していなければ探し出すだけのことだ。
そんな俺の楽観的な考えを打ち砕いたのは、校舎に入る際に全生徒が必ず目を通す学内掲示板の異変だった。
『朝宮優。風俗街に出没?』
この文言が赤の油性マジックででかでかと書かれていた。しかも文言だけでなく、昨夜に朝宮が風俗街をうろついていた写真が無数に張り付けられていたのだ。
まるであの夜、誰かが朝宮を尾行していたかのように。
学内では「何かの見間違いだ」という声や「写真の女子は朝宮さんだ」と様々な憶測が飛び交っていて、そんな中、俺だけが別の事柄に着目していた。
(俺以外に尾行していた……?)
それは昨夜、俺以外の人間が朝宮を見ていたという事実だ。幸か不幸か写真にも文言にも俺のことは一切触れられていないようだが、俺のことを引っ張り出しても掲示板を滅茶苦茶にしたやつにとっては意味がないと省かれたとも考えられる。
どちらにしても、昨夜の朝宮の行動を騒ぎにすることで何かしらのメリットがなければ、掲示板を汚したやつの行動に一貫性がない。
(尾行して、朝宮を貶めて、何を……?)
そしてもっとも重要なのはタイミングだ。俺以外の朝宮の目撃者、ないしは追跡者がいたとして何故今このタイミングで騒ぎを起こしたのか。
しかしそこには憶測が立てられる。おそらくだが俺の介入だ。
昨夜、俺が朝宮を追いかけ、風俗街のホテルに突入したこと。
学内掲示板の異変は当然教師たちにも知れ渡り、俺たちのクラスでも朝礼の際に「現在調査中なので騒がないように」と注意が入った。ただ校内で知らない者はいない朝宮の存在が今回は完全に仇になり、噂は午前中の段階で全校生徒に浸透していった。
さらに朝宮の疑惑を加速させてしまったのは朝宮本人の不在だ。
「俺の担当しているクラスのみんなも知ってる。ただみんながみんな信じてるかって言ったらまた違ってくる」
昼休みの生徒相談室で向かい合うように座る傾はカップラーメンをすすりながらそう答えた。
「騒ぎは嘘だって反論する生徒もいれば、写真や落書きの情報を鵜呑みにしてる生徒も少なからずいる。割合で言うと8:2ってところか。どっちにしても朝宮本人が病欠で今日休んでるんだからこっちからはどうしようもない」
「学校側は朝宮の病欠が嘘だとは思わないんだな」
「本当に病欠だったとして、心身ともに弱ってる状態で『今朝から君の悪い噂でもちきりだけど本当なの?』とか聞けるか? 俺は嫌だね」
「生徒を信用してるっていうよりは、ほとぼりが冷めるまで放っておく感じだな。シュレディンガーの箱よろしく、開けなきゃ真実は永遠にわからないままっていう」
「箱を開けるにしても開け方ってもんがある。無理矢理こじ開けて箱の中身も壊したら本末転倒だ」
合間合間に傾は即席麵とスープを胃に流し込んでいく。味噌の香りが室内に充満している。
「それに証拠がない以上どっちにも転ぶ問題だ。学内の人間なら誰でも学内掲示板の場所はわかるし、人のいない時間帯を見つけて油性マジックで落書きや写真を張り付けることもできる。そもそも今回の騒ぎを起こした人物もその理由もわかっていないんだ。何をやるにしてもまずは落ち着いてから、そうだろ?」
傾が言いたいことはわかっている。こいつは俺に「落ち着け」と言っているのだ。しかし今の俺は到底落ち着いて物事を考えるだけの余裕がない。
俺の生きる上で大事にしていることは、面倒事に巻き込まれないようにすること。今までだってそうしてきたし、これからもそうするつもりだ。
なのに昨夜に限ってはそうじゃなかった。夜の街で朝宮を見つけて、妙な胸騒ぎがして必死に走り、見失えば焦り、見つけた時は安堵した。
そしてあいつを見つけた場所で絶望した。
「とはいえこの騒ぎをだらだら長引かせるのもマズい。俺たち教員がやらなきゃならないことは、今回のことを徹底的に調べて真実を明らかにすること。かつスピード対処だ。SNSへの投稿は正直止め切れてるか微妙だが、今のところはなんとか抑え込んでるらしい。それにこんなことが嘘でも本当でも世間様に広まったら一大事だ」
「外には黙っておくのか?」
「言っただろ。不確実な事実を世に広めるのは余計な混乱を招くだけだ。写真を張り付けた誰かさんが朝宮を陥れるためにした罠かもしれない」
「傾は、朝宮を疑ってないってことか?」
「当たり前だろ。朝宮は学校の成績はあれだが、演劇に対する情熱は本物だ。何かに打ち込んでる生徒があんな馬鹿なことをするわけがない」
「思い込みかもしれないぞ」
「でもそう信じることはできる。俺は朝宮を信じてる」
ラーメンのスープまで飲み干し、傾は手を合わせる。俺の質問に答えると傾は真剣な表情で俺に返す。
「お前はどうなんだ、明?」
「どうって?」
「お前は朝宮が夜の街を練り歩くような女子に思えるのか?」
自分で聞いておいて俺は傾の返答に答えられなかった。もし朝宮が無実で別の誰かが朝宮を陥れようとしているならどんな理由で今回の騒ぎを起こしたのか皆目見当もつかないからだ。
ただ一つ確かなのは俺は今、この状況にもやもやしている。
「さぁな。お前の言葉を借りるならまだ何もわかってないから何も言えないって感じだ」
「冷たいな。短過ぎる間だったとはいえ、お前朝宮とあれこれ話してただろ?」
知るわけがない。あいつのことなど俺には何もわからない。ただの演劇馬鹿で、必要もないのに俺に演劇のことを話し続ける鬱陶しい女子。こっちが距離を取っても取った分よりも近付いて来る空気を読まないやつ。
それと何かにつけて一生懸命だということくらいか。
「面倒な女子、ってことならよくわかってる。少なくとも友だちとかではない」
「なるほど、そう来たか」
立ち上がった傾はラーメンの容器を部屋に備え付けられているキッチンで洗い流し、そのままごみ箱に捨てる。
「本当に、面倒なだけか?」
「お前の言う証拠が出ていない状態でもここまで他人に迷惑かけてんだ。面倒じゃなきゃなんだって言うんだ」
「その他人ってお前のことか?」
「不特定多数の人間たちだよ。例えばお前を含めた教員連中」
「不特定多数ならお前もしっかり入ってるじゃないか。友だちじゃないんだろ、朝宮とは?」
神経を逆なでするような発言に俺のもやもやはピークに達する。
「何が言いたいんだ」
「お前が朝宮を心配しているんだってことは伝わったってこと」
「何の根拠があってそんな考えに辿り着く?」
「明、朝宮のことで怒ってるだろ?」
「だから何を根拠に」
「学内の生徒たちが朝宮を疑いの目で見ているから。違うか?」
盛大な舌打ちをしたのが決定的だった。立ち上がって怒りを露にするような感情的な行動だけはしまいと己を律していたが、口だけは止められなかった。
「俺は、苛立っていない」
「なら喧嘩腰で話をするのは止めろ。こっちの気分が悪くなる」
口調が乱暴になっていることは気付いていた。だが自分で制御できていないことには気が回っていなかったようだ。
「……お前の感じ方次第だろ」
「残念。ここで謝罪の一つでもあれば、朝宮に関してなのかはおいておくにしても、お前が怒っていることの証明にはなったんだが」
そうさせないために謝らなかった。傾はたまにだが俺の感情を先読みしてくる時があるから。
「ま、朝宮の件は大人に任せておけ。お前が何かするつもりなら止めはしないがあんまり無茶するなよ」
「保護者面か?」
「俺はお前の保護者だよ。あ、相談室の鍵は返しといて。まだ飯食うだろ。俺は先に出るわ」
傾は相談室を退室しようとするがドアを開ける手前で立ち止まる。
「明。色々話したがお前が朝宮のことを心配してるってことがわかって良かったよ。やっぱり朝宮にお前を紹介して正解だった」
「なんだそれ。言ってるだろ俺はあいつのことなんて」
「なら昼休みが終わる前に、その伸びきったラーメンなんとかしろよ」
退出と同時に傾から投げかけられた言葉で俺はテーブルに置かれたカップラーメンを見る。
そこには時間をかけてスープを吸い込んだ麺があった。
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