「世界線問題」
「我々の世界が決定論的に決められているのか、それとも我々の行使する自由によって構成されているのか、この問いは「西暦」世代の哲学者たちの大きなトピックの1つでありました」
朝の日差しが窓から差し込む。300人を収容できる講義室には、素数の出現頻度を表すような散らばり方で座る学生で埋められていた。
「20世紀、この言い方はとても古いですが、この時代に我々の思考と方向性を決定する哲学様式が示されました。分析哲学と分類哲学です。昔ながらの哲学も勿論ありましたが、影響は大きく見積もっても思弁哲学をリバイバルさせた程度でしょう」
聴いている学生のほとんどの者が簡単に単位を取れるという噂から受講していると思われる様子で配給ペンどころか、自動筆記帳すら出していない。
いつものことだ。自由についての関心は昔からこうだった。
定刻のベルが鳴る。
「今日はここまでとします。次回からはフーコーの生権力論の視点からオースタニア議会の統治方法を見ていきたいと思います。レジュメは後日、学内ネットワークに掲載しますので、各自でダウンロードをお願いします」
のっそりと帰宅へと動き出す学生たちを横目に次の講義の準備のため、一度研究室に戻ろうと荷物をまとめていたら、背後から声をかけられた。
「クラリス教授、すいませんがお願いがあります。少々、お時間ございますか?」
振り向くとポニーテールに丸メガネのダボッとしたパーカーを着た学生が立っていた。
「ええ、このあとの講義は午後なので十分に時間があります。どんなお願いでしょうか」
「以前、クラリス教授が仰っていた標準化と私たちの関わりについて興味を持ち、レポートを書いているのですが、先生のご感想を頂きたく、一度お目通し願えないかと思っておりまして」
「おお、素晴らしいですね。標準化に目をつけるとは実に自由な視点です。喜んでお引き受けしましょう」
「ありがとうございます!」
その学生はダブルクリップで留められた書類の束を私に差し出した。
【オオツカ・ナオミ「ネジの標準化の歴史からオースタニア議会の統治に関する考察」】
見たことのある名前に反応し、私に背を向けて荷物をまとめていた彼女に声をかけた。
「オオツカさん! 少し確認したいことがあるのですが?」
「はいっ!なんでしょう?」
彼女は後ろから声をかけられ驚いたのか、小さくジャンプしたあと、ゆっくりと振り返りながら言った。
「オオツカさんにはご兄弟がお在りではないですか?」
「ええ、ケイという兄がいます。確か昨年の、この大学の卒業生だったと思います」
「ということは、オオツカ・ケイさんの妹さんでいらっしゃいましたか。どおりでこれほどまでに自由な発想をされるわけですね」
「はい、オオツカ・ケイの妹のオオツカ・ナオミと申します」
「しかし、不思議ですね、オオツカさんのお名前は受講者名簿には載っていないと存じているのですが……」
「あのう、そのう、言いにくいのですが、受講登録せず、もぐりで聴いているだけでして……」
「ということはこの大学の学生ではない、ということですか?」
「あっ!違うんです! 大学に在籍はしているのですが、大学の特殊講義が非常に刺激的で、どんどん受講登録していましたら、受講制限に引っかかってしまいまして……」
「なるほど、それで単位は出ないものの、受講したい一心から講義を聴いてくださっていたのですね。とても嬉しいです」
こんな学生はイマドキ非常に珍しい。
ほとんどの学生がオースタニア議会の用意したレールの上を歩くだけで満足する人生を謳歌している中、1人、真剣に自分の人生と向き合っている姿勢が彼女の行動から感じられる。
思えば彼の兄、オオツカ・ケイも同様であった。
彼が知らない哲学者の話を私がしようものなら、徹底的に図書館に入り浸り、その人生から構築された哲学を自分なりに咀嚼しようとしていた。
だが、彼は最後の最後でオースタニア議会に入会するという自由とは真逆の行動を取ってしまった。彼にそうさせた原因が何かは分からないが、1人の導き手として哀感を抱かざる得なかった。
ほんの少し思い出を呼び起こしたあと、私がするべきことを思い出し、彼女に言った。
「レポート、しっかりと読まさせていただきますね。それと、もしもご興味があれば、自由思想連盟の会合が近々ありますので、よければお越しください」
ナオミは満面の笑みで頷き、よろしくおねがいします!と返してくれた。
講義室を出た私は新たな希望の種を見つけるとともに、ある計画の進捗に一抹の不安を抱いていた。
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