この鍵は――

 

「じゃあねー、相楽さん。

 了弥に襲われそうになったら、電話して」


 そう言い、居酒屋の前で、朝日が手を振る。


 相楽さん、と神田は手を握ってきた。


「君は妙なところで生真面目な人だけど。

 変な貞操観念に縛られて、了弥と一緒にならなくてもいいんだよ。


 言ったじゃない。

 僕じゃなくても、僕を好きになってくれたら、それでいいって」


 なにを言ってんだ、お前らは、という顔で、了弥が二人を見ていた。


 未里は早々に、迎えに来たご主人に連れ戻されていた。


 あの日も子供が泣いたからなんて嘘だったんだな、と思う。


 きっと、同窓会に行った未里が心配で、無理やり子供を泣かせたに違いない。


 なんだかそれも微笑ましいが。


 そんな微笑ましいカップルに、朝日が、

『どうも、元彼の佐藤朝日です』

と余計な挨拶をして、波風を立たせようとしていたが。


 ……困った人たちだ、本当に。


 でも、本当に困った人なのは、この人だな、と了弥を見る。


 私の苦悩を知っていて、何故、今までなにも言わなんだかーっ!

と小僧を取って食おうとする鬼婆くらいの勢いで、睨んでみたが、こちらを見ない。


 朝日と神田はまだ二人で呑みに行くようで、彼らと別れ、了弥と夜の街を歩いて帰った。


「今日はあっち帰るか?」

と了弥が言う。


 確かに、此処からなら、瑞季のマンションの方が近い。


 ……鍵も二本あるようだしな、と思った。


「神田、香月、朝日、了弥か。

 他は名字なのに、了弥と朝日くんだけが名前で呼ばれてるのは、同じ名字だったからなのね」


「香月と会ったときは、もう真島に戻ってたんだが、神田が、名前で呼ぶからあいつもそれに合わせて呼んでたようだな」

と了弥が言う。


「いや……思い起こせばいろいろとあるのよ。


 わかってる。

 気づかなかった私が悪いのよ」


 でも言ってくれたって、と了弥を見上げる。


「……お前は望まなかったんじゃないかな、と思ってたから。


 でもあの朝、機嫌が悪いながらも話しかけてきたから。


 ああ、許してもらえたのかな、と思ってたら、なにも覚えてないとか抜かすから、俺の方が卒倒しそうになった」

と言う。


「お前が全部忘れているのなら、一からやり直そうと思ったのに、お前はどうしても、あの晩の男を割り出したいみたいで。


 次から次へと男を渡り歩いて」


 なんて人聞きの悪い言い方をするんだ。


 訊いて歩いただけではないか。


 どうなんだろう、この被害者面、と瑞季は思う。


「私は……どうしてもハッキリさせたかったの。

 変な貞操観念を持つなとみんなに言われたわ。


 でも、気になったから。

 なんだか……あの夜、そんなに嫌じゃなかった気がして」


「今、なんて言った?」


 二度は言わない、と瑞季は肩が触れそうなくらい近くに居る了弥を見ずに言った。


「朝日くんの言う通り、私が弾みだったしても、嫌いな人とそんなことするわけないって気がついた。


 だったら、貴方しか居ないと思ったの」


「……今のところ、もう一回言ってみないか?」


 だから、言わないって、と瑞季は赤くなる。


「それで、朝日くんのところにも、神田くんに止められたのに、一人で行ったの。

 ただ、確かめるだけだと思ってたから。


 朝日くんじゃないってことを」


「相手が悪すぎだろ」


 よく無事に帰ってこれたな、と変に感心して言ってくる。


「あのとき、本当はなんて思ったの?」

と言うと、え? と了弥が言う。


「相手が見つかっても責めるなって私に言ったじゃない。

 あのとき、襲われたのは私に問題があったんだって言ったでしょ」


『例えばその……お前がすごく……』

『色っぽかったとか』


『それはない』


『じゃ、積極的だった』


『それもねえだろ』

と了弥は切って捨てた。


「お前がすごく、なんだったの?」


 忘れろ、と了弥は言ったが、少し考えて、スマホの画面を向けてきた。


「……いつ撮ったの、これ」


 それは眠っている瑞季の写真だった。


 子供みたいな寝顔だな、と思う。


 我ながら、あどけないというか、なんというか。


 恐らく、あの晩のものだ。


 それだけ見せて、了弥はなにも言わなかった。


「……聞きたい、口に出して」


 言えるかっ、と吐き捨てる。


 本当にやさしくないな、と笑ってしまった。


「結構遠いね。

 なんか疲れてきちゃったよ。


 ちょっと靴ずれしてるし」


「その服、朝日の趣味だな」


「そうなの。

 わかる?」


 お前がいつも着てるのとはちょっと違う、と不機嫌に了弥は言う。


「……おんぶしてやろうか?」

「えっ?」


 住宅街に入り、もうあまり人気はなかった。


「5秒以内に乗れ」

と道端にしゃがんだ了弥が言う。


「5……4……3……2……」


 人はカウントダウンされると、焦ってやってしまうのは何故だろう。


 背負ってもらうのは恥ずかしいなと思っていたのに、慌てて乗ってしまった。


 すぐに了弥が立ち上がる。

 だが、歩き出すまで、一瞬、間があった。


「あ、重いって思った」

「……まあ、予想外に」


 殴ろうかな、と思ったが、とりあえず、黙っていたのは、了弥の背中が心地よかったからだ。

 

 温かいし、いつもより視界が高いし。


 近所のいい香りのする木々を揺らした夜風が鼻先を掠めていく。


 そして、了弥自身のいい匂いがする。


 了弥の頭に頭を寄せると了弥は言った。


「まあ、重いが……

 これも、幸せの重みかな」


 なんだかちょっと泣きそうになった。


 いや、泣いてるな、私、と思う。


 あの夜からずっと張り詰めていた緊張が、今、やっと、ぷつりと切れた気がした。


「……悪かった」

と了弥が言う。


「なにが?」

「いろいろだ」


 了弥はいろいろと考えているようだが、私が謝って欲しいのはひとつだけだ、と思っていた。


 あの夜の相手が自分だと黙っていたこと。


 それだけ。


 本当にうっかりだ。


 私だけじゃない、了弥もだ。


 そんな私たちの最大のうっかりは、相手が自分のことを好きじゃないんじゃないかと疑ってしまったことだ。


 ただ一言、口に出して訊けば、それで終わることだったのに。


 随分と回り道してしまったな、と思いながら、近所の家の上に瞬く星を見る。


「だって、了弥、モテるしさー」


 ぼそりとそんなことを呟くと、

「なんか言ったか?」

と言われる。


 ううん、とその頭にまた、頭を寄せた。


 なに言ってんだ、このバカップルが、と今のを聞いていたら、朝日と神田が冷ややかに言いそうだな、とちょっと思った。


 


 了弥が予備の鍵で開けてくれ、部屋に入ると、ソファに下ろしてくれる。


「靴は脱げ」

と言いながら。


 笑ってしまう。


 靴を脱ぐと、了弥がそれを玄関まで持っていってくれた。


 その背中を視線で追っていると、トイレが目に入った。


「そういえば、なんで、トイレットペーパーにバーカとか書いたのよ」


「だって、お前が怒ってるかな、とかいろいろ悩んでたのに、覚えてないとかなんなんだと思って。


 出先から戻る途中、お前の家に寄って。


 ちょっと前の晩のことを思い出しながら、感慨に浸るというより、腹を立てていて」


 ちょうどポケットに出先で使った油性マジックがあったんだ、と了弥は言う。


「本当は、白い壁かベッドに書いてやろうと思ったんだが」


 子供か。


「これ、お兄さんの家だったなと思い出して。

 流せるトイレットペーパーに書いたんだ」


 一応、気は使ってくれたわけか。

 気の使いようが、ちょっとおかしいが。


「お茶でも淹れるよ」

と溜息をついて立ち上がる。


 そういえば、うちで、ピラミッドの番組が始まると騒いだとき、了弥は壁の時計を見ずに、自分の腕時計を見ていたな、と思い出す。


 うちの時計が遅れていると知っていたからだったのか。


 そういえば、来て、だけで、家まで来たし。

 部屋番号も教えていないのに。


 あの日から今までずっと動転したままだった気がする。


 だからそんなことにも気づかなかったんだなと、今、気がついた。


 なんとなく、壁の時計を見ていると、いきなり後ろから了弥が腕を回し、抱き寄せてきた。


「ちょ、ちょっと、あの、お茶を……」

と言ったが、


「いらん」

と言われる。


 そのまま、ベッドまで引きずって行かれた。


 そこに、ぽい、と投げ捨てられる。


 なんとか座ると、横に腰掛けた了弥が、目を見つめて言ってくる。


「やり直したいんだ、瑞季。

 今度はちゃんとお前の意志を聞いてから」


 いや、既になにも訊かずに此処まで引きずってきてますよね? と思ったが……。


 確かに。

 あのときは怖かったんじゃないかと思う。


 いつもと違う了弥が。


 だから、忘れようとした。


 本当に自分のことを好きでそうしたのか、弾みでそうしたのかわからなかったし。


 そんなことを考えている間に、あのときと同じにベッドに押し倒され、キスされる。


 少しずつ記憶が蘇ってきたのは、今日の了弥は怖くなかったからだ。


 ちゃんと、目を見て訊いてくれるから。


「……大丈夫か?」


 そう了弥がやさしく囁くように訊いてくれる。


 その黒い瞳を正面から見つめ、瑞季は言った。


「怖いけど。

 今日は頑張る」


「頑張るのか」

と笑われる。


 瑞季は赤くなり、

「そうじゃなくて。

 意識を飛ばさないように頑張るって意味」

と言った。


「……ところで、ひとつ疑問なんだが、お前んちの親は、お前の貞操観念をそこまで強くして、どうしたかったんだ」


 修道女にでもするつもりだったのか? と言ってくる。


 でもまあ、と了弥は笑った。


「おかげで、今まで誰とも付き合わずに居てくれたのなら、それでいいか」


 なんだかやっぱり泣きそうだな、と思った。


「それにしても、許しがたい」

「えっ?」


 了弥は片目を瞑って瑞季を睨む。


「なんで、俺じゃないと思った。

 他の男とする当てでもあったのか?」


「あ、あるわけないじゃん。

 だって、了弥が私のことを好きだとか思わなかったし」


「なんで?」


 なんでってなんだ?


 とてもそのような態度には見えなかったからですよ。


 しかし、怒っているということは、自分では態度に出していたつもりなのだろうかな。


 わかりにくい人だ、と思う。


「鍵、返そうか?」


 そう了弥が訊いてくる。


 誰だかわかんないけど、鍵、返してくださいっ、とずっと思っていた。


 だけど――。


「……返さなくていい」


 赤くなって瑞季は言った。


 ちょっと笑って、了弥がもう一度口づけてくる。


 重いな、と思う。


 了弥の体重、重すぎる……。


 だけど、きっと、これも彼の言う幸せの重みだ。


 なんで、あの夜の相手を了弥だと思わなかったのか、ちょっとわかる気がする、と今、思った。


 人は幸せを前にした方が臆病になるから。


 そのとき、了弥がいきなり起き上がった。


 辺りを見回す。


「どうしたの?」

と訊くと、


「……いや、朝日と神田が何処かに居る気がして」


 あいつ、ほんとに鍵コピーしてないのか、と言いながら、了弥はドアにチェーンをかけに行った。


 笑ってしまう。




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