全部なかったことにする気?



 病院は、一時過ぎまでやってるところが多いからと、二時過ぎに他の部署に行った帰りに人気のない別館の階段でかけてみることにした。


 昨日の神田に対する応対を聞いていたので、すぐには捕まらないだろうなと覚悟しながらかける。


 だが、朝日は、三度目の呼び出し音が鳴り終わる前に出た。


「あの……」


 私、相楽瑞希だけど、覚えてる? と言おうとしたのだが、あの、で話は遮られてしまった。


『相楽さん、遅いよ』


 いきなり、朝日がそんなことを言い出したからだ。


 えっ、遅い?


 神田くんに番号聞いてから、かけてくるまでが遅いということだろうか、と思っていると、


『あのまま、しらばっくれるつもりかと思った』

と言って、朝日は笑う。


 いや、笑ってはいるのだが、何処か冷たい口調だった。


「え、え……と、なんの話?」

と鼓動が速くなりながらも問うと、


『まさか、全部なかったことにする気?』

と朝日は言った。


『まあ、それでもいいよ。

 僕、別に女の子なんて信用してないしね』


 いやいやいや。

 なにがあったか知らないが、人様をそういう結論たどり着かせてはいけない、と思ったとき、朝日が言った。


『相楽さん、僕と結婚してくれるって言ったよね?』


 はい~っ!?


『でもまあ、酔っ払いの戯言ざれごとかなとも思ったんで、君から連絡来るの待ってたんだ』


 ちょ……


 ちょっとクラクラしてきましたよ?


 い、いや。


 いや、待て。

 まだわからない。


 もしかしたら、呑み会の席で、酔って調子よくみんなの前で言っちゃっただけかもしれないし。


「あの、それって、あれ?

 みんなの前で……」


 瑞希が言い終わらないうちに、朝日が言う。


『君のマンションはわかってるから、連絡つかないこともなかったんだけど。

 君から言ってくるまでは待ってようと思ってたんだ。


 ……相楽さん?』


 自分が黙り込んだので、朝日はそう呼びかけてきた。


「あ、あの……実は、あの晩の記憶がないんだけど」

と言うと、朝日は、へえ、と冷ややかに言ったあとで、


『まあ、そんなことじゃないかと思ってたけど。

 相当酔ってたみたいだからね。


 危ないよ、女の子が』

とまた此処で説教される。


 そ、そうですね。

 すみません。


 普段はそんなに呑むことはないのですが、みんなに会えた懐かしさからつい、と思ったが、声には出せなかった。


 なにもかもが今更遅い言い訳のような気がしてきたからだ。


『まあ、全部なかったことにしたいのなら、それでもいいけど。

 これ、僕が持っててもいいわけ?』


  金属とプラスチックが擦れ合うような音がした。


 鍵とそれについていた予備と書かれたプレートのような気が……。


 だが、口に出して確かめたくはなかった。


『今日、仕事終わったら来て。

 ああ、早く終わったら、迎えに行ってあげるけど。


 今日は、話の長いおばあちゃんが来る日だから』


 朝日は最寄駅を教えてくれ、そこからはタクシーに乗って、佐藤医院まで来いと言ってきた。


『タクシー代は僕が払うから。

 ああ、なんだったら、そこからタクシーで来てもいいよ』


 そんなことを言ってくれるが、全部、耳を素通りしていた。


 なんて言って、朝日の電話を切ったのかもわからない。


 しばらく、階段に座り込み、ぼんやりしていたようだ。


 ああ、早く戻らないと真島課長に怒られる、と思ったとき、


「うわっ。

 どうしたの? 瑞希ちゃんっ」

と下から声がした。


 霊かと思ったっ、と失礼なことを言いながら、笙が階段を上がってくる。


 いや、そのくらいぼんやりしていたようだ。


 終わった……。

 なにもかも、と思っていたが、なにが終わったのか、自分でもよくわからなかった。





 結局、部署に戻ってから、了弥の顔もまともに見られず、ぼんやりするなと怒られて。


 その間も何度も時計を確認した。


 朝日の話は断片的で気になることがいろいろとあったからだ。


 まだちゃんと全部聞いたわけじゃない。


 蜘蛛の糸より細い希望にすがりつくように、瑞希はそう思っていた。





 定時になると、即行帰り支度をした。


「お先に失礼します」

と了弥たちに挨拶に行くと、了弥は不審げにこちらを見ていたが、職場なので、なにも訊いてはこなかった。


 家に帰ってから訊けばいいとでも思っていたのかもしれない。


 だが、このとき、了弥に一言言っておくべきだったと後から思った。


 ただ、自分のやましさからなにも手を打っておくことができなかった。





 は、早く着きすぎてしまった。


 ちょうど帰宅ラッシュの頃だ。

 道が混んでいて、結構時間はかかったのだが。


 朝日はまだ、問題のおばあちゃんの相手をしているようだった。


 受付はもう閉まっていたが、年輩の看護師さんが、もう終わるだろうから、と診察室の前のソファに案内してくれた。


 朝日の声が聞こえる。


 さっきの電話とは違う穏やかでやさしい口調だ。


 耳に心地いい声だな、と思った。


「ねえ、貴女、朝日先生の彼女?」

とその看護師、渡瀬わたせが訊いてくる。


 あ、いいえ、と言うと、

「そうなの? 残念」

と彼女は、がっかりした顔をした。


「え、なんでですか」

と言うと、


「いや、あんなことがあったからねえ。

 早く、朝日先生に彼女とか出来ればいいなと思ってたんだけど」

と言ってくる。


「あんなこと?」

と訊いたが、笑って教えてくれなかった。


 朝日の小学校の同級生で、同窓会で落としたものを彼に拾ってもらったので来たのだと告げると、


「あら、そうなの。

 でも、それもなにかの縁じゃない?


 うちの先生と付き合ってみない?」

と熱心に勧めてくる。


「いいと思うわよ。

 仕事熱心だし。


 顔はアイドルばりだし」


 いや、だったら、引く手数多だから、別に私がお相手しなくていいんじゃないですかね、と思ったのだが、


「でもちょっと……」

と案の定、渡瀬は言ってきた。


「女の子には手厳しいところがあるから、みんな逃げちゃうんだけど」


 ……い、いやです、そんな人。


「患者さんに接するときみたいにしてたら、いっぱい女の子寄ってくると思うんだけどね」

と小首を傾げている。


「おばあちゃんたちには、ファンが多いんだけどねー。

 若い娘さんは逃げ出しちゃうのよね」


「なに勝手な話してるの、渡瀬さん」


 見ると、ドアが開いて、おばあちゃんと、白衣を着た佐藤朝日が立っていた。


 うわっ、本当だっ!

 なんかのアイドルグループにこんな顔の人、居たよな、という顔をしている。


 これで医者なんだから、モテモテではないかと思うのだが。


 朝日はおばあちゃんを丁寧に送り出したあとで戻ってきながら、


「なにつられて一緒に頭を下げてんの?」

とこっちを見て少しだけ笑ってみせる。


 今、朝日がおばあちゃんに頭を下げるとき、つい、一緒に下げてしまったのを見られていたようだ。


 うわー。

 めちゃ可愛い。


 本当に、なんでこれで彼女が出来ないんだ、どんだけ怖いんだ、と思いながら、

「佐藤くん、久しぶり」

と言うと、彼は顔をしかめ、


「会ったよね、この間……」

と言ってくる。


 そ、そうでしたね。

 でも、その辺の記憶もなくて。


 早くから話していたはずの神田くんでさえ、最初、小学校の顔しか思い出せなかった程なんですが……。


「僕、今日、これで上がりますね」

と朝日が渡瀬に言うと、渡瀬は、


「はいはい、ごゆっくりー」

とニンマリと笑った。


「どうしよう。

 なにか食べに行く?」


 外食してくるとは了弥に言ってないな、と思っていると、朝日は白衣のポケットからそれをチラと出して見せた。


「そのあと、これ返してあげるから」


 あっ、と思った。


 その予備と書かれたプレートは確かに見覚えのあるものだった。


 再び、くらっと来たが、なんとか踏ん張る。


「そ、それがご飯今日は帰って食べないとっ!」


 一人暮らしじゃなかったっけ? と突っ込まれるかと思ったが、朝日はそうは言わずに、


「そう。

 じゃあ、ちょっとついてきてよ、うちまで。


 近くの自宅に車置いてるんだ。


 帰り急ぐんだったら、送っていきがてら、話しようか」

とありがたい申し出をしてくれた。


 確かに、それなら、予定より早く戻れるかも、とこのときは思った。



 

 

 

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