ピンチです
廊下を歩いていた了弥の耳に、その言葉は飛び込んできた。
「じゃあ、真島課長、私にちょうだいよ」
月橋エレナの声だ。
えっ? と瑞季が言っている。
「いらないんなら、ちょうだいよ。
あの人、意外と悪くないかもって最近思い始めたの」
「えっ、やだっ」
という瑞季の、思わず、といった感じの返事が聞こえてきた。
つい、笑ってしまう。
「へー、月橋エレナはお前が好きなんだ?」
そんな声が耳許でした。
誰かが急に肩にのしかかってきたと思ったら、笙だった。
しっし、と手で払う。
「なに、にやにやしてんの?
相楽さんが、お前をやらないって言ったから?
いやー、単に、人がくれって言ったから、惜しくなっただけかもよ?
ほら、お前って、相楽さんから見て、都合のいい男っぽいじゃん」
と言われ、笙の足を踏んだ。
誰が都合のいい男だ。
まあ、なんとでも言え。
今は、うっかり出たらしい、瑞季の『やだ』という言葉だけで嬉しいから。
そう思ったのだが、そのあと、瑞季のスマホに神田かららしいメールが入る。
笙の嫌味よりも、その方が気になった。
昼休み、社食で、笙と瑞季と一緒になったが、みんな普通に話していて。
もちろん、瑞季がこんなところで、神田からのメールの話をするはずもない。
ロビーに下りて、それぞれが話し始めたときには、二人になるタイミングもあったのだが、瑞季はなにも言わなかった。
職場だからか?
それとも、このまま報告する気はないのか?
昨日、ちょっときついことを言いすぎたからかな、と了弥は不安になる。
瑞季から神田の情報が入らなくなることの方が怖いと気がついた。
もうちょっと泳がせておいた方がよかったか、と壁際から、今は、エレナたちと話している瑞季を見ていると、笙がまた寄ってきた。
「なに離れたところから、相楽さん見つめてんの?
ストーカー?」
と言ったあとで、そうそう、と笑う。
「瑞季ちゃんって呼んでいいんだった」
と嬉しそうに言ってくる。
……はっきり言って、俺より望みが薄そうだと思うのだが、何故、こいつは、こう怯むこともなく前向きなんだ。
そんな本気じゃないからだろうか、と思いながら、
「お前、ほんとに瑞季が好きなのか?」
と訊くと、
「ちょっといいなと思ってるよ」
と言うので、その程度か、と言うと、
「いや、今は結構本気だよ」
と言ってくる。
「それなのに、なんで、そんな余裕なんだ。
自分で可能性があると思ってんのか?」
「いやいや。
世の中、なにが起こるかわからないじゃない。
その『なにか』はすごくいいことかもしれないじゃない?」
お前のそのポジティプさを俺に分けて欲しい、と了弥は思っていた。
昼休みが終わるので、ロビーに居たみんなが、コーヒーのカップや、アイスの紙を捨てにゴミ箱に行ったりして、動き始めた。
了弥は少し迷って、笙の許を離れ、瑞季の側に行ってみた。
「あれから、神田からは連絡があったか?」
と問うと、瑞季は一瞬、びくりとしたあとで、
「……うーん。
あったかな」
と曖昧にだが、答えてくれる。
ホッとしながらも、此処で話さなくなったら、かなりヤバイ兆候だよな、とも思っていた。
「なにか思い出したことがあるんだって。
夜、学校に来ない? ってメールが来たの」
一旦、口にすると、本当は相談したかったのか、瑞季はいつものように話し始めた。
「夜の学校か」
と呟くと、
「まあ、先生って、結構遅くまで残ってるもんね。
忙しくて出ては来られないのかも」
と少し小首を傾げながら瑞季が言う。
ちょうど誰かが渡り廊下の扉を開け、風に吹かれた、いい香りのする瑞季の髪が鼻先をくすぐった。
いつも、瑞季が先に入ったあと、風呂場に漂っているのと同じ匂いだ。
一緒に暮らしているという優越感が、少し心に余裕を生じさせていた。
「なにを思い出したんだろうな?」
と問うと、
「わからないんだけど。
同窓会の日のこととかかな?」
と言ってくる。
「神田くんが問題の人じゃないのなら、誰だったのか、ヒントになるようなこと、思い出したのかもしれないし」
「そんなの思い出したって、お前に教えるわけないだろ」
そうかなあ、と相変わらず、恋愛問題には疎い、瑞季は言い、
「じゃあ、DVDのこととかかな?
実は、スペシャル版も録画してたとか」
と真剣な口調で言ってくるので、笑ってしまった。
あっ、なにっ? という顔で、瑞季がこちらを見る。
いや、と言いながら、渡り廊下の扉を押した。
また強い風が吹き込み、瑞季の髪を自分の鼻先へと運んできた。
まあ、夜の学校も役員の父兄や、体育館を使用する人たちがたくさん居るし、大丈夫か、と妙な余裕から判断してしまった。
えーと。
なんで私は、この人に、上に乗られてるんでしょう?
神田に組み敷かれた夜の保健室で、彼の白い整った顔を見上げながら、とりあえず、記憶をさかのぼってみよう、と瑞季は変に冷静になっていた。
多分、心がまた、逃避してしまったせいだ。
今日は酔ってはいなかったので、
酔っています
酔っていません
酔っています、の方に舵を切ることは出来なかったが。
えーと。
確か、神田くんに呼ばれて、夜の学校に来たんだった。
他の先生も二、三人残っていて、神田くんが、同級生なんです~っ、なんて紹介してくれて、楽しくおしゃべりをした。
その先生たちが帰っちゃったから、戸締りに付き合って言われて。
警備のロックかけるの失敗して、すごい音がし始めて、警備会社に通報が行った笑えない笑い話なんかを聞きながら、二人で校舎を見回った。
そのうち、話が自分たちの学校の怪談になり、この学校の怪談になり、保健室のベッドにしゃがんでいる女の子の霊が出る話になり。
気がついたら、ベッドに押し倒されていて、上に神田くんが乗っていた、と。
いや、待て。
やはり、学校の怪談から、こうなるくだりが意味がわからないのだが。
「思うんだけど」
窓から差し込む月光の中、神田はふいに口を開いた。
「試してみたら、わかるんじゃない?
僕があの夜の男かどうか」
いやいや。
あんた、未里かっ、と思った。
「神田くんじゃないよ。
それはもう、わかってることじゃない」
へー、と神田は上に乗ったまま、冷ややかに見て言う。
「なんで、そう言い切れるの?
僕が僕じゃないフリをしてたのかもしれないじゃない」
「なんでよ?」
「あの晩は無理やりだったから、思い出して欲しくないのかもしれないじゃない」
いや、今も無理やりですよ、と思っていた。
神田は強く瑞季の手首をつかんで笑うと、
「だからね。
やり直したいんだよ、今……」
と囁いてくる。
「あっ、あのっ。
体育館、まだ明かりついてるしっ」
と言うと、少し離れた神田は外を見、
「そう。
じゃあ、みんなが帰ってからにする?」
と言ってきた。
慌てて首を振る。
帰ってからでも、帰ってからでもなくとも嫌ですっ。
誰か怪我でもして、保健室に来てくれないだろうかと自分が骨折したときの辛さも忘れて願ってしまう。
「違ってもいいんじゃない?」
ふいに神田はそんなことを言ってきた。
「僕の方が良ければそれでいいんじゃない?」
あっちが過ちってことだよ……と言う。
神田が自分を見つめ、そっと唇を重ねてこようとした。
い……
「いやっ!」
そのとき、ふっと消えかけていたあの夜の断片が見えた。
そして、気づく。
あのときの自分が嫌がってはいなかったことに。
「やめてっ。
そうよ。
あのときのことが無理やりなはずはない。
だから、あれは神田くんじゃないわっ」
そう言うと、身を起こした神田は、瑞季の上に座ったまま訊いてくる。
「あれっ?
相手が誰だか思い出しちゃった?」
「いや……いや、誰かはわからないんだけど。
私があのとき、嫌がってなかったことだけは思い出したわ。
そうか。
神田くん、もしかして、それを私に教えてくれようとして……?」
神田の横、窓から見える体育館からは、明かりが漏れ、そーれっ、というバレーの練習のものらしい掛け声が聞こえてきていた。
此処とは全然違う、平和な別世界がそこにあるようだった。
今、一瞬、その世界に戻れそうな気がしたのだが、瑞季の上に居る神田はいつものように上品にニッコリと微笑み、
「違うよ」
と言ってきた。
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