絶対に奴には会いたくない……


 瑞季の呼吸音が変わった。

 眠ったようだな、と了弥は思う。


 もう悪い夢を見ないといいが、と思いながら、その寝顔を眺めた。

 ベッドについた自分の手にかかる瑞季の髪にそっと触れてみる。


 やわらかなそれはいい匂いがして。

 もうもんじゃ焼きの香りはしなかった。


 よしよし、と了弥は思う。


 他の男と出かけたときの匂いが残っているのは、あまり気持ちのいいものではないから。


 そのとき、瑞季が寝返りを打ち、

「ふふふふふ」

と笑い出した。


 ……なんなんだ、と思ったが、その寝顔を見ているだけで、なんだか幸せな気持ちになれた。


 だから、まあ、今はこれだけで我慢するか、と瑞季の額にそっと口づける。


 彼女を起こさないように。


「おやすみ」

と囁き、電気を消して出て行った。




 白いお面の夢は怖かったけど、あとは、いい夢を見た気がする。


 了弥が来てくれたからかな、と思いながら、瑞季は、職場の古いデスクトップパソコンの前で、ぼんやりしていた。


 ……それにしても、結局、あの夜の人は、神田くんなのかどうなのか。


 あれっ? やっぱり、この人じゃないのかな、と思うと、突然、覆すようなことを言ってくるし。


 そんなことを考えていたら、後ろから、

「相楽……」

と呆れたような声がした。


 了弥だ。


「なにを高笑いしてるんだ?」

と言ってくる。


「は?」

と了弥を見上げ、行ったあとで、画面に向き直ると、画面いっぱいに、


 ははははははははははははははははははははははははははははははは

 ははははははははははははははははははははははははははははははは

 はははははははははははははは


と出ていた。


 ひゃーっ、と悲鳴を上げてしまい、みんながこっちを振り返る。


「かっ、怪現象っ!」

と慌てて消していると、


「莫迦。

 指がキーに当たったまま、ぼうっとしてたんだろ」

と言い、持っていた回覧で頭を叩いてきた。


「回しとけ」

とその回覧を横のデスクに投げられ、


「はーい……」

と立ち上がる。


 家だったら、命令かっ、と文句を言うところだが、此処では、了弥は課長様なので、仕方がない。


 素直に従った。




 なにが、はははは、だ。

 莫迦が、と了弥は瑞季を見送ったが、あの間抜けな画面と、気が抜けるような瑞季の悲鳴を思い出し、笑う。


「なにかこう、急接近だねえ」

という声に振り返ると、同期の安西笙あんざい しょうが立っていた。


 すっきりとした和風の男前で、同期の女子が、安西くんって、歌舞伎役者みたいだよね、と言っていた。


 瑞季は、何故か、歌舞伎役者が隈取りのメイクをした顔を思い浮かべたらしく、

『なんで?』

と言って笑っていたようだが。


 ……また、瑞季のくだらないエピソードを思い出してしまった、と思いながら、

「なにが?」

と訊く。


「相楽さんとお前。

 まあ、もともと仲よかったけど。


 なんか一段とべったりになってない?」


「なってない」

と素っ気なく言うと、へー、と言い、


「まあ、モテるよな。

 その年で課長とかなると」

と嫌味を言い、ほら、と彼の課の課長に頼まれたらしい書類を渡してくる。


「ああ、すまん」

と受け取ろうとすると、さっと書類を上へと上げる。


 上に手を伸ばすと、左へ避ける。


「……なにやってんだっ」


「嫌がらせ」

と言ったあとで、ほら、と投げてきた。


 なんなんだ、お前は~っ、と同期の背を見送る。


「大変だねえ」

とたまたま見ていた丸っこい顔の人の良さそうな経理の部長が言う。


「まあ、その年で課長とかなると、同期にはやっかまれるよね」


 それはまあ、そうかもしれないが。

 今のはそれでだろうかな、とちょっと不安を覚える。

 



「相楽さん、大欠伸だね」

 エレベーターで誰かが声をかけてきたと思ったら、同期の安西笙だった。


「あ、安西くん、おはよう」

と瑞季が笑いかけると、渋い顔をする。


「前から思ってたんだけどさ。

 なんで、了弥は了弥で、僕は安西くんなの?


 同じ同期なのに」


 えーっ、と苦笑いしていると、

「僕のことも、笙って呼んでよ」

と言ってくるので、


「えー?

 それは無理」

と言うと、


「なんでだよ」

とちょっと膨れて言ってくる。


 そういう顔はちょっと可愛いな、と思いながら、

「いや、うち、おにいちゃんが、『しょう』って名前なの。

 おにいちゃん、呼び捨てにしてるみたいで怖いから」

と笑うと、


「じゃあ、笙くんで」

と言う。


 えーと。


「だって、同期で名前で呼んでるの、了弥だけじゃない?

 了弥と付き合ってるの?」


「違うけど」


 世話にはなってるけど。


「じゃあ、僕のことも名前で呼んだ方がいいよ」

「な、なんで?」


「了弥ひとりを特別扱いすると、あいつ、ますます同期の中で浮いちゃうよ。

 それでなくとも、ひとりで役職づきになって浮いてるのに」


「……そうなんだ」


 まあ、そういうこともあるかな、とは思っていた。


「相楽さんがしょんぼりすることないじゃん。

 やっぱり、了弥が好きなの?」


「そう……じゃないと思うけど。

 なんか同期の中で、そんなの嫌じゃない」


「でもまあ、了弥と結婚したら、いいよね、きっと。

 あいつはもっと上まで行くよ」

と言うので、


「いや、私は結婚相手には、上まで行くとかそんなのじゃなくて、普通にみんなと楽しく過ごして欲しいんだけど」

と言うと、笙は笑い出す。


「さすが、相楽さんだね」


「ねえ、あ……笙くんも了弥のこと、こらーって思ってる?」

と訊くと、


「こらーって、なに?」

と苦笑いしながらも、


「いや、僕は思ってないよ」

と言ってくる。


「あいつが頑張ってるから、ちょっと先に行っただけ。

 僕もすぐに追いつくよ。


 そのとき、僕も一緒に叩かれたら嫌だから、ちゃんと了弥が同期から嫌われないよう、根回してしてやってるんだよ」


 あいつは、人間関係の調整とか、そういうの苦手だから、と言う。


 ……計算高いような、人がいいような。


 ぷっ、と瑞季が笑うと、笙は、

「だから、あいつが同期に妬まれるとしたら、どっちかって言うと、仕事のことじゃなくて、君のことじゃない?」

と言ってくる。


「それに関しては、僕も妬んでるしね」

「へっ?」


「いや、本当に」

と何処までが本気で、何処までがおべんちゃらかわからない調子で、笙は言ってくる。


「でも、相楽さんってさ。

 やっぱり、了弥とは付き合ってないんだ?」


 うん、と言うと、

「いや、坂上が、相楽さんは、絶対、処女だった言ってたから」

 バタ、と手からファイルが落ちる。


「あいつ、見たらわかるとか言ってたよ」


 ロクでもない能力だな。

 坂上くんとは、今後、二度と顔を合わせないようにしよう、と思う。


 二度と……


 絶対。


 はい、と拾ってくれたファイルを渡しながら、笙が言ってきた。


「ところでさ、相楽さんが僕のことを笙って呼ぶんだから、僕も瑞季って呼んでいい?」


「え、それは別にいいけど」


 瑞季がボタンを押していた階に着いたので、笙が、開くボタンを押しておいてくれる。


 ありがとう、と言って、そそくさと降りた。


 坂上、二度とあいつとは会うまい。

 絶対に、と遊び人の同期の顔を思い浮かべ、すぐに揉み消した。


 


「あれっ?

 この私が作ったサラダ、意外に美味しい」


 今日は早くに帰った了弥と二人、夕食を食べながら瑞季が笑うと、

「……確かに美味いが、お前、チキン裂いただけだろ」

 偉いのは、コンビニ様だ、と了弥は言う。


 二人で二品ずつ作ったのだが、瑞季が作ったこのサラダは、ちぎったレタスに、コンビニの味付きチキンを裂いて入れただけだ。


「これを選んだのは私の手柄でしょ」

と言うと、おかしな威張り方をするな、と言われる。


「なあ」

「んー?」

と了弥の焼いた魚は火加減が絶品だな、と思いながら、返事をすると、


「日曜日、やめとけよ」

と了弥が言い出す。


「え、なんで?」

「別に無理に神田にDVD焼いてもらわなくても、レンタルで借りればいいだろ」


 いやあの、話が変わってるんだけど。

 別に私はDVDもらいに行くわけでは、と思いながら、


「そんなこと言って、日曜まで待てないから、今日借りに行こうとか思ってるんでしょ」

と言ってやる。


 朝、ご飯食べながら、なんとなく一緒に見ていたら、了弥の方がはまってしまったのだ。


 彼は、今、続きのDVDを切望している。


「平日、そんなもの見る暇あるか。

 どうせ見るのなら、まとめてみたいし」

と言う了弥に、あんた、どんだけ本気なんだ……と思った。


「まあ、DVDはともかくとして、神田くんに、もうちょっと話聞いてみたいから、やっぱりちょっと行ってみるよ」

と言うと、少し機嫌悪く、ふうん、と言う。


「ところでさ、あの……

 了弥って、坂上くんとよく話したりする?」

と訊くと、坂上? と目を上げ、


「ああまあ、自販機の前とかで出会ったらな」

と言う。


 あ、ああ、そう……と誤魔化すように笑うと、了弥は冷ややかにこちらを見ながら、

「お前、二度と坂上には会わない方がいいぞ」

と言ってくる。


「なっ、なんでっ」

「あいつ、お前は処女だと言っていた」


 思わず、箸を落としていた。


「ほんとに当たるみたいだな。

 怖いだろ」


 いろいろ追求されたくなかったら、二度と会うなよ、と言ってくる。


「遠藤とか、自分の気に入った子とあいつを会わせたくないと言っている。

 余計なことを教えてくれるから」


 そう了弥が言うのを聞いて、実は、ちょっとほっとしていた。


 なんだ。

 普通に同期と話してるんじゃん、と思って。


 入社当時はよく一緒に呑んだりしていたが、みんな、仕事が忙しくなって、なかなか会えなくなっていたから、今の了弥が、彼らとどう接しているのかよくわからなかった。


 だから、笙の話を聞いて、ちょっと不安になっていたのだが。


 まあ……安西くんが、どういうスタンスで了弥と話しているのかはよくわかったけど、と思ったあとで、おっと、笙くん、か、と頭の中で訂正する。


「ねえ、DVDもう一回見る?」

と訊くと、


「いや。

 見たら、また続きが気になるから。


 っていうか、あの主役の俳優の顔、何処かで見たことがあるんだよな」

と言ってくるので、


「あ、今、刑事もののドラマとかに出てるよ」

と言うと、


「いや、そうじゃなくて、誰かに似てるような」

と言い出した。


 お前だよ、と心の中で、思う。


 鏡の中の自分の顔に似てるんだろう、と思ったが、言わなかった。


 正直言って、歴代イケメンヒーローの中でも、最も顔が整っていると思っている俳優だ。


 人気があるのは、別の人かもしれないが、顔だけで言うなら、一番綺麗だと思う。


 迂闊に、了弥に似ているとか言って、調子に乗られては困るからな、と思いながら、お茶を飲んだ。


 うむ。

 了弥の家はお茶も美味しい。


 了弥とは飲食に関しては、本当に趣味が合うな、と思っていた。






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