ヤバイ匂いしかしない


「どうした、瑞季。

 憔悴しきって」


 了弥の家のソファで行き倒れていると、帰ってきた了弥が外したネクタイをくるっと丸めながら言ってきた。


「いや……神田くんと話してたら、どっと疲れちゃって」


 鞄も横に放ったまま、既に愛着さえ湧いている真島家の素敵なソファに瑞季は寄りかかっていた。


「あの人の言うこと、なにが本当かわかんない~っ」

と言ったが、はいはい、と言いながら、了弥はキッチンの方に行ってしまう。


「ただひとつ、本当らしいのは、猫舌だって最初から知ってたってことだけだわ。


 そういえば、邪道だけどって言いながら、程よくパリパリになってきたもんじゃを皿に入れてくれてたのよ、初めから」

と言うと、電気ケトルにスイッチを入れて戻ってきた了弥がいきなり瑞季の髪に触れ、鼻先に持っていく。


「道理で、いい匂いがすると思った。

 もんじゃか」


「えっ?

 髪に匂いついてる?」

と言いながら、了弥につかまれた髪に触れ、身を引いたが、逃げかけたのは、髪に匂いがついているのが恥ずかしかったからではなく、了弥の顔が近かったからだ。


 キッチンに戻った了弥は、ほら、とマグカップに入れた珈琲を差し出してくる。


 ほっとする香りだった。


「……ありがとう」

とソファに座り直し、それを受け取る。


 了弥は横に腰掛け、

「で? 神田は違ったってわかったんだろ?」

と話をまとめるように言ってきた。


「……わかんない」

と言うと、飲むのをやめ、は? と言ってくる。


「だってさー。

 なんか神田くん、思わせぶりなことばっかり言うもんだもん。


 そもそも、なんで、私が誰かをお持ち帰りしたことを知ってるわけ?」


「そりゃ、お前の態度から察しただけじゃないのか?

 お前の場合、見てるだけで、いろんなことが丸分かりだからな」

と了弥は言ってくる。


「猫舌のことだって、俺も知ってたぞ。

 今だって、すぐ珈琲飲まないし」

と言われ、うっ、と詰まった。


「その調子で、なにもかも読み取られたんだろ?


 頭のいい奴なら、うまく誘導しながら、お前の口からヒントになることを引き出すことも可能だろうしな」

と言われ、ああ……と思う。


 そんな気がしてきた。


「まるで、怪しい霊能者ね」

と今此処に居ない神田に向かって愚痴る。


 やっぱり、彼が教師というのは、ピンと来ない気がしてきた。


 子供の頃接した小学校の教員に見られた純朴さが彼にはない。


 なんだかヤバイ匂いしかしない。


 あの一見、爽やかそうな笑顔がその印象を助長していると思うのは自分だけだろうか。


「それにしても、神田くん、そんなことして、なにが楽しいのかしら。

 って、きっと、私をからかってるだけよね?」

と言うと、まあ、そんなところじゃないか? と了弥は言ってくる。


「まあ、もうその神田って奴にも会うこともないだろ。


 ちょっと調べて気が済んだろ。

 この話は此処で終わらせろよ」

と言うので、


「いや、それは無理」

と言うと、


「なんでだ?」

と睨んでくる。


「だって、日曜日、神田くんと、また会う約束しちゃったから」

と言うと、なんでだ? と顔を近づけ、また訊いてくる。


 一緒のソファに座る了弥から後退りながら、

「だって、残りのDVD、日曜までに焼いてくれるって言うし」

と言うと、


「DVD?」

と訊き返された。


 特撮ヒーローもののDVDだと言うと、阿呆かと言われる。


「だって、それ、昔、好きだったシリーズなの。

 主役が……」


 おっと、と瑞季がそこで言葉を止めたので、胡散臭げに了弥は見てくる。


「いや、まだ神田くんじゃないと決まったわけでもないしね」

と誤魔化すように言うと、


「……お前、神田がその夜の男だったらいいと思ってんのか?」

と訊いてきた。


「そうじゃないよ。

 あ、そうだ。

 マンションの鍵どうなった?」

と訊いたのだが、了弥は、


「まだだ!」

と言い、脱いだ上着とさっきのネクタイを手に、出て行ってしまう。


 なんだかな~、もう。

 気が短いんだから。


 神田がくれたDVDが鞄から覗いていた。


 このシリーズの主人公、了弥と似てるんだよな……。


 だから、好きなわけじゃないけど。


 いやいや、本当に……と思いながら、自分も着替えてくるか、と鞄を手に立ち上がる。





 これは夢だな、と瑞季は思っていた。


 あの、酔っています、酔っていません、酔っていますの、酔っていませんの状態から記憶が再生されていたからだ。


 唯一覚えているあの夜の記憶だが、直視したくはない。


 だが、あのとき、現実逃避して、意識をすっ飛ばしたことを今も後悔しているので、ちょっと我慢してみた。


 もしかして、忘れたはずの男の顔が思い出せるかもしれないと思ったからだ。


 確かに、男の顔は見えた。


 だが、何故か、彼は、白いお面をかぶっていた。


 つるりとした、ただ、目と口だけ穴が空いているお面だ。


 なにか生贄の儀式ででも使うような。


 怖すぎるっ。


 誰か、助けてーっ、と夢の中で思ったとき、誰かが、

「瑞季」

と呼んだ。


 その声に引かれるように瑞季は目を覚ました。


 



「瑞季」

と自分の名を呼んでいたのは、ベッドに腰掛けている了弥だった。


 開いたドアから差し込む廊下の灯りの中、すぐ側に座っている彼の姿が、最初は影にしか見えず、ぎくりとしたが、やがて見えてきた自分を見つめる瞳に、ほっとする。


「大丈夫か?」

と言う彼に、


「怖かったーっ」

と叫ぶと、


「どうしたんだ、うなされて。

 悪い夢でも見たのか?」

と訊いてくる。


「生贄の人がっ」

「生贄の人?」


「生贄の人が私の上に乗ってたっ!」


 了弥は頭を抱える。


「えーと……

 ちょっと落ち着いて話せ」


 ま、まあ、突然、そんなこと言われても、そういう反応になるよな……。


 あまり語りたい話ではなかったが、夢の中であの夜の記憶が再生されたので、ちょっと我慢して、覚えているその先を見ようとしたことを了弥に告げる。


「それはあれだろ。

 顔を覚えてもいないのに、無理に思い出そうとしたから、そんな夢を見たんだろ」


 まあ、そうなんだろうけど。

 それにしても怖かった、と布団を握りしめる。


 了弥は、ひとつ溜息をつき、

「だから、もう全部忘れろと言ったろう」

と言ってくる。


「だって……怖いじゃない。

 もうちょっと此処に居て」

と言うと、ベッドから立ち上がりかけた了弥は溜息まじりに腰を下ろし、


 まあ、そうなんだろうけど。

 それにしても怖かった、と布団を握りしめる。


 了弥は、ひとつ溜息をつくと、渋い顔をして言った。


「だから、もう全部忘れろと言ったろう」


 忘れろなんて言われても、と思いながら、すがるように了弥の目を見ていると、彼は、

「じゃあ、俺としてみるか?」

と言ってきた。


 ……は?


「嫌な記憶を消したいときは、新しい記憶で塗り替えたらいいんだよ」


 俺が協力してやろう、と両の手首をつかんでくる。


 瑞季は、慌てて、その手を振り払った。


「け、けけけけ、結構ですっ。

 おやすみなさいっ!」


 庭先を駆け回るニワトリのように叫び、布団をかぶる。


 これ以上、トラウマを増やしたくないっ!


 了弥が少し笑うのが布団越しに聞こえてきた。


「じゃあ、早く寝ろよ」

と言って、出て行こうとするので、


「了弥」

と布団から顔を出して、呼びかける。


「ありがとう」

と言うと、了弥はちょっと手を挙げ、いやいや、と言ったあとで、


「襲うぞ、と言って礼を言われたのは初めてだ」

と笑って出て行った。


 待て待て。

 礼を言われたのは初めてだって、貴様はいつも、そんなことを誰に言ってるんだ、と思った。


 まったく、男なんてロクなもんじゃない。


 こっちもロクなもんじゃないと割り切って、全部忘れてしまえばいいんだろうけど、と思いながら、目を閉じてみたが、やはり眠れそうにはなかった。


 そういえば、家はどうなってるのかなあ。


 怖いから全然帰ってないけど。


 しかし、トイレットペーパーにバーカとか、神田くんがやるかな?

と思ったのだが、ビールのグラスの向こうから、にやりと笑った神田の顔を思い出し、


 ……意外とやるかも、と思った。


 なにかこう、いつも企んでそうに見えるんだよなあ。

 そんなこともないのかもしれないけど。


『びっくりした?』


 面白かったでしょ? とあの素敵な笑顔で言ってきそうだな、と思いながら寝たせいか。


 久しぶりに家に帰ったら、白い壁一面にバーカ、と書いてあって、帰国してきた、おにいちゃんにめちゃめちゃ叱られる夢を見た。


 うなされて起きると、

「まだ起きてんのか?」

とドアの向こうから声がした。


「起きてる……」

と言うと、しょうがないな、と言い、入ってきた了弥が布団を引っぺがす。


 わっ、と思って引っ張り返そうとすると、了弥はベッドに上がってきて、

「いいから、寝ろ。

 お前が寝つくまで見ててやるから。


 変な男が入ってこないように」

と言ってくれる。


「え、でも」


「気が変わらないうちに寝ろよ。

 寝不足だと、仕事でミスが増えるしな。


 お前、今日、最後に提出した書類、日付間違ってたぞ」


「えっ、すみませんっ」

とつい、職場で『真島課長』に話すように謝ってしまう。


「明日、朝一で直せ、おやすみ」


 課長の口調で言われると逆らえない。


「お、おやすみなさい」

と言い、目を閉じてみた。


 了弥との間に距離はあったが、彼の熱は感じた。


 そのまま、その触れてはこない熱が伝播したように身体が温まり、うとうととしてしまう。


 ……なにか忘れている気がする、と瑞季は、夢と現実の境で思っていた。


『スマホ借りるねー』

という神田の声が聞こえた気がした。


 それは現実に聞いたものなのか。


 それとも、神田の話に触発されて、頭の中で作り上げたものなのか。


 いや……


 その先にあった、なにか大事なことを私は忘れているような、と思ったときには、もう滑り落ちるように眠りの淵に落ちていた。


 きっと、了弥が側に居るからだ―― と遠ざかる意識の中、瑞季は思った。



 


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