死神と女神、あるいはただのバカップル

四月朔日燈里

『ボーイミーツガールより良いものはない』と誰かが言った

 生まれたときから、俺は誰かを殺してきた。


 始めは、血の繋がった実の母。

 病弱だった彼女は、出産時、医者に自分と子どもの命、どちらを取るか訊かれ、子ども──つまり、俺を取った。

 『諦めたら失うだけだけれど、諦めなかったらどちらも掴めるかもしれないじゃない』なんてことを、笑顔で父に告げながら。

 しかし、その努力も虚しく、彼女は力尽きた。


 その次に、俺が殺したのは父だった。

 男手一つで俺を乳飲み子から五歳まで、何不自由なく育ててくれた彼は、居眠り運転で突っ込んできたトラックから、俺を守って死んだ。

 その時、トラックの運転手も同時に亡くなっていた。

 事故現場は凄惨な光景で、どちらも即死だったのだという。


 父方の叔母夫婦に引き取られた俺は、またもやそこで二人、そして、彼女たちの子どもまで殺した。

 強盗殺人だった。

 家族団欒の昼下がり。

 配達員を装って家に侵入した強盗は、丁度おつかいに行っていた俺以外を撲殺して、部屋中を荒らし回り、帰ってきた俺を見るなり逃走した。

 現場の第一発見者も、警察に通報したのも、俺だった。


 警察が到着するまで、俺は彼らに必死に謝罪していた。

 『貴方たちが不幸になったのは、俺のせいだ』、と何度も、涙を零しながら呟いた。

 そして、『絶対に、犯人を捕まえてやる』と、冷たく固くなった手を握って、決意した。


 けれど、数キロメートル先の工事現場で、誤って鉄骨が落ち、一人の男性が犠牲になった事故が起こった。

 その男性の持ち物を調べると、多額の現金や、彼のものではない通帳、クレジットカードなどが入っていたという。

 彼は、間違いなく、一家を襲った強盗で、俺が捕まえるまでもなく、死亡した。


 その辺りからだ。

 親戚、近所、学校。

 果ては、町中から『死神』なんて異名を付けられるようになったのは。


 『関わった者は、皆死ぬ』、『あいつと目を合わせてはいけない』と、根も葉もない噂を──いや、本当の事か。

 俺と関わった者は、皆死んでいるのだから。


 不幸中の幸いとも言えるのか、いじめは起こらなかった。

 いじめたら祟られそうだから、なんて理由だと思うが。


 中学校に上がってからは、面白いもの見たさで関わってくる者が何人か居た。

 その頃の俺は施設に入っていて、そちらでも一人だったことから、どんなことでも人と関われるのは、嬉しいことだった。

 クラスのお調子者、オカルト好き、後は『俺のことが好き』と言ってくるような変わり者だったが、彼らとともに過ごす日常は、今でも思い返す度に楽しくて、嬉しくて、そして、泣きそうになる。

 彼らは皆、もうこの世には居ない。

 重い病気や、事故で、三年間のうちに永遠に別れてしまった。

 『お前のせいじゃない』と、俺の手を握って。


 放心状態で卒業式を終えた俺は、誰も迎えに来ない桜道を歩いて、俺が殺してきた人々の墓まで行って、これまでの感謝を伝えた。

 あの時は、もう生きる気力がなかったのだ。

 記念品でもらった花束から一本一本、彼らの墓に供えると、最後に残った一本を胸に、俺は裏山に向かった。

 裏山の頂上には、並大抵の力では折れないほど、大きな桜の木があったのだ。


 背負ったリュックの中には、折畳式の踏み台と太めのロープが入っている。

 切れないように、何重にも重ねてから首を括るつもりだ。

 そうでなければ、俺は死ねないだろう。

 ずっと、一人生き残り続けていた、俺なら。


 案外簡単に出来たな、とロープで作られた輪を引いて、首を差し込む。

 木の枝が軋む音がした。


 ここまで長かった。

 十五年という人生の中、俺は沢山の人の命を奪ってしまった。

 その罪を生きているうちに償うことは、出来なかったけれど、どうかこの死を贖罪とさせてほしい。


 そうして、俺は一歩踏み出した。

 はず、だった。


 ぱきりと音がして、俺の身体は地に落ちる。

 目を閉じていたから、まともに受け身が取れるはずもなく、枯れ葉と枝木に塗れながら地面を転がった。



「……なんで……!」



 怒りか、悲しみか、俺は空を見上げた。

 太い枝は、完全に根本から折れている。


 ああ、どうして気付かなかったのだろう。

 この桜の木は、もう枯れかけだったのだ。

 そして、最期の最後に俺を救って、枯れ果てたのだ。


 樹齢数十年を誇るであろう大木は、俺の手によって、その命を散らされた。

 風に乗って散りゆく、桜の花弁のように。


 ぼろぼろの幹に縋り付きながら、俺は泣き喚いた。

 どうしても死ねないことに、どうしても償えないことに、どうしても彼らの元へいけないことに。


 もう俺は生きられない。

 もう生きていけない。

 それなのに、何故世界は俺を生かそうとする。

 

 それが嫌で、辛くて、悔しくて、哀しくて。

 涙が枯れるまで、俺は泣き続けた。


 日が暮れ、辺りが赤く染まった頃。

 俺は山を下りて、夕焼けの帰路に就いた。


 けれど、この先の展望はない。


 一応、高校に合格してはいる。

 ここから数駅分離れた、隣町の公立高校。

 そこを選んだのは、俺が住まわせてもらっている施設からでは、この町の高校より、こちらの方が近かったからだ。


 しかし、俺のことだ。

 また高校でも、誰かを殺すことになるだろう。

 自分一人だけ生き残ることになるだろう。

 そうなるくらいなら、通いたくない。


 施設には悪いが、今から入学辞退の手続きを──。



「きみ、どうしたの? そんなに汚れて」

「……は、俺?」

「そう。きみだよ、きみ」



 後ろから、誰かに呼び止められた。

 若い女の声だった。


 振り返れば、そこに居たのは見目麗しい、同年代の少女。

 エプロンに三角巾と、いかにも『お手伝い中です』といった風貌だった。



「こんな時間に一人? 目も腫れてるね。いじめられてたの?」

「……いや、そんなことは」

「じゃあ、どうして?」

「……色々あって」

「その色々を聞きたいの!」



 矢継ぎ早に会話を推し進める少女。

 人に慣れていない俺は、しどろもどろになりながら何とか言葉を捻り出す。



「……嫌な、ことがあって」

「ふうん。そして?」

「……どこか、遠くに行きたくて。でも、出来なくて……」

「情けなく帰ってきた、と」



 『その言い方はないだろ』と思いながも、本当のことだと口を噤む。

 今の俺は、情けなく、汚らわしい。

 彼女のような人と話せているのも、奇跡のようなものだった。



「ま、いいか。ちょっとこっちにおいで」

「えっ、あの、手離して……!」

「いいから、いいから。こっち!」



 突然、彼女は、擦り切れた俺の手を強引に握り、どこかへ歩いていく。

 無論、ずんずん進んでいく彼女に、静止の声は届かない。

 成すすべもなく連行された俺が辿り着いたのは、とある洋食屋だった。



「……どこですか、ここ」

「わたしの家」

「はい?」

「だから、わたしの家。洋食屋やってるの。食べてってよ」



 大きな硝子窓からは、淡い暖色の光が満ちる店内が見えた。

 中では、客らしき人たちが笑顔で料理を口に運んでいる。



「いやいや、俺、今お金持ってないですし……!」

「わたしが代わりに払うよ。後で返しに来て」

「そういう問題じゃ──」

「面倒臭い! とっとと入る!」



 逃げようとする俺の背を押し、彼女は俺を店内に突っ込んだ。



「おう、お帰り。優薙ちゃん、そっちの子は──おい! おやっさん! 優薙ちゃんが男作って帰ってきおったぞ!」

「何ィ?! どこのどいつだ!」

「パパうるさーい。拾ってきただけ」

「拾ってきただとゥ?! そんな子に育てた覚えはありません!」



 一気に集まる視線。

 背後に助けを求めても、彼女は微笑むばかりだった。

 俺には、その笑顔が悪魔のように見えたけれども。


 俺の肩を引き寄せ、彼女はカウンター席に近付く。

 そこには、丁度一席分空きがあった。



「はいこれ、メニュー。好きなの頼んでいいよ。わたしの奢り」

「そんな、悪いです……」

「坊主、優薙ちゃんに恥かかせるつもりかい? こういうときはバシッと覚悟決めるもんだよ!」

「そうだそうだ!」



 断ろうとした俺だが、周りの気のいい親父たちに囲まれ、退路をなくしてしまう。

 少女はその様子を見て、太陽のようににかっと笑った。



「ほら、選べ選べ。全部美味しいよ?」

「……なら、おすすめで」

「ほう、おすすめとな。じゃあ、パパ! 当店自慢のオムライス!」

「あいよ、腕によりをかけて作るぜ! 娘はやらんがな!」

「『欲しい』とは一つも言ってませんよ?!」



 思わずツッコめば、どっと笑いが起こる。

 時間帯もあってか、カウンター席には仕事帰りの中年男性が多く、彼らは皆常連客であるようだった。



「んで、嬢ちゃん。いったい誰なん、この坊主? ボーイフレンドではないやろ」

「その辺死んだ顔でほっつき歩いてたから、拾ってきたの。マジで今にもぶっ倒れそうだったよ?」

「そんな顔……してたかもしれませんけど」



 してたかな、してただろうな。

 高速の自問自答。

 自殺に失敗して帰ってきたんだから、そりゃあそんな顔もしてるよな、と納得する。



「ということで、うちのご飯を食べて笑顔になってもらおうと」

「どういうことですか……」

「そういうことだよ」

「……話が通じないこの人」



 点と点が繋がらない思考に困惑しながら、俺は居心地の悪い空間に居続ける。

 周囲はにんまりとした顔で俺を見ているだけで、追い出そうとしない。

 こんな得体のしれない客、誰もが怪しく思うだろうに。



「ね、きみ中学生だよね。どこの中学校? わたし御高みたか!」

「……竜海たつみ西中です」

「隣町じゃん! いや近いけどさ。わざわざこっちまで来るって、何しに来たの?」

「……その、墓参りに」

「……ごめん、無神経だった」

「……大丈夫です、気にしないでください」



 会話が途切れた。

 一気に夜の冷たさが俺を襲う。

 耐えるために、テーブルの下で手をぎゅっと握った。



「昔は、こっちに住んでたの?」

「……はい。十歳くらいの時に、施設に引き取られることになって」



 中学で出来た友人たちの墓を、俺は知らない。

 彼らの家族に、教えてもらえなかったからだ。

 当然だとは思う。

 彼らを殺したのは、俺なのだから。


 だから、彼らの分の花は、学校に置いた。

 彼らとよく並んで歩いた道の隅に、誰にも気付かれぬように。


 その後に、親と親戚の墓に行って、裏山に行ったわけだ。



「そっか。どう? この町、昔と変わってた?」

「……いいえ、何も」



 幼い頃の記憶と全く変わらないこの町は、とても温かかった。

 春の陽射しのように穏やかで、気を抜けば泣き出してしまいそうになる。



「パパ、まだ?!」

「今出来る! あいよ、当店自慢のふわとろオムライスだ!」



 しんみりとした空気から一転、急に盛り上がる周囲。

 運ばれてきた、黄色と赤、申し訳程度の緑が添えられた料理。

 鼻をくすぐるのは、トマトの香りだった。



「さあ、召し上がれ」

「……いただきます」



 鈍色のスプーンを手に取り、とろりとした卵ごと、チキンライスを掬う。

 少女と出会った夕焼けのように赤く染まった米は、きらきらと艶があった。


 思い切って、一口で頬張る。

 口の中に広がる優しい風味。

 まだ熱い卵とライスをしっかり咀嚼して、飲み下したとき。

 俺は──。



「……泣くほど、美味しかった?」

「……ごめんなさい。誰かが作ってくれたご飯を食べるのは、久し振りで」

「謝らないでよ! ね、パパ!」

「ああ! そこまで喜んでくれると、職人名誉に尽きるぜ!」



 ああ、何故だろう。

 涙が止まらない。

 悲しいわけじゃないのに、溢れ出してくる。


 もう、枯れてしまうほど泣いたのに。

 まだ、残っていたんだ。



「……美味しいです。とても」

「そりゃあ良かった! お残しは許さないからな、ちゃんと全部食べるんだぞ!」



 ゆっくりと俺は頷いた。


 茜色の空、黄金の太陽。

 そう表せるほど美しい、このオムライス。

 残すなんて、初めから考えていなかった。


 米粒一つ残さず感触し、お冷もすべて飲み切った頃には、もう日は完全に沈んでいた。



「……ご馳走様でした」

「あいよ。皿はそこに置いといてくれ」

「いやあ。いい食べっぷりだったなあ、坊主!」

「ほんと、あれだけうじうじしてたくせに」



 周囲にからかわれ、少女に脇腹を小突かれ、愛想笑いをする俺。

 けれど、そこに気まずさはない。

 ここに来て小一時間ほどだが、もうすっかり馴染んでしまっていた。


 ちらりと時計を見た俺は、はっと気付く。


「……あ、そろそろ帰らないと」

「もう、そんな時間か。一人で帰れる?」

「大丈夫です。そもそも、ここまで一人で来ましたから」

「それもそっか。まあ、店の前までは付いて行かせてよ」



 常連客からの野次を交わしつつ、俺たちは店を出る。

 春だとしても、夜風は肌寒い。

 昼に晴れ晴れとしていた空には、星が輝いていた。



「……今日はありがとうございました。お金、明日に返しに来ます」

「別にいいよ。無理矢理食べさせたみたいなものだし」

「『恩は必ず返せ』って、親に口酸っぱく言われてたんです。

 返させてください」

「……そう。なら、ここで待ってるから」



 少女の後ろで一つ結びにした茶髪が、風に揺られている。

 食欲をそそる匂いもまた、風に乗って香る。



「また明日、ね」

「はい。また、明日」



 手を振って、俺たちは別れた。

 電灯の少ない夜道。

 だが、不思議と不安感はない。

 それがどうしてかは、今の俺には知りようがなかった。



「……名前、聞きそびれたなあ」



 呟いた声は風に紛れ、誰に聞こえることもなく、満天の星空に消えていった。






 翌日、俺は約束通り洋食屋にやって来た。

 営業時間を確認し忘れていたので、確実にやっているであろう昼頃に。

 そう、思っていたのだが。



「……閉まってる」



 昨日押し込まれて入った扉には、『CLOSED』と書かれた看板が下りていた。

 確かにあの時、少女は『また明日』と言ったはずだ。

 思い違いということはないはず。

 まさか、明後日と聞き間違えたか。


 などと店の前でぐるぐる考えていると、聞き覚えのある声が頭上から聞こえてきた。



「そこのきみ、昨日の子だよね! 言い忘れてたけど、今日定休日なんだ! 今そっち行くから、待ってて!」



 おそらく、店舗兼住居であった建物の二階部分の窓から、昨日出会った少女が俺に向かって手を振った。

 姿が見えなくなってから十数秒後、裏口かどこかから出てきた彼女が走ってくる。



「おまたせ! ごめんね、そこまで気回ってなかった」

「そこまで待ってないので、気にしないでください。これ、約束の代金です」

「はい。六百六十円、丁度受け取りました」



 小さな透明の袋に入れたお金を手渡すと、俺は踵を返した。



「では、これで──」

「ちょっと待って、早い早い!」

「え? だって、他に何かあります?」

「あるある。きみには無くても、わたしにはある」



 肩を掴まれ、俺は帰宅を止められる。

 少女が吐いた空気が白く立ち昇った。



「……名前、聞いてなかったから。あと進学先」

「ああ、そうでした。俺は……」

「だから待ってって! 早いの、色々と!」

「……すみません」



 肩を前後に揺さぶられ、それと同時に視界が揺れる。

 本当に、よく分からない子だ。

 昨日は俺を振り回していたくせに、今日はどこかいじらしい。



「……まあ、いっか。そういう子だもんね、きみ」



 溜息とともにそう呟いた彼女は俺の肩から手を離すと、何故か両手を握ってきた。



「わたし、朝生あそう優薙ゆなぎ! 御高中三年……だった。高校は──」



 ──『姫咲第一ひめさきだいいち』!



「……は、姫咲第一……?」

「うそ、何か間違ってる? この辺りの一番近い学校なんだけど」

「いえ、そういうことじゃなくて……その、俺も姫咲第一です。進学先」

「……うん?」



 県立姫咲第一高校。

 この辺りで一番手頃な公立普通科高校である。



「だって、きみ竜海じゃ……?」

「竜海の高校に行くより、こっちの方が近いんです。あと……卒業したら、姫咲の方で働くつもりだったので」



 数か月前、何となく考えていた展望をぽろりと話す。

 死ねなかったとき、もしまだ生きる気があれば、そうしたいと思っていたのだ。


 口をあんぐりと開けた少女──優薙は、丸い目を何度か瞬きさせた。



「……偶然にしては、出来過ぎてるよ」

「俺もそう思います」

「『現実は小説より奇なり』ってこういうこと言うのかな……。

 通学は徒歩?」

「一応。まあ、毎日一時間ちょっと歩くのは、少しきついですけど。下宿先とか見つけられませんでしたし、住み込みで働けるところでもあればなあ……」

「え?」

「え?」



 俺がふと呟いた言葉に、彼女が聞き返す。

 竜海の端あたりでも、姫咲まで歩くと考えたら、何らおかしくないはずなのだが。

 不安に思っていると、彼女はまた俺の手を強引に引っ張った。



「ちょっと中入って」

「何でですか?!」

「いいから! パパ、来て! 見つけた、住み込み希望の従業員!」



 話が分からないまま、俺は優薙の自宅に連れ込まれる。

 乱暴に靴を脱ぎ、リビングに通され、対面するのは昨日の料理人。

 テーブルの上には、作ったばかりであろうチャーハンが置かれていた。



「なんだ、優薙。昨日の子じゃないか。彼、困ってるぞ」

「そうだけど……そうじゃない! この子、住み込み希望なの!」

「どういうことですか?!」

「いや、それはおれが聞きたいんだが……?」

「募集出してたじゃん! 最近手が回らないからって! 忘れたの?!」

「ああ……? そういや、大分前に出してたような……?」

「出してたの!」



 俺を他所に話を続ける二人。

 騒がしいはずなのき、テレビ番組の音が、やけにはっきり聞こえた。



「とにかく! 彼、住み込み希望の新高校生! 条件満たしてる!」

「おう……そうか。じゃあ、契約書持ってくるわ」

「待ってください、俺よく話わかってないんですけど」

「今説明する!」



 ソファに座らされた俺は、隣に座った優薙が持ってきた書類に目を通す。



「従業員募集……ですか」

「そう、去年の十二月辺りから出してたの。お客さんの量に対して、わたしとパパだけじゃ手が足りないから」

「住み込みなのは……?」

「丁度部屋空いてるし、下宿先探してる人が入ってくれるかなって。きみみたいな人が、ね」



 ぱちりとウインクを決める彼女を、俺は唖然と見つめるばかり。

 勢いに押されていた部分を振り返るように、書類を見直し、自分なりに情報を噛み砕いていく。



「えっと……時給とか、勤務時間とかはこの通りですよね」

「うん。労基守るから、安心して」

「逆に守らないとかあるんですか……?」

「ブラックなところは……うん。まあ、うちホワイトだから! 三食おやつ付き、家賃も光熱費も掛かんない! その分働いてもらうけど」

「良い話過ぎて裏がないか……」

「ないない。うち、ただの町食堂だし。そんなことしないよ」



 俺は、もう一度手元に目を落とす。

 これを信じていいなら、かなりの高待遇だ。

 仕事自体もそこまで苦ではないものだし、ここから高校まで徒歩十分と、大幅な時間短縮ができる。

 願ったり叶ったりの条件だった。



「……いや、でもなあ」

「何? まだ不安なところある?」

「不安、といいますか」



 書類を掴んでいた手を見る。

 何の変哲もない、男の手。

 けれど、この手は血に染まっている。



「……変なこと言ってる自覚もあるし、おかしいって言ってくれても構わないんですけど」

「いいよ、言って」



 真っ直ぐな少女の目と、目があった。

 影を落とすことのない、明るい瞳だ。


 心を見透かすようなその眩しさに、俺は、ぽつりぽつりと語る。



「……その、俺が関わった人は、大体……死んじゃうんです。事故とか事件とか、病気で。だから、また、誰かを……殺してしまうのか、と」



 徐々に言葉尻が重くなる。

 思い返すのは、これまでの人生。

 自分が犯した罪の数々。

 自分が看取った人々。


 恨まれているだろう。

 妬まれているだろう。


 なんでお前だけ生き残ったんだ、と。

 なんでお前だけ生きているんだ、と。


 俺は、堪らなく怖いのだ。

 これ以上喪うことも、そして、これ以上誰かの死に目を見ることも。


 けれど、彼女はそんな俺を笑い飛ばした。



「……なに、それ。馬鹿みたい」

「馬鹿みたいって……本当に、そうなんですよ! 皆、俺のせいで……」

「いや、そんなことないから。偶然だよ、偶然。ちょっと考えればわかるじゃん」



 偶然、ぐうぜん。

 その言葉の軽さに、俺は拍子抜かれる。



「だってさ、その人たちの死に、きみが関わったことあった? ないでしょ。全部、きみが知らないところで起きてるんだもん」

「それは……そうかも、しれませんけど。招いたのは、きっと俺です」

「それを誰が証明するのさ。本人たちが招いたものかもしれないじゃん」

「でも……!」



 力を入れ過ぎて、くしゃりと曲がった書類。

 ズボンごと握り締めた左手。

 彼女は、その上から俺の手を包み込んだ。

 いつの間にか起こってた手の震えが、収まっていく。



「大丈夫、きみは何も悪くない。寧ろ、褒められるべきなんだよ」

「……どうして」

「だって、ずっと見てきたんでしょ? 誰かの命が終わるその時を、見守ってくれてたんでしょ?」

「……あ」



 ある一人の少女の最期が、脳裏に過ぎる。

 彼女は、俺のことをずっと好んでいたという。

 冗談だろう、と言ってまともに取り合ったことはなかった。

 しかし、それが本当のことだと知ったのは、彼女が病気でこの世を去る直前だった。



 ────私、大好きだったよ。優しくて、温かくて、誰よりも皆を愛している君のことが、大好きだったよ。

 君はね、『死神』なんかじゃない。私が、私たちが保証する。だから──。



 やっと、わかった。

 そういうことだったんだ。


 俺は愚かだった。

 彼女が必死に伝えた言葉の真意も分からず、ただ自分が救われたいからと自死を選んだ。


 ああ、情けないな。

 こんな俺を見たら、皆笑うだろうな。


 視界が滲んでいる。

 けれど、涙は零さない。

 それは、意地だった。



「……決めました。ここで、働かせてください」

「よく言った。……って、言いたいんだけど、保護者の同意が要るんだよね」

「すぐ取ってきます。多分、二つ返事でもらえるので」

「待て待て、まだ契約書渡してない!」



 涙目のまま、ばっと立ち上がった俺だが、優薙に服の裾を引っ張っられ、また着席させられる。

 『思い切りが良すぎるのは、お前の数少ない短所だ』という友人の言葉を思い出した。



「パパ、早く!」

「今見つけた、これだな!」

「それそれ。……はい、ここ。サインと判子もらってきて」



 たった紙切れ一つ。

 しかし、これ一つで俺の運命は大きく変わる。

 そう考えると、羽のような重さのはずが、どっしりとした岩のように感じられた。



「きみはもう悩まないかもしれないけど……ゆっくり考えて、後悔しないようにね」

「……はい」



 クリアファイルに入れられたそれを受け取り、小脇に抱える。

 もう要件はないだろうと、昨日と同じように俺と優薙は外へ向かった。



「急展開だったね。わたしのせいだけど」

「そうですね。……でも、良いお話でした」



 昨日と違って、今日は風がない。

 暖かな陽射しが俺たちを照らすだけだ。



「じゃあ、明日じゃなくてもいいから、近いうちに──じゃない! 肝心なこと聞き忘れてた!」

「何かありましたか?」

「あるある、めっちゃある! というか、自分のことでしょ?!」



 そんなことあらだろうか。

 顎に手を当てて考えても、何も思い付かない──わけではなかった。



「……ああ、そういえば。言い忘れてました」

「高校の話題ですっ飛んでたよ……。あ、敬語いらないから。タメでしょ」

「今更ですか?」

「今更でも。はい外す」



 相変わらず強引だなと思いながらも、彼女の要求通りの対応をする。



「わかったよ。……えっと、朝生さん?」

「なんで疑問形……っていうか、朝生はパパも居るんだけど」

「じゃあ優薙さんで」

「さん付けは取れないんだ」

「まだ会って二日目だから」

「それこそ今更でしょ。わたしは遠慮なく、呼び捨てで呼ばせてもらうけど」



 なんて言って、俺たちは顔を見合わせて笑った。



「改めまして、わたしは朝生優薙。きみは?」

「俺の名前は──」



 青い空に掛かる、薄い雲。

 陽射しを遮るものは、何もなく。

 暖かな光に包まれて、眩しさに目を細めて、俺は自分の名を告げる。



「──伊那美琴いなみこと。遠慮なく、美琴と呼んでほしい」

「……勿論! よろしくね、美琴!」



 差し出された手を、差し出した手を、互いに取り合う。

 彼女の心を表すように、握りあった手は温かかった。






 約二週間後、無事に契約が決まった俺は、洋食屋に住み込みで働き始めていた。

 あの時の常連客からはとても揶揄われたが、気恥ずかしくとも不快ではなかった。


 どうやら、俺が使わせてもらっている部屋は、優薙の母の部屋だったらしい。

 何故、彼女の母親の部屋が空いているのかは、聞かないことにしよう。

 と、思っていたのだが、あちらから言ってきた。

 俺は悪くない。


 簡単に言えば、三年ほど前に不倫で家を出ていった。

 実際はもう少し複雑らしいが、説明も面倒臭いし、思い出したくもないので割愛された。

 慰謝料も貰っているし、特に未練もないとのこと。

 元々、そこまで母親との仲は良くなかったらしく、居なくなって清々したとか。


 父親からすれば、複雑な心境ではあるのだろう。

 俺からすれば、今の二人が幸せであるならば、何も言うことはないのだが。



「美琴。わたし、もう行くよ」

「わかった。じゃあ、天心てんしんさん、俺も行ってきます!」

「おう! 行ってらっしゃい、二人とも!」



 真新しい制服とリュック。

 まだ見慣れない景色。


 友人とともに、俺は新たな道を歩みだす。



「ねえ、美琴。学校じゃ、基本内緒だからね?」

「はいはい。猫被り女神さまに合わせますよ」

「生意気。人見知りド陰キャのくせに」

「流石に言い過ぎだろ、それは……」

「なら、もっとしゃきっとした見た目にしなさいよ」

「まだ怖い」

「そう。でも、夏休み明けは覚悟しなさい。高校デビューは無理でも、二学期デビューはさせるから」

「断固拒否する……!」



 また、誰かを殺してしまうかもしれないという恐怖心は、未だ俺の心を蝕んでいる。

 数日そこらで長年の悩みが晴れるわけがないというのは、当然のことである。

 それでも、あの鬱屈としていた思考は少しは前向きになっている。

 全く、『女神』さまさまだ。



「嫌なら自分で頑張りなさいよ、『死神』さん」

「化けの皮が剥がれないようにな、『女神』さま」



 入学早々付けられたあだ名を呼び合って、俺たちは高校へ向かう。

 

 今は、まだ友人同士。

 いずれは、将来をともにするパートナー。


 近い未来、死神と女神、あるいはただのバカップルと称される二人は、今日も同じ道を往く。

 その道が分かたれるときは、きっと来ないだろう。

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