第21話 あの大きな雲の下で

森と池の奥に現れたスタジアムは、まるで巨大なスライムが地表をゆったりと這い回り、四方八方へ触手を伸ばすような柔らかなフォルムだ。芝生の自然な起伏に寄り添い、人工物であることを忘れさせるほどの生命感を見せていた。


オリンピックホールとプールの間の屋根のある空間に足を踏み入れ、ふと空を見上げると、その光景は外から見たものとは一変していた。透き通る膜が複雑に張り巡らされ、まるで聖女が魔物の侵入を防ぐために結界を張ったかのようだ――透明と半透明の面が織りなす、美しさと静謐の領域。


その神秘的な光景に、ゆうきの胸は高鳴った。


ゆうきは、ミュンヘンオリンピックスタジアムに近づくたび、まるで異世界の入り口に迷い込んだような感覚に包まれた。これまでの建物とはまったく異なる、解き放たれたような自由な曲面が空間を支配している。


「こんなに自由でいいんだ…」



健太郎(ゆうき)は、オリンピックホール(体育館)の玄関まで入れたものの、肝心の観客席には立ち入ることができなかった。仕方なく建物の外に出て、ガラス越しに中を覗いていると、ふいに目の前にダンディな初老の男性と、モデルのように美しい女性が現れた。


「……目が合った?」

一瞬、二人がこちらに視線を向けたように感じたが、その直後、テレビ局らしいクルーが二人を囲み、インタビューが始まる。


ゆうきは、初老の男性よりも、彼の隣に立つ洗練された女性に目を奪われた。大人の余裕が漂うその佇まい――「かっこいい」という言葉では足りない、圧倒的な魅力だった。


「中に入りたい!」

健太郎は、ガラス越しに必死にゼスチャーを送り、中へ案内してもらおうと猛アピールするが、誰も気づいてくれない。いや…気が付いているのだが、関わりたくない人物認定されているのかもしれない…


(建築学科の男はみんなこんな感じなのかな?)


ゆうきの偏見という物差しに、深く刻まれていく…




スタジアムの周りを歩くのはこれで3周目。ここに飛んでくる前…事務所で健太郎が熱く語っていたのはこれか…オリンピックスタジアム、ヘルツォーゲンリート公園の木造ドーム、ハノーバー万博では、日本の建築家と協働したという…


でも、さすがに、ゆうきも感動が薄れ、退屈になってきた。

(もう帰ろうよ…)


その時、ふいに背後から英語で声がかかった。

「この建物、気に入ったかい?」


振り返ると、先ほどの初老の男性が立っていた。

近くで見ると、タイムマシンを発明した古い映画の中の発明家の様な…


健太郎は、英語で返事ができす、オロオロし始めた。


仕方がない…ゆうきは主導権を取り、得意の英語で応じる。

「ええ、ミュンヘンに来るのは初めてなんですが、正直、この建物のことを知らなかったんです。でも、屋根がスライム…いえ、雲みたいで、自然の地形と一体化したこの場所がとても気に入りました」


ゆうきの言葉に、男性は自分が褒められたかのように満足げな笑みを浮かべた。


「中に入ってみたいかい?」


「いいんですか!?」


「健太郎、感謝しなよ!私の英語力と運の良さのおかげだからね!」

ゆうきは、内心でガッツポーズを決めながら、男性に案内されてスタジアムの中へ足を踏み入れた。




スタジアムの観客席に出ると、大きな弧を描く線が左右に広がっている。複雑な屋根に見えていた起伏は、内側からみると、一定のリズムで繰り返されているようだった。


フィールドでは数人のアスリートが陸上競技の練習をしていた。あのモデルのような美しい女性も、アスリートたちの近くでレポートをしており、テレビクルーがその様子を撮影している。


陸上選手たちが走り出すと、筋肉の動きと美しいフォームに、ゆうきの視線が釘付けになる。


「すごい…肉体美ってこういうことか…」

女性アスリートたちのたくましい身体が、彼女の興味を引きつけて離さない。


「どうだい?このスタジアムは?」

初老の男性が、ゆうきに感想を求めた。


「えっと…」

ゆうきは、叔父から聞いた知識を思い出し、少し得意げに語り始める。

「このスタジアムは自然との一体感が素晴らしいですね。設計者のフライ・オットーさんは、骨の構造やクモの巣の構造を学んでいたとか。自然の中にあるものをヒントにして、こんな素敵な建物を作ったなんて、本当に感動します!」


ゆうきの熱弁を聞いた男性は、優しい笑みを浮かべた。


ゆうきの口が止まらない…日本ともかかわりがあるの方と聞いています。ツツミ氏とか、ハノーバー万博ではバン氏とも一緒に仕事をされたとか…


なんか、おかしなこと言ったっけ?男性が少し驚いたような顔をしたような気もしたが…



一通り話をすると、ゆうきの興味は、目の前の男性や建築よりもフィールドにいる美しい女性アスリートたちに向いていた。

「ちょっと、フィールドの近くに行ってもいいですか?」


「どうぞ!ではここで失礼するね ゆっくり見ていって」


「ありがとうございます!」

お礼を言うと、ゆうきは男性を置いて観客席の最前列に駆け下りた。


「あの肉体美、すごいな…」

彼女は、女性アスリートたちをまるで舐め回すように見つめ、感嘆の声を漏らす。


その熱視線に、アスリートたちが困惑した表情を浮かべ、少し距離を取ったように見えたのだが…気のせいか?



「…変わった若者だな…」

彼はそうつぶやき、健太郎がフィールドの女性アスリートをなめ回すように見つめる姿をしばらく見守っていた。

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