第10話 サンジェルマンデプレの憂鬱

「はぁ、疲れた……」


ノートルダム大聖堂のシルエットが見える橋の上で、ゆうきは力なくつぶやいた。まだパリに来て数時間しか経っていないのに、もう限界だった。


ふかふかのベッドに飛び込みたいし、パリパリのクロワッサンだって食べたい。いや、フランスではクロワッサンよりフランスパンが定番だろうか?


「せっかくフランスに来たのに……」


そう思った瞬間、体から力が抜け、意識が薄れていく……。




突然――ゆうきの意志とは関係なく、健太郎の体が勝手に動き出した。


カバンの中から「ヨーロッパ建築案内」のコピーを取り出すと、印がついたスポットを目指して歩き出す。まるでナビが組み込まれたかのように、健太郎の行動には迷いがない。


不思議なことに、健太郎の思考も、ゆうきに伝わってくる。


(時間がもったいない……どこから回ろうか……)


(えっ、これって“自動運転モード”? まさか、私、体を動かさなくてもいいってこと?)


驚きながらも、ゆうきは安心した。


(じゃあ、今までの苦労はなんだったの?)




ノートルダム大聖堂を後にし、健太郎の体はシテ島のサント・シャペルへ向かう。その後、サン=ミッシェル通りを南下し、ローマ時代の共同浴場跡「オテル・ド・クリュニー」を巡る。


早朝のため、どの施設もまだ開いていない。それでも健太郎は、黙々と歩き、建物の周囲を一周する。ソルボンヌ教会、サント・ジュヌヴィエーヴ図書館、パンテオン――パリの名建築を次々に巡りながら写真を撮る。


ただ、奇妙なのはカメラの使い方だ。健太郎は写真を1つの建物につき1枚しか撮らない。さらに、撮影がとても慎重だ、慎重すぎると言っていい。


(シャッタースピードはどうしよう……絞りは……陰影を強調した方がいいか?構図は…タテイチ? いやヨコイチで全体が見えるようにするか…それともディテールを撮るか…)


(何言っているかわからないけど……これって、課金制のカメラなの?)

ゆうきは心の中でツッコミを入れる。


もっと不思議なのは、健太郎が写真を撮った後、一度も確認しないことだ。


(そんなに悩んだなら確認すればいいのに……後で私が見てあげるよ)

ゆうきに余裕が出てきた。



健太郎は、まるで疲れを知らないかのように歩き続けた――その間、ずっと建物をぐるぐる回り、アングルを探して写真を撮る。


ゆうきはその体力に感心する。


「よく歩くなぁ……私だったら絶対バテてる……」


パリの街は、地区ごとに異なる雰囲気を持っており、それが興味深かった。


「日本で言えば渋谷と新宿の違い? いや、もっと繊細かな……下北沢と三軒茶屋の違いくらい? いや、それとも学芸大学と下馬の微妙な違い?」


その区画ごとの独特な雰囲気に、パリの街がただの観光地ではなく、人々の生活の場であることを実感する。


健太郎はパンテオンからリュクサンブール宮殿に向かう途中、ようやくパンを買った。そして、空港で買った水を飲もうとすると――


プシューッ!

頭から上半身は炭酸水の洗礼を浴びる…


(えっ、炭酸水!? うわっ、噴き出した!)


ゆうきは焦りながら謝る。


(ごめん、健太郎……炭酸水だって知らなかった……)


叔父の体を使っていると、健太郎のことを「叔父さん」というより、ただの「健太郎」と感じている自分が不思議だった。


サン・ジェルマン・デ・プレ教会に到着すると、1本目のフィルムが無くなった。健太郎は、カメラを手際よく扱い、フィルムを回収して次のフィルムに入れ替える。


(なんだ、これくらいなら簡単だな……)


健太郎の脳内発言から、このカメラは「AE-1」というモデルだとわかる。すでに18年のロングセラーで、世界中のカメラ愛好家に愛された名機だという。


「そういえば、これは祖父からもらったんだっけ……あの恥ずかしい大惨事にも壊れてないし、さすが日本製!」


思わず口に出した健太郎の言葉に、ゆうきはようやく脳内発言と実際の発言の違いがわかってきた。




健太郎は、これまで巡った建物を思い返す。


最初に見たのは、パリ大聖堂。初期ゴシックの傑作で、正面の双塔は左右対称、どっしりとした安定感があるが、背面からみると不思議な曲線を多用している。香山先生のヨーロッパ建築案内には、曲技的な構造論理を可視化する飛梁の外観とあるが、なんのことやら――健太郎も良く分かっていない。


シテ島内のサント・シャペルは朝早くて中に入れなかった――巨大な宮殿の様な入り口と、脇に回るとお城の様な重厚感がある。大きなバラ窓と左右のステンドグラスは華麗なる光の交響曲と書かれている。きっとすごいに違いない。あとで戻る決意をする。


オテルドクリュニーはローマ時代の共同浴場遺跡で、庭園と遺跡が柵で囲われていたが当然入れない。ただ、外から見る限り、入らなくてもいいかなと思う。


ソルボンヌ教会はようやく中に入れた。フランスの古典的様式、バロック手法の教会という。なんのこっちゃ――


サント・ジュヌビエーブ図書館は、ネオクラシズムの19世紀の建物――。

だんだん、健太郎の脳内コメントが減ってきた――


すぐ近くのパンテオンは比較的わかりやすかった。資料によれば、ギリシャ十字平面を持つネオクラシズムの代表作だという。正面がテレビで見たことのあるようなギリシャ神殿の雰囲気で、丸いドームの屋根を持つ塔が後ろに控えている。


コメントの減った健太郎の感想の代わりに、ゆうきも感想を言葉にしてみた。


パンテオン――私ここにいます!と自己主張強めのクラスカースト上位に君臨する女子の様な存在感とゆうきは感じた。


リュクサンブール宮殿――異世界転生した姫様が住んでいると思わせる、そのまんまの宮殿だ。公園?庭園と一緒にかなり巨大な敷地を持っている。メイドがお菓子を持ってきたり、美形執事が悪者から守ってくれたり、いじわる姉上から監禁されたり――舞踏会でののしられたりする――、そう引きこもり中に読んだ漫画の舞台そのままだ。


テンション上がるゆうきを無視して、健太郎はあっさりと進んでしまった――。


次に行ったメゾンダルザスは、探しても探しても見つからず、珍しく健太郎があきらめた。途中、落書きがひどい壁があり、


(こんな綺麗な街でも、こんなことする人がいるんだ……)


石の壁に手をこすりつけ、なんとか消そうとするが、もちろん消えるわけもない。


そして今さっき、サン・ジェルマン・デ・プレ教会に着いたところだ――


「はぁ……」


教会の見える広場に座り、健太郎は首をかしげ、つぶやいた。


「ゴシック……ロマネスク……バロック……ネオクラシズム……なんか、もうわけわかんない……自信なくなるな……」


(がんばれ!健太郎!)


ゆうきは、健太郎を心の中でそっと応援した。

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