第8話 サンミッシェル通りの贈り物

電車が地下鉄のホームに静かに滑り込み、ゆうきは、ホームに降り立った。


石の壁面は冷たく、古びたドーム型の天井が、時を超えて佇むように広がっている。人影はなく、ぼんやりとしたオレンジ色の照明が静かに降り注ぎ、無機質な空間に淡い温かみを与えていた。


独特な香りが漂い、小さなベンチは寂しげに置かれ、遠くから聞こえるかすかな電車の音だけが、この静まり返った世界にかすかな生命を感じさせている。


まるで時間が止まった映画のワンシーンのようであり、美しさと不気味さが共存する幻想的な空間だった。


ホームに降り立ったのは、空港から来たと思われる大きなスーツケースを持った数人の旅行者。それ以外の乗客は見当たらない。


(地元の人は降りない駅なのかな?)


改札口は、天井が低くく、道幅も狭い通路に回転バー式の自動改札があった。重厚なバーを押しながら回すと、通過できる仕掛けになっている。


(ん? ……バーが動かない?)


いくら押しても回らない。「ああ、切符が必要なんだ……」と気づいたものの、切符がない。


(え、どこいったの?)


さっき買ったはずの切符が見当たらない。子供の頃以来、久しぶりに使った切符に緊張し、なんとか前の旅行者を真似して購入できたのだが、失くしてしまったらしい。


(自分の管理能力が憎い……)


そう呟いた瞬間、後ろから5〜6人の若者たちが走ってくる気配がした。


(ちょうどいい。どうやって改札を通るのか見ておこう……)


ゆうきは端に寄り、若者たちの動きに注目する。ところが――。


彼らは、ものすごいスピードで改札に駆け寄り、改札機に手をついてひょいっと飛び越えたのだ。しかも全員が、まるで当たり前のように!


最後の一人が振り返り、ゆうきと目が合うと、笑顔を見せて一瞬で消えていった。


(……うわ、イケメン……)


その姿に心を奪われ、不安や孤独は吹き飛び、まるで映画の中に迷い込んだような気分になった。


(いやいや、あれって無賃乗車じゃん……)


一瞬現実に戻るが、またも心は彼らの大胆さと魅力に引き戻される。


「これ、夢だし……どうせ夢なら、私もやってみよう! 切符無いし…駅員いないし…」


口にしてみたら、何かできる気がしてきた。

ゆうきは開き直り、彼らの真似をすることに決めた。健太郎の体は運動能力が高く、疲れも感じない。スピードもかなり出せる。


(行くぞ……全速力で……!)


バーに向かって走り、勢いよく飛び越えようとした――その瞬間。


(飛びすぎた!?)


空中に勢いよく放り投げられたゆうきの体は、改札機をはるかに通り越し、改札機に着くはずだった手は空を切った。バランスを崩したまま、目の前に床、壁、天井がぐるぐる回る。そして、ドスン!


「はうっ……!」


お腹から床に落ち、膝と手を強打し、背中に背負ったリュックが腰を痛打する。


「いててて……動けない……」


リュックの中でカメラが硬い音を立てた。叔父が大切にしていたカメラは、トイレでTシャツやパンツにくるんでおいたが、これで壊れていないだろうか。


「……何やってんだ、私……」


落ち込む間もなく、すぐに立ち去らないと駅員に見つかる。

大きな音がしたからか、人が集まってきた気がする…




その時――

ゆうきの目の前に黒い皮手袋をした手が差し出された。


「えっ!? えっ!?」


驚いて見上げると、そこにはさっき改札を飛び越えた若者たちが囲んで立っていた。しかも、手を差し出しているのは、目が合ったあのイケメンフランス人だ。


(……映画みたい……!いやドッキリか?)


彼は映画俳優のようにハンサムで、笑顔に品がある。ネットで見たことのある古い映画のスターのようだった。


(流石、私の夢の中……!)


彼の手を取り立ち上がるゆうきは、改札での恥ずかしさなど、すっかり忘れてしまっていた。




若者たちはフランス語で話し合っていたが、ゆうきには意味がわからない。しばし見とれていると、仲間の一人――リーダー格風のワイルド系イケメンが、大きな黒いバッグを持って合流した。


そして、小さな紙袋をゆうきに手渡してきた。


「え? なにこれ……?イケメンからプレゼント??」


夢のような出会いに心を奪われたまま、ゆうきは深く考えずに紙袋を受け取った。





すると次の瞬間、若者たちが大声を上げ、一斉に階段を駆け上がっていった。


「えっ!? ちょ、ちょっと待って!」


わけもわからず、ゆうきもイケメンたちを追いかけるが、膝と腰に痛みが走り、思うように走れない。


地上に出ると、若者たちはオレンジ色の街灯に照らされた幻想的なパリの街並みに消えていった。




「サン・ミッシェル通り……」


通りの名前をつぶやいたゆうきは、街路樹と中世風の建物が並ぶ街区に立ち尽くした。


(そういえば……これ、なんだろう?)


若者から受け取った紙袋を開いてみると――中には財布が入っていた。


「……誰の!? まさか……!」


嫌な予感がゆうきの胸をよぎる。




呆然と立ち尽くすゆうきの背後から、警察官が数人走ってきた。


「ああ……助かった……!」


警察官の姿に一瞬安堵し、財布を渡してホテルへの道を聞こうと思ったその時――

左手に財布、足元に紙袋…


「……待って、この状況…これってもしかして……?」

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