第7話 シャルル・ド・ゴールでの激走

ゆうきは、これまで全力で走った経験がほとんどなかった。


運動神経は悪いわけではないが、疲れることに時間を費やすのがどうしても理解できなかったからだ。体育の授業、プール、運動会――どれも好きではなく、一生懸命走った記憶はない。


だが、今は違う。この電車を逃したら、異国の空港に一人取り残される――その恐怖が、ゆうきを全力疾走させた。


(きっと、RERに乗れば、清楚さんがいるはず…)




たどり着いた入国審査の列に並ぶと、前には数人が残るだけだ。周囲に清楚さんがいないか確認するも既に先に行っているのか見当たらない。


ゆうきは健太郎のパスポートと入国カードを手に、バレたらどうしようと、ドキドキしながら順番を待つ。パスポートに載っているのは、当然ながら若い健太郎の写真。自分の顔ではないことに、ますます不安が募る。


(目が泳いでるかも……不審者に思われないかな?)


無表情な女性の入国審査官は、入国カードとパスポートを無言で確認していた。深夜の疲れもあってか、ゆうきの顔をちらりと見ただけで、すぐに首を軽く振って通過を促してくれた。


「えっ、これで通っていいの?」


あっけない入国に一抹の不安を抱えながらも、ゆうきはホッと息をついた。




入国審査を抜けたゆうきは、再び全力で走り出した。こんなに走ったことはなかったが、驚くべきことにこの男性の体は全然疲れない。


(息も切れない……え、なにこれ?)


男性の体は、自分の普段の体とは比べ物にならないほど運動能力が高かった。自分の体だったらすぐにバテていただろうが、健太郎の体ではまるで限界がないかのようにスピードを保ったまま走り続けられる。


「こんなに便利なんだ……」


ゆうきは、少し感心しながら不慣れな切符を購入し、改札を抜け、さらに走った。


ギリギリの乗車

「扉が閉まる……!」


最後の瞬間、電車の扉が閉まりかけるところに飛び込み、なんとか乗車に成功した。


「あぁ、間に合った……危なかった……」


電車が音を立てて走り出す。車内には、疲れた表情の旅行者たちが静かに座っていた。飛行機の遅延のせいで皆疲れているのだろう。


ゆうきは隅の席でひと息つき、体をリュックに預けた。


「戻る方法、考えなきゃな……異世界モノは…帰る為には、魔王を倒すか…そんなのは無理…寝るとかで帰れないものか…」




「これ、夢じゃないの?」


飛行機の中で顔を叩いたり、つねったりしてみたが、健太郎の体に変わっている現実は変わらなかった。しかも、隣の巨人族の夫婦が驚いた顔をしたことも思い出し、恥ずかしさがこみ上げてくる。


「……もしこのまま、この体のままだったらどうする?」


急に嫌な想像が頭をよぎった。


「小便器、使えない……無理……」

「立ってするのって、一生無理じゃない?」


風呂に入ることや、これからの生活のことを考えると不安でいっぱいになる。


「いやいや、都合のいい未来を考えよう。寝たら戻ってる……絶対に戻る……」


とはいえ、この見知らぬRERという電車で眠る勇気はなかった。




飛行機が遅れた影響で、これがホテルの最寄りまでいくRERの終電らしい。途中までならもう何便かあるようだ。手帳のメモには、当初の予定として「19:30シャルル・ド・ゴール空港着、20:30にホテル着」と書いてあったが、現実に電車に乗ったのは22:30を過ぎていた。


「着くのはもう夜中の0時近く……?」


夜のパリの地下鉄…正確にはRERだが…に一人でいることが、だんだんと怖くなってきた。空港から乗った旅行者らしい乗客は次々と降りていき、車内には地元の人たちだけが残っていた。見知らぬ土地で、しかも深夜――不安がどんどん膨らんでいく。


「……日本ですら、こんな時間に出歩かないのに……」


家と学校、叔父の事務所という狭い世界に閉じこもっていたゆうきにとって、この状況は耐え難かった。通過する窓の外に見えるホームの石壁が冷たく暗く感じられる。




「……そういえば、清楚さん、大丈夫だったかな?」


彼女も飛行機の遅延で困っていたはずだ。異国の地で同じ日本人を見つけて、心細さから声をかけてくれたのかもしれない――そう考えると、ゆうきは少し切ない気持ちになった。


「もしかして……これってビッグチャンスだった?」


健太郎の体を借りていることを念頭に、ゆうきは一瞬ロマンチックな妄想に浸った。だが、すぐに現実に引き戻される。


「いやいや……健太郎オジサンの姿で、清楚さんに近づくのは無理だよな……」


ゆうきは苦笑しながら、車窓に映る自分の格好を見直した。


みすぼらしい服装と独特の匂い

(……白いTシャツにGパン……)


自分の服装が、あまりにもシンプルで冴えないことに気づく。くたびれたTシャツを着た健太郎の体は、パリの華やかな街並みにまるで似合わない。


(太ってたら、お笑い芸人みたいだな……)


それに気づいた瞬間、急に汗の匂いが気になり始めた。飛行機から降りて走り続けたせいで、体は汗まみれだ。


「パリの地下鉄の匂いも……なんか独特……」


「健太郎オジサンには清楚さんはもったいない!」


ゆうきは思わずそう声に出してしまい、周囲の乗客に怪訝な顔をされる。




電車の揺れに身を任せながら、ゆうきは気持ちを落ち着けようとする。


「とにかく……まずはホテルにたどり着こう」


もう一度手帳を開き、メモの内容を確認する。たとえこの状況が異常でも、今は目の前のことを一つずつ片付けるしかない。


「ふかふかのベッド……それだけが希望だ……」


そう自分に言い聞かせながら、ゆうきはパリの夜を駆け抜けていく。

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