第6話 パリの清楚な彼女

機内から空港に放り出され、ゆうきの不安はさらに募っていた。


健太郎の手帳を開いて内容を確認すると、初日だけはホテルが予約されていることに気づいた。


地図には星印がついており、どうやらパリ市内の宿泊先らしい。


「ふぅ、グッジョブ!健太郎オジサン……意外とビビりじゃん!」


女の子に負けない「ノープランの旅」とか言っていたくせに、しっかり初日のホテルを確保しているあたり、少し笑えてくる。


だが今はその慎重さに感謝するしかなかった。


「よし、ホテルに直行だ! フランスのふかふかベッド……絶対気持ちいいよね!」


ゆうきは「スマホがないこと」、「男性の体であること」、そして機内で感じた「巨人族の社会」の異様さをひとまず忘れることにした。



しかし、空港の売店を見つけたところで、現実に引き戻される。


「……お金、どうするんだっけ?」


財布の中を確認すると、日本円が8万円ほどと、10ドルの紙幣が数枚あるだけ。ユーロは一枚もない。さらに両替所の看板には「₣」という聞き慣れない通貨が書かれていた。読み方は…フラン?


「フランって何? ユーロじゃないの?」


ゆうきは頭を抱えたが、8万円とちょっとで2週間の旅を乗り切るしかなさそうだと悟った。


「ん~1日7000円で計算すればいける? ……いや、今日全部使い切ってもいいよね。だって寝たら日本に戻るはずだし!」


ホテルのふかふかベッドにたどり着いて目覚めたら、この異様な状況も終わっている――そう思わなければ気が狂いそうだった。




売店の前で、不安で泣きそうな顔と不気味な笑いが交じった顔芸を披露していたとき、ゆうきはふと前方に目を留めた。


そこには黒髪の清楚な女性がいた。すらりとしたスタイルに上品なファッション、どこか余裕を漂わせる仕草――大学生くらいに見えるが、どことなくお嬢様の雰囲気があった。


彼女と目が合った瞬間、彼女は声をかけてきた。


「もしかして日本の方ですか? RERに乗りますか? パリ行きの最終電車、急がないと乗り遅れますよ」



(女神の導き??……RER?)


ゆうきは一瞬、何のことかわからなかったが、彼女の言葉が救いに思えて素直に頷き、彼女の後ろについて歩き出した。


「ありがとう……女神様……」


清楚な彼女の後ろ姿にうっとりしながら、ゆうきは完全に自分が健太郎の体を動かしていることを忘れていた。長い黒髪からほのかに香る上品な香水の匂いに、思わず顔を近づける。


「はぁ……女子が惚れる女子ってこういう人だよね……」


彼女の髪がふわりと揺れるたび、ゆうきは口に入りそうなほど近づいて匂いを吸い込んでいた。




「入国カード、書いてあります?」


清楚な彼女が振り返り、急に尋ねられ、ゆうきは慌ててリュックの中を探る。飛行機の中で見つけたカードを取り出し、彼女に見せた。


「大丈夫です!」


だが彼女は、健太郎(ゆうき)の荷物に目を向け、少し心配そうな表情を浮かべた。


「荷物、それだけですか? 預けた荷物は?」


ゆうきは、一瞬言葉に詰まる。


「えっと……リュックだけ……たぶん?」


いや、叔父の話では確か…「リュック一つだけ」と言っていたはず……。だが、本当にそれだけで旅ができるのだろうか?


彼女は心配そうに荷物受け取りレーンに向かい、ゆうきに振り返って「荷物を確認してくださいね」と言い残し、急ぎ足で去っていった。




ゆうきも追いかけて荷物レーンに向かおうとしたが、どんなバッグを探せばいいのかも分からず、頭の中はパニックに陥った。


「どうしよう……トイレ! トイレに行こう!」


とにかく一旦セーフティスペースであるトイレに逃げ込むことに決め、走り出した。しかし、無意識に女性トイレに向かい、すれ違った女性に強引に止められた。


「あっ、そうだ……今は男の体だった……」


恥ずかしさに顔を赤らめながら、ようやく男性トイレへと向かった。




トイレの個室に駆け込み、リュックの中身を再度チェックする。荷物をすべてひっくり返すと、中に入っていたのは以下の通りだった。


パンツ2枚(着用中の分を含め3枚?)

よれよれの白Tシャツ2枚

タオル1枚

薄い上着(フード付き)

カメラとフィルム10本

トーマス・クック時刻表

ユーレイルパス(電車乗り放題チケット)

帰りの飛行機チケット

破れた「地球の歩き方」

建築本「ヨーロッパ建築案内」のコピー数枚

歯ブラシ類

入国カード

(パンツ3枚って叔父さん言ってたけど……着てるのを数に入れてたのかよ!)


荷物の引換券的なものはない…Tシャツはくたびれ、パンツはほつれている。旅支度とは名ばかりの適当な荷物を見て、ゆうきは呆れる。


「男って……ほんと不潔……」



「やばっ……清楚さん、待ってるかも……!」


気持ちを立て直し、ゆうきは急いで荷物をまとめた。幸い、男子トイレには男の子が一人いるだけで、特に怪しまれることもなかった。


「よし……最終電車に乗るんだ……!」


真っ赤な顔でトイレを飛び出したゆうきは、入国審査の方向へと走り出した。

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