第4話 挑戦した人にしか見えない景色
30年前――健太郎が通う大学…
その日、大学の製図室はざわつき、熱気に包まれていた。春休みの間、同級生の女子二人がヨーロッパを旅してきたという話で、学生たちが盛り上がっていたのだ。
「宿の予約もせず、その日の気分で街を歩いて……気ままに建築三昧?」
その話に健太郎は心から驚き、大声を上げた。
「マジか~、すげぇ!カッコいいな!」
100人以上が作業できる広い製図室に、彼の声が響き渡る。友人たちの写真に写るヨーロッパの街並みや、笑顔の彼女たちの姿がまぶしく見えた。彼女たちは、パリから南仏、ミラノ、ベネチア、ローマと旅を続け、ヨーロッパの電車は乗り放題の切符、ユーレイルパスを使って自由に電車を乗り回したという。
「寝台特急も乗り放題ってマジか……ホテル代も浮かせるのか!」
旅の話を聞くほど、健太郎は強い衝動に駆られていた。自分もそんな自由な冒険をしてみたい――そう思った。しかし、その一方で、彼は焦りを感じていた。「なぜこの旅をしたのが自分ではなかったのか」という悔しさだ。
大学の建築学科には、大きく二種類の学生がいる。
一つは建築に情熱を持ち、「建築家になる!」など、目標を持って入学した者たち。もう一つは、「とりあえず理系の学科に入れば就職は大丈夫だろう」という気持ちで入った者たちだ。健太郎は後者だった。
入学後、すぐに彼は思い知らされる。建築は、ただ努力や知識だけで評価される世界ではない。個性やクリエイティビティが重視される世界だ。初めての設計課題で、健太郎は痛感した。
「設計思想? 空間? スケール?」
何をどう考えていいのかすら分からないまま、教授陣の評価は散々だった。
「俺には才能がないんだ……」
体育会系の部活で培った体力と根性で何とか乗り越えてきた大学受験とは、まるで違う世界だった。教科書に書かれた知識を詰め込むだけでは評価されない。雑誌に載っている建築を真似ても意味がない。彼の「体力勝負」では通用しない壁が、そこにはあった。
「どうにかしたい。でも、どうしたらいいか分からない……」
そんな迷いの中で迎えた春休み。彼はアルバイトとスキーに没頭し、現実逃避をしていた。自分の将来に不安を覚えながらも、具体的に行動を起こすことができず、時間を無為に過ごしていた。
そんな折、彼は例の女子ヨーロッパ二人旅の話を耳にしたのだ。
(よし、俺もやるしかない!)
健太郎は、心に決めた。旅に出ることで、自分を変えるきっかけをつかむのだ――そう思ったのだ。
(苦労は金で買え、って誰かが言ってたよな……)
健太郎の思考は単純だった。彼女たちの10日間の旅を超えるには、自分は14日間の旅をするしかない――勝負に勝つためだ。
「パンツは3枚に絞ろう。荷物を軽量化して、機動力重視だ!」
リュック1つで旅をしよう――勝負に勝つためだ。
「所持金は10万円…1日7000円」
低価格で旅をしよう――勝負に勝つためだ…。
(え? なんで10日間の旅に14日だと勝ちなの……? パンツの枚数って何の勝敗?)
ゆうきは、叔父の熱弁を理解できず、ポカンとした表情で彼を見た。
(このおっさん、本気で私を励まそうとしてるんだよね……でも、なんかズレてるよなぁ……)
心の中でそう思いつつも、少しおかしくて笑いそうになった。
インターネットも携帯電話すらない1990年代の旅と現代のギャップ…
「スマホもないのに、どうやって旅行するの?」
「予約もしないで行って、道に迷ったらどうするの?」
当然の疑問を、ゆうきはぶつけた。
叔父は笑って答えた。
「迷ったら誰かに尋ねればいいし、英語が通じなくても身振り手振りで何とかなる。地図は現地で手に入るし、最悪、道はどこかにつながってるもんだよ」
「ふーん……」(なんか精神論っぽいな)
「でも危ないんじゃない?」
「そうだね、日本より安全な国はほとんど無いからね。まず、トイレは安全なスペースだったよ。お金とか、チケットとか、荷物を整理するときが、誰かに見られていると危ないでしょ。あと、街中はとにかく周りの状況をよく観察すれば、リスクは減らせるかな」
今の時代、ネットでどんな場所の写真や映像も見られるし、VRを使えば臨場感ある体験もできる。旅行の必要性なんて本当にあるのだろうか?
「わざわざお金を使って、建築を見る旅行をする意味なんてあるの?」
ゆうきの本音が、自然に口をついて出た。
叔父は満面の笑みを浮かべ、待っていましたとばかりに答えた。
「例えばさ、富士山登山行程を映像で全部見ても、それは本物とは違うでしょ。実際に登ってみて、その行程を体験した人だけにしか見えない景色があるんだよ。たとえ山頂にたどり着けなくても、その挑戦にこそ価値があると思うんだ」
「なんとなく分かる気もするけど……まだピンとこないなぁ」
「本物には、本物だけの力がある。建築も、自然も、旅もね。そういうものだよ」
(うーん、やっぱり分からない……)
ゆうきの表情には、そう書いてあるようだった。
「たいへんな目に遭うためにお金を使うって、意味が分かんないよ……」
叔父を気遣って柔らかく言ったつもりだったが、素直な気持ちがつい漏れてしまった。
「まぁ、そうだね。でも、苦労はお金で買えるんだ。そして、買える苦労は全部買っておくべきだね。若いうちに…」
「???」
ゆうきの頭の中に、はてなマークが浮かんだ。
酔いが回ってきた叔父は、さらに話を続けた。
「大事なのはね、周りの状況を見極めることさえできれば、一人旅だって危険じゃないんだよ……」
「……ふーん」
(あー、さっきもその話聞いたよ……)
同じ話を繰り返す叔父を見ながら、ゆうきはどうやってこの場を切り抜けるか考え始めた。
叔父の話は、まるで英雄譚のように何度も繰り返される。眠気がゆうきを襲い、叔父の声がだんだんと遠くに感じられた。
「……俺は危ない目に遭わなかったんだ……」
それは、寝落ち寸前の耳に、どこか遠くで流れる動画の音声のように聞こえていた。
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