銀雪

直美が修一の会社へ清掃員として派遣されるのは月水金曜日である。



勤務時間は午前10時から午後3時。



直美達、掃除のプロ集団は主に社長室をはじめ、役員室や会議室、来社するお客様が出入りする場所を受け持つ。



一般社員のフロアはシルバー人材派遣。



いわゆる掃除のおばちゃん達が受け持つていた。



修一は、会社での昼食は近くの定食屋で済ませている。



社員食堂もあるが、メニューが偏っている事と味が良くない。



修一は、明日の昼食を、その定食屋で直美と一緒に食べる事にした。



会社から5分と掛からない場所にその定食屋はある。



店の主人、真次とは顔馴染で、ロードバイクが趣味である事から気が合った。



年に2、3回は一緒に荒川サイクリングコースを走る仲である。



また、この店は池袋駅からも近く、安くてボリューム満点が人気となり、



昼時には行列も出来る。



「らっしゃい、修さん奥へあがりな。今日は鯛があるよ!茶漬けにするかい、それとも刺身にするかい?」



行列が出来ている時は、奥の座敷で食べさせてもらっている。



「真さん、刺身で。」



そう言うと修一は、奥の座敷へ入って行った。



しばらくすると真次がお膳を運んで来た。



「お待ち!これで、たったの五百円!ちくしょうもってけ泥棒!」



たまにわけのわからない事を言う。



「真さん、お願いがあるんだけど。」



「修さん、あの自転車なら売らないよ。あいつは家族の次に大事な俺の相棒だからね。」



店のレジの脇には、フルカーボンの外国製のロードバイクが置いてある。



「違うよ違うよ真さん。明日のお昼の時間に空いていても、ある人と、この座敷で食べさせて欲しいんだ。」



「そんな事ならまったく構わないけど、うちは空く日はないよ修の旦那、まさか不倫・・・おっと、申し訳ない。修さんが不倫なんてね。」



「違うよ真さん。それからその人には僕が自転車が趣味だって事は内緒にね。」



「ようござんすよ旦那、明日だね。」



真次は、気っ風の良い性格で、江戸っ子。そして見掛けに依らずロードバイクの走りはプロ並みである。



次の日。




修一と直美は、真次の定食屋で会った。



ふたりはメールや電話では、場所や時間を連絡するだけで、あまり会話はしない。



話したいから会う。



こんな当たり前の事が、携帯電話やスマホの急速な拡大と氾濫で失われている。



「修一さん、お店のレジの横にフランス製のロードバイクが置いてあるわ。あれはお客さんのバイクだと思う。きっと盗難よけに預かってもらっているんだと思うな。フルカーボンだから4、50万はするものね。」



「詳しいんだね直美さん。」



「うん、自転車好きだから。」



直美は、そう言うと湯のみ茶碗を両手で包み、クルクルまわしている。



そんな何気ない仕草が凄く可愛い女性である。



「直美さん、一緒にスキーへ行きませんか!」



修一は、直美をスキーに誘った。



「僕は直美さんと一緒に滑れるだけで嬉しい。僕にとってスキーは恋人みたいなものだけど、それ以上に・・・」



修一は、そう言うと言葉に詰まって照れ笑いをした。



「それ以上に何?」



直美は、修一の言葉を待たずに、



「私は、修一さんのそれ以上の存在に成れるかしら。」



そう言うと、クルクルと湯呑み茶碗をまわして、修一へ微笑み掛けた。







翌週の土曜日。



直美の家の近くのコンビニの駐車場で、ふたりは待ち合わせをした。



修一のマンションからは15分足らずの場所である。



朝5時、寒い朝である。



修一は直美を待たせまいと、15分前に着くように車を走らせた。



直美は、修一のスキー技術の腕前は分かっていたが、スキーのインストラクターである事をまだ知らない。



修一も、あえて俺様はインストラクターだ!



なんて自慢するタイプでもない。



修一がスキーを大好きになった理由は、



まだ小学生の頃に父親と初めて行った白馬のスキー場での体験からであった。



その日は雲ひとつない青空で、



背後の真っ白な北アルプスの雄大な山々が修一を包み込んだ。



こんな風景が日本にもあるんだ!



それは、三千メートル級の山々の、時折見せる挨拶である。



山々に向かって手を広げて、叫んでみたくなる気分である。



ここへ来て良かった!



もちろん、そんな日ばかりではない。



吹き付ける雪!



凍りつく寒さ。



何故、こんな場所に居るのか?



リフトが止まって、とり残された事もあった。


そんな思いをしてまでも、また来てしまう。



リフトを乗り継ぎながら、眼前に広がる景色を楽しみ、



雪を感じる。



そして、自由落下するスキーを操りながら自然に溶け込む。



それがスキーである。



修一は、直美に到着メールを送信すると、コンビニに入って朝食を調達した。



それから車に戻り直美を待った。



しばらくすると直美が助手席のドアを叩いた。



「おはよう修一さん。」



直美の笑顔......それは修一の宝物である。



「修一さん、眠くない?コーヒー持って来たから。」



「ありがとう直美さん。寒いから中へ入って。荷物は僕が乗せるから。」



修一はそう言うと、外へ出て直美の板とバックを後部シートへ積み込んだ。



修一は運転席へ戻り、助手席の直美へ微笑むと、直美が注いでくれるコーヒーを飲んだ。



「修一さん。小綱高原、晴れてると良いね!楽しみだね。」



「僕は晴れ男だから、きっと晴れるさ!」



ふたりは、川越インターから一路、信州上田インターを目指した。



いつもはひとりで運転するスキー場へのアクセス道路であったが、隣には直美が居る。



笑顔の直美……彼女が側に居る。



それだけで嬉しかった。



3時間半で小綱高原へ到着した。



このスキー場は、コース長は比較的短いが、多種多彩の大規模なスキー場である。



天気は快晴。



直美の板はフランス製のカービングで、オールラウンドで使える仕様である。



直美は着替えを済ませると、更衣室から出て来た。



ウェア、ブーツ、グローブなど全てスキー板と同じメーカーのもので揃えていた。



ふたりは近くのリフトへ乗り込んだ。



ペアリフトに女性とふたりで座るのは何年ぶりか。



修一は、友達や会社の仲間とは滅多に滑らない。



孤独が好きというわけではないが、



自分のペースとスピードで楽しみたい。



コツをつかんだり、調子が良い時には食も忘れる。



これが仲間と一緒となると、そういうわけにはいかない。



ましてや彼女となると論外である。



そんな論外な事を今、修一はしている。



もう数十年前の設備だろう、リフトはゆっくりとゆらゆら揺れながら進む。



「スキーは指導を受けてるの?」



「スキー学校へツーシーズン通っているの。」



「それなら僕がコーチする必要ないかな。」



修一は、直美の言葉を待った。



直美へ教えたくて仕方のない気持ちだからである。



「修一さんが教えてくれたら、もっと上手くなれるわね。」



もうすぐ、自分の滑りを披露する。



直美の驚く顔を想像していた。



「僕で良かったら、楽しめるスキーを教えるよ。」



「宜しくお願いします!」



直美は、そう言うとスキー板をを上下に振った。



修一も負けずと板を振ると、リフトが上下に踊り、ふたりはバーを握りしめて微笑み合った。



白い息を吐きながら、直美は子供の様に笑う。



何とも可愛らしい直美に、修一の気持ちは、どんどんひかれて行く。



どうしようもなく愛しいと感じた。



直美は、このスキー場で滑るのは二度目であったが、



もう3年も前の初心者の頃なので、コース全体を知らない。



直美は、リフトを降りると修一の後へ続いた。



修一は、スケーティングでスキーを走らせて、直美の様子を振り返って確認すると、スピードを合わせた。



直美も修一に負けまいと軽快なスケーティングで修一の後を追った。



直美のレベルから修一は中級者向けのコースを選んだ。



「ストレッチするから、僕の動作を真似て。」



直美は軽く頷くと、大袈裟に修一の動きに合わせた。



チラチラと振り返る修一の視線は、スキーコーチに変身した真剣そのものの眼差しである。



「じゃー滑ろう!」



修一は、スキーを谷へ落とした。



もちろん足馴らし程度の滑りである。



直美も直ぐに修一に続いた。



修一は小回りから大回りへとリズムを変えて軽快に滑った。



次のコースへと向かうリフト乗り場の前で修一は、直美の滑りを見ようと振り返ったが、直美は修一の後をすぐに追い掛けて来ていた。



「直美さん、早いね。」



「修一さん凄い!コーチの滑りみたい。」



内心、修一はあまり良い気分ではない。きっと直美のコーチへの嫉妬だろう。



「これ、乗ろう。」



そう言うと、急斜面へと直美を誘った。



リフトに乗りながら修一は思っていた。



これからの滑りが本気だ。



直美が連れて行かれたのは、このスキー場では最大の急斜面である。



「私でも滑れるかな……」



「直美さん、ギルランデ!覚えてる?」



「忘れないわ!あの滑りが私と修一さんを結び付けた滑りですもの、」「そうだね!僕も忘れない。」



修一はそう言うと、身を投げるように斜面へ飛び込んだ。



滑り出す前のコース内の状況は、既に修一はインプットしていた。



コースの真ん中を陣取るスノーボーダーには注意が必要である。



修一は、スキー板の面で滑る事を意識して、大回りのカービングで斜面を切った。



スピードのコントロールはターン孤の深さと山側への切り込み、そして両脚加重を意識した。



まだ、コースは荒らされていないので、コブにはなっていない。



小回りから再び大回りへとターンを繋げてフィニッシュした。



満足のいく滑りが出来た。



直美は、修一が滑り降りて振り返るのを確認してスタートした。



滑り出しは大回り、そして小回りへとリズムを変えたが、ずれの大きな滑りになっている。



最大斜度では大回りにリズムを変えたが、やはりずれてしまう。



滑り込みが足らないのとX脚がブーツに合っていない。



修一は修正すべきポイントを見出していた。



最後まで気持ちを抜かない滑りは、さすがスキー学校経験者である。



滑り終わった直美は、修一に近づくと、



「凄い!凄い!」を繰り返して言った。



「修一さんはプロ並の滑り!私のコーチより上手だわ!是非、私だけの専属コーチになってね。」



直美はそう言うと、深々とお辞儀をして修一へ微笑んだ。



修一は照れ臭そうに頷くと、外したサングラスを掛けてスキーを走らせた。



修一はプロスキヤーの組織には認定されてはいるが、スキーを職業としてはいない。



指導員は、国内最大のスキー組織の資格である。



私のコーチより上手い。



その言葉で満足であった 。



「直美さん、ちょっとブーツ見せて。」



修一は、直美のブーツのカント調整機能を確かめた。



さすがにフレックスは柔らかいが、カントはフラットになっていた。



「調整しょう。」



修一は、サービスセンターでブーツのカントを直美のX脚に合わせると、



「それじゃ大回りから練習しょう!」



修一のスキー教室が始まった。



朝は天気が良かったが、急に雪雲に変わり、ちらちらと雪が舞い始めた。



すぐには溶けない粉雪・・・



やがで本降りになると、すべてが銀雪に包まれた。



銀雪のなかで・・・



修一と直美の距離は確実に縮まった。

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