第7話
ゼウの回し蹴りの直撃を首筋へ受けて絶命した大型の魔犬・ブラックドックは、しばらく痙攣しながら地面に倒れ伏した後、エーテルの沼へと変化した。
ゼウはまた、律儀に両手を合わせて頭を下げている。
西部森林地帯の中央付近。
畦道の奥では、別の討伐者がやはり黒いエーテル溜まりと化した魔物の成れの果てに向かって、手の平サイズのキューブを投げ込んでいるのが見えた。
鮮やかなエメラルドグリーンを湛えたひし形の立方体は、地面を満たす黒ずんだエーテルを吸い上げると、自身の色を暗くくすませた。
エーテルを貯蔵可能なこのキューブこそが、魔力をインフレとして機能させているキーアイテムである。その用途は回収だけに留まらない。全ての魔道具はエーテル・キューブを介して使い手の魔力とコネクトし、作動する。そしてもちろん、エンチャントアローでなければこのキューブを作動させることはできないのだ。
では、魔力の素養がないゼウがどうやって討伐した魔物のエーテルを回収するのかといえば……。
ザクッ。
と、ゼウは私を沼の中心に突き刺した。
——はいはい、やりますよ。
私は意識を拡大して周囲の黒いエーテルを吸収した。人間がドリンクやスープを飲む感覚に近いと言えばわかりやすいだろうか。ズビズビ音を立てないよう、毎回品格を持って吸い上げるのは骨が折れる。
私はほぼ無尽蔵に剣身へ魔力を蓄積できるが、戦闘時にリンクする主の総量以上の魔力を解放するができないという弱点がある。使い手次第で、強くも弱くもなるということだ。
だから、ゼウに対して私がしてやれることは、倒した魔物の亡骸からちまちま魔力を吸い上げることと、持ち帰った魔力を「おえぇー……」と吐き出すことだけである。食べるのは好きだが、吐くのはかなりしんどいので、実は全部吐き出すことはせず、毎回五分の一程度は体内に魔力を蓄えるようにしている。
夕暮れが近い。日が傾きかけている。イリアとの待ち合わせの時間に間に合わせるには、今日はそろそろ引き上げなければならないだろう。
「ゼウよ」
私はゼウから返事がないことを承知で語りかけた。
「イリア嬢は、おそらく高貴な身分の者だ。先日の誘拐未遂を鑑みるに、何らかの事件に巻き込まれている可能性が高い。お前の恋は、とてつもなく障害が大きいかもしれないぞ?」
ヒナの携帯端末にアクセスし、ここ数十年のうちにラグナ大陸で起こった事件・事故を調べてみたところ、十六年前の記録に興味深いものが見つかった。
大陸の北東部に位置する小国家「ハルメリア」の消滅。
ハルメリアは魔道具の研究・生成に優れていた。大きな領土を持たず、作物も育ちにくい不毛な土地にもかかわらず、近隣諸国からは大国並みの扱いを受けて交易を続けていたようだ。そんな国家が一夜にして火の海に呑まれ、不可解な壊滅を遂げている。
魔道具に関する資料も一切が焼失しており、当時はエーテルの研究成果を狙った近隣国家——特に大陸中央を管理する「エステリア共和国」からの侵略説や、魔道具を意図的に暴走された陰謀論なども飛び交ったようだが、真相は闇の中だ。ハルメリアがなくなったことで、大陸全体の魔力に関する研究は十年は遅れたと言われている。
黒い噂にはそれなりの根拠があった。ハルメリアの第二王女の遺体だけが発見されていないからである。しかも第一王女の方は、その二年ほど前に事故で亡くなっている。
金の匂いがする——と、ヒナは目を輝かせていたが、もしイリアがその消息不明の第二王女だとすれば、こちらが想像するよりも遥かに大きい事件に関わっている可能性が高いだろう。
その時。
「ぁ……ん……」
艶かしい声が聞こえて、ゼウは後ろの茂みを振り返った。
それは異様な光景だった。
暗がりの中、長身の女が男に抱きついていた。こんな戦場のど真ん中で、女は衣服を何も身につけていない。女は男を木の幹へ押しつけながらねっとりと絡みつくようなくちづけを繰り返し、男はされるがままにしていた。
「う……ぁ……」
男が低い声で呻いている。喘いでいるわけではない。女から逃れられない苦痛に苦しんでいるのだ。
「あん……いぃ……。ねぇ、ワタシ……もう、我慢できないわ……」
女が舌を絡める度に、男の全身がミイラのように痩せ細っていく。頬を紅潮させた女が男の下腹部に手を伸ばしたところで、男は力尽き、事切れた。
「あらあらぁ……」
甘ったるい口調で男の頬を愛おしそうに撫でた後、しかし物言わぬ枯れ枝となった男の死体を、女はゴミでも捨てるようにその場へ放置した。
「もぉ、ここからがいいところだったのにぃ。あーぁ、顔は好みだったのになぁ、ざーんねん」
女がゆっくりとこちらへ視線を向けた。
漆黒のロングヘアーが腰まで伸びている。イリアの黒髪は健康的な艶やかさだが、この女のそれは違う。暗く深い闇の中へ引きずり込もうとしてくる。グラマラスなその肢体も、妖艶という言葉がぴったりだった。
〝いいわ、ゼウちゃん! ほら、もっと……もっと笑ってちょうだい〟
ゼウは両目を細めて、女を警戒するように距離をとった。わずかな怒りを感じるのは、先ほどの光景が古い記憶を呼び起こしたからだろう。
気づいているか、ゼウ?
この女、魔力の総量が段違いだ。とても人間のものではない。
魔物が人の姿を真似て、人語を解している。私が眠りにつくまでは類似するものがなかった存在だ。
「あなた、ゼウ・アンダーソン? まっすぐないい瞳ね。あぁ……ゾクゾクしちゃう」
名前を呼ばれて、ゼウは迎撃体勢をとった。腰を落としたゼウの右手が、獲物を狩る獣のように開かれ、力が籠る。
「いやん、殺されちゃいそう。うふふ、ほんとは少し味見したいんだけど……」
女はその場に片膝をつくと、両手を地面に触れさせながら和やかに微笑んだ。
「ワタシたち、出会うのが遅すぎたみたい。今日は時間切れ」
女を中心に三百六十度、ドーム状に黒い衝撃波が迸った。木々が揺れ、風が波打つ。そのショックウェーブは触れた瞬間私の中へぬるりと入り込もうとしたが、私は小石を避けるように弾き飛ばした。
「あらぁ……」
数キロ先まで膨張した黒い煌めきは、今度は高速で縮小すると、中心である女の手の平へ吸い込まれていった。ドプン——と重たい音が響いて、一瞬女の体全体が闇に包まれたように見えた。
「な、なんだ! 魔力がなくなった⁉︎」
「これじゃあ魔物が……うわ! うわあぁぁッ!」
直後、森の向こう側、北部平原のあらゆる場所から怒声や当惑の悲鳴が響き始めた。
——この女。
ドーム内にいた人間の魔力を残らず吸収したらしい。
エーテルによる武装・身体強化ができない状態で戦闘を維持できる人間が、ゼウ以外にどれほどいるだろうか。このままでは、すぐに魔物による虐殺の宴が始まってしまう。
「範囲を広げすぎです、キディ」
草間から声が上がった。姿は見えないが、もう一匹いる。
「西側の一部に限定しろとのお達しだったでしょう? これでは予定よりもザグーレの数が減りすぎてしまいます」
「だってぇ、濡れちゃったんだもん。ちょっと張り切りすぎちゃった」
女は——キディというようだが、ゼウに向かって唇に指先を当ててキスを飛ばした。それ自体はただの仕草だったが、ゼウは心底嫌そうに顔を逸らせて避けた。
「生きていたら、また会いたいわ。その時は、一緒に気持ちいいことしましょうね」
暗がりの中へと、女が溶けていく。もう一匹の気配も同様だ。
ゼウは追跡を試みたが、できなかった。突然、森の上部から飛来した連中に四方を取り囲まれたからである。
「……………」
六人いる。
体格の良さから、全員男と推測された。黒装束に身を包み、目元以外は顔も表情もわからない。
アサシンか。直前まで気配を感じなかった。こいつらは魔物の類ではなく、人間である。
つまり。
——組織と命令系統が一本ではないな。
「我々がなぜ背後から襲いかからなかったか、わかるか?」
リーダー格らしい、ゼウの背後に立つ暗殺者が低い声を発した。
「大人しくこちらに従えば、ここで命までは取らん。依頼主はお前の公衆の面前での処刑がお望みだ。だが、四肢さえ損傷していなければ、お前の生存は絶対条件ではない。報酬は下がるがな。抵抗するようなら、苦しむことになるぞ」
六人は装備した鉄甲から細身の仕込みナイフを伸ばし、戦闘の構えを見せた。微かな異臭から、ナイフには大型の猛獣にも有効な即効性の毒が塗布されていることが見て取れる。
わけがわからんな。
ゼウは最低限の狩りで生活費とヒナの学費を稼ぐ毎日を送るだけのつまらん男だ。処刑されなければならない理由が思いつかない。
さらに、王都の方角から爆発音が響き、煙が上がり始めるのが見えた。平原からの怒声と悲鳴は広がる一方だ。
——次から次へと。
ゼウは王都と目の前の連中を見比べた後、その場で数回、つま先で跳ねた。
「応戦するつもりか? バカなことを……」
刹那——。
か細い噴水のような土煙だけを残して、ゼウの姿が消失した。「消えた」と、六人は感じただろう。誰も反応できていない。
稲妻のような打撃音が響き渡る。ゼウの真正面のアサシンが凄まじいスピードで後方の大木まで吹き飛ばされ、激痛で意識を寸断されたことに残りの連中が気づいたのは、ゼウが放った掌打の衝撃がアサシンの腹部を抜け、背後の木の幹をへし折った後だった。
「な……⁉︎」
メキメキと音を立てて、大木が倒れていく。
ゼウはもう、暗殺者たちの円の中心にはいなかった。
白目を剥き、死に体となった一人目のアサシンが前のめりに倒れ伏す。ゼウは残りの五人へ向き直ると、獣のように体を前方へ弛ませた。
「バカな……」
五人は真横に広がると、陣形を組み直した。
ゼウはそんなことには目もくれず、王都の方を見ながらボソボソと呟いた。
「もう、行かなきゃ……。人生で初めてのデートなんだ。邪魔しないでくれ」
自分で言っておいて、「デート」という言葉に反応したらしい、ゼウはもごもごと口ごもり、頬をピンクに染めながら目を泳がせた。
すごいな。話がまるで噛み合っていない。
全容はまだわからないが、ゼウと私は確実に面倒な事態に巻き込まれつつある。得体の知れない相手だ。まだ私の正体を知られるのは得策ではない。
たがら私はまた、届かない口を挟まなければならないらしい。
——お前たちは、巻き込む相手を間違えている。
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