その妹、完全犯罪料理人につき。
中野砥石
第1話 無水カレー
「……ただいま~」
「おかえり、お姉ちゃん」
玄関が開く音と共にくたびれたお姉ちゃんの声がする。
リビングのソファーでくつろぎながら私は返事を返した。廊下を歩く足音が近づいてくると、スーツ姿のお姉ちゃんがリビングに来る。
「……つかれた」
声に生気がなくなっていたお姉ちゃんは私が座るソファーにそのまま倒れた。
「お姉ちゃん。いくら残業で疲れてるからってソファーに倒れないでよ。揺れる」
「……仕事で疲れたお姉ちゃんに妹が冷たい……」
ソファーへうつ伏せに倒れたまま私に返事してきた。そんなに疲れてるなら早くスーツ脱いで部屋着になって休みなよ。
「はぁ……。せっかく昨日作った無水カレーを食べる気力がわかないよ……」
疲れ切った声で独り言を口にしたお姉ちゃんは無念そうな表情を浮かべた。
目元には寝不足と疲労の証であるクマができている。
今晩のために、昨日一日かけて作った無水カレーを翌日に食べられなかったんだ。そりゃ悲しくなるのだろうね。
「冷蔵庫に保存してるんだから、明日食べればいいじゃん」
「……そうする……。はぁ……、なんで今日に限って仕事急に増えるのよ……」
恨み節たっぷりの言葉を発したお姉ちゃんはゆっくり立ち上がった。そのままくたくたの体を動かして自分御部屋に戻っていく。
「私は絶対にブラック企業入らないようにしよう」
私が中校生になった年に、お姉ちゃんは新社会人になった。
お姉ちゃんが就職した企業はかなり黒い。
今日は定時で帰れるとウキウキだったのに、いつも通りで夜遅くに帰宅。
「帰ったら自作の無水カレーを食べるんだ!」と言ってたのに。かわいそう。
私からすれば時間かけて作る料理より時短レシピの方が簡単で充分美味しい。最近料理にハマったお姉ちゃんは手の込んだ料理が好みだしいけど。
「そう言えば、冷蔵庫に鍋そのまま保存してたっけ」
粗熱を撮った後にお姉ちゃんは冷蔵庫に鍋ごとしまってたなぁ。今夜食べるからって言ってたけど、あのままだと冷蔵庫の中がカレーのにおいが残る。
代わりにタッパーにしまっておいてあげよう。
〇
私はくつろいでいたリビングからキッチンへ移動する。
お姉ちゃんが鍋ごと冷蔵庫に保存したカレーをタッパーに移し替えようと来た。
冷蔵庫の前についた私は扉を開く。
開いた瞬間、スパイスの香りが鼻腔を通り抜けた。そして中には小鍋がそのまま冷蔵庫の真ん中に入っている。
市販のカレールーやカレー粉じゃなくて、スパイスから作った本格無水カレー。
たっぷりのトマトと玉ねぎ、リンゴ、そしてヨーグルトを使ったらしい。
漂って来る香りはとても美味しそう。だけど、このままだと冷蔵庫ににおいが沁みつくよ。
早めに密閉容器に入れないと。そう思って私はカレーの入った小鍋を取り出した。そして一旦ガスコンロの上に置く。
大きめのタッパーを取り出して中身を移そうと小鍋の上の蓋を開いた。
冷蔵庫の中にたまっていた食欲をそそる香りが鼻を通り抜ける。
ぐうぅぅ~。
「……お腹減った」
夕ご飯は食べたけど、部活で消費したカロリーはそれだけじゃ足りなかった。
それに、今の時間は夜食にはうってつけ。こうしてタッパーに移してあげるんだから少しくらい味見してもいいよね?
そう思って私は小鍋に入っていたお姉ちゃん作の無水カレーの味見をした。
「美味しい!」
冷蔵庫で冷えてるのに、抜群に美味しい!
とろみをつけてるから一度温め直しした方が移し替えやすそう。それにご飯と一緒に食べたらもっと美味しいはずだ。
ちょっとくらい食べてもばれないよね。
火をかけてある程度温め直す間、冷凍庫に保存していたご飯をレンジで解凍した。
解凍できたご飯をお皿に乗せた時には、ルーが人肌に温め終える。その後に気付かれないくらいのルーをかけた。
市販のルーと違ってスパイスの香りが際立っててすごく美味しそう。
トマトがたっぷりで赤みの強い色のルーは片栗粉のとろみがちょうどいい見た目だ。
そんなお皿の上のカレーを、スプーンで掬って口に運ぶ。
「美味しい~~~~!」
玉ねぎの甘味とトマトの酸味、リンゴの爽やかさがスパイスとばっちりあってる!
サイコロ状の牛肉もじっくり煮込まれて柔らかくなってて旨みがすごい!
ヨーグルトの程よいまろやかさが全体をしっかりまとめてる!
これは手が止まらない!
そんな感想を抱いてた時には、もう遅かった。
空腹も相まって歯止めが利かずに食べ進めていたら、予想より食べ過ぎてしまった。
鍋に残ってるルーは約半分。
お肉は大目に残してたけど、それでもルー全体は最初より減っていた。
「……どうしよう」
気づかれない程度に食べるつもりが、食べすぎちゃった……。
このままだと明日食べるお姉ちゃんに気付かれちゃう。
昨日からあんなに楽しみにしてたお姉ちゃんの作ったカレー。それがこれだけ減ってたら、すごく怒った後に相当へこんじゃう。
なんとかごまかないといけない!
味を変えないでかさ増しできる材料とかあるかな⁉
そう思った私は、すぐさま冷蔵庫の中身を確認する。
中にある材料はケチャップ。玉ねぎ。ジャガイモ。残りわずかのカレー粉。お姉ちゃんが美容のために買った果汁入りの果物酢たちと豆乳。
その他にはかさ増しには関係しなそうな調味料ばかり。
「ぜっんぜん材料足りないよ!」
なんでこんな時に限って冷蔵庫の中にはこれしかないの⁉
「というか、こんな時にいくつもスパイスが切れてるの⁉」
引き出しにしまっていたスパイスのいくつかは保存されてはいた。けど、お姉ちゃんがカレーに使ったことでなくなってるスパイスもあった。
カレー粉だってかさ増しするには足りないのに⁉
しかも、肝心のとろみ付けづけの片栗粉もなくなってるし!
今のままだとかさ増しできても味でばれる!
「ま、ますは落ち着くのよ……!」
現在の時刻は夜十一時。
スーパーなんてもう閉店してる時間帯。
今から買い揃えられる時間じゃない。
お姉ちゃんが朝起きてから食べるとしたら、残り時間は七時間弱。
それまでに、さっき食べたカレーの味を再現しつつ、かさ増ししないといけない。
「考えるんだ。どうすれば再現できる?」
もう一度、残っている材料と、スパイスを確認した。
頭をひねって必死に考えていた瞬間、脳内に火花が散ってポッと明かりが灯った。
そして
「これなら何とかなるかも!」
〇
「まずはルーの代用品をっと」
キッチンテーブルにルーの代用品となる材料を並べた。
残り僅かなカレー粉、お姉ちゃんが使ったスパイス、そしてケチャップ。
カレー粉や残ってるスパイスだけだと、足りない分のスパイスを代用できない。
その代用品にケチャップだ。
ケチャップにはトマトの他にお酢、そしてスパイスが入っている。
酸味は元々入ってるトマトやヨーグルトにもある。後に入れる材料や加熱調理で酸味は飛ばせる。
圧倒的に足りないトマトも代用できるから一石二鳥だ。
スパイスの代用品を揃えた後、私はまな板を用意して玉ねぎを置いた。
細かめのみじん切りにした後、ミキサーを用意して、みじん切りの玉ねぎを入れる。そしてケチャップを大量に入れた。
カレー粉やスパイスは後に入れないと香りも飛んでしまう。酸味を飛ばすために一番長く火を通すお酢を含むものを先に入れないといけない。
だから、ミキサーの中にはお姉ちゃんが買っておいた果汁入りリンゴ酢も入れた。
あのカレーの中にはトマトと玉ねぎの他にリンゴも多く入っていた。
その代用品として果汁入りのリンゴ酢も入れてミキサーにかける。
煮込まれて原型のない玉ねぎを短時間で煮込むなら最初から粉砕してもいい。
それに火を通すのも早くなるし、フライパンで火を通す時も楽になる。
しっかりミキサーにかけた中身をフライパンに移して、火を点ける。
玉ねぎやケチャップ、果汁入りリンゴ酢は焦げやすいので弱めの中火にかける。
底が焦げないようにへらを使ってゆっくりかき回す。
ぐつぐつし始めるとお酢独特の酸味が蒸発して鼻を刺激し始めた。ここでしっかり酸味を飛ばさないと味全体が酸っぱくなってしまう。
水気が足りなくなる度に追加で水を足しながら、できる限り酸味を飛ばす。
フライパンから上がる酸味が飛ぶと、次に豆乳を注いだ。
ヨーグルトのまろやかさの代わりに豆乳を選んだ。元々他の材料の酸味で、充分ヨーグルトの酸味は事足りてる。
豆乳を注いで、ひと煮立ちした後にカレー粉とスパイスを適宜追加する。
細かく味見してお姉ちゃんのカレーと限りなく近づけるように調整する。そして味と香りが近くなった後、いったん火を止める。
その後に私は冷蔵庫からジャガイモを取り出した。
今のままだと片栗粉で付けたとろみが緩んで水っぽくなる。
そのための代用品にジャガイモを使う。
片栗粉の原材料はジャガイモでんぷん。皮を剥いた後にすりおろして煮込めばとろみ付けにできる。
ピーラーで皮を剥いたジャガイモをおろし金ですりおろしてフライパンの中に入れる。そして、もう一度火を点けてゆっくり混ぜる。
全体にとろみがついてきた後、もう一度味を確認した。
「これなら大丈夫!」
ケチャップやリンゴ酢の酸味も、しっかり火をかけて飛ばせている!
ヨーグルトのまろやかさも豆乳で代用できてる!
それにジャガイモのとろみで継ぎ足しでも緩くならないはず!
スパイスの味と香りも充分再現できてる!
これで元のカレーと混ぜて一晩おけば味も馴染むし、一層まとまりができるはず!
そんなかさ増し用のルーを、お姉ちゃんの作ったカレールーに混ぜた。
粗熱を取ってタッパーにもう一度入れて、蓋を閉める。
「これで大丈夫なはず……!」
〇
「はぁ~。おはよう」
「おはよう。お姉ちゃん」
部屋着のままお姉ちゃんはテーブルに座った。
昨日遅くまで残業して、今日も仕事で早く起きたお姉ちゃんはまだ眠たそうだ。
「はい。昨日食べそびれた無水カレー」
「ありがと~」
眠たそうな目をこするお姉ちゃん。そしてテーブル上に温め直したルーをかけたカレーライスを置いた。
「ん~。いい香り~」
さっきまで目ボケ眼だったのに、香り高いカレーに頬を緩ませていた。
そしてスプーンを手に取ったお姉ちゃんはカレーを掬って口へと運ぶ。
咀嚼するお姉ちゃんを見ながら、私は内心ドキドキしてしまう。
昨夜の時点で充分味と香りは再現できていた。温め直した時も味見をして大丈夫だった。でも、実際に作ったお姉ちゃんが違うと思えばそれでおしまい。
もし不審に思われたら、そこから私が辿るのはお姉ちゃんに怒られる未来。
その不安に心拍数が上がっていくと、お姉ちゃんは飲み込んで口を開いた。
「ん~! やっぱり自分で丹精込めて作ったカレーは美味しい~」
頬に手を当てて満面の笑みを浮かべたお姉ちゃんを見て、思わずほっとした。
自分の作ったルーの味見をしたはずのお姉ちゃんも間違えるくらいの再現度!
これなら残ったルーの量を見てもばれずに済む!
「? どうかした?」
「え? ううん。何でもないよ」
首を傾げてきたお姉ちゃんに、すぐ平静を装って何事もなかったように返事した。
一時はそうなるかと思ったけど、私のつまみ食い事件は完全になかったことにできた。
完全犯罪カレー、ここに完食!
その妹、完全犯罪料理人につき。 中野砥石 @486946
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