西暦684年5月 上高末 再度の逃避行

猪手が下家から出て型から、下家も再度引っ越した。

吉備津彦の調査隊が、山田に来た際、下家が山田に残っていると、下家の逃避行の意味がなくなる。

刀良の狙いは、下家が山田からいなくなり笠岡に下家の配下の猪手が現れることで、調査隊の意識を、鞆と津に向けさせることであった。


下家の新しい住処である上高末かみこうずえの山中に、刀良と阿止理がいた。

「ここだ」刀良は周りを見て言った。

阿止里は、ある意味、呆れていた。

「山の中にこんな開けた場所があるのですね」

「木々が少なく開けているが、まともな道がない為、今まで手付かずだった訳だ。小川も流れている。開拓の苦労は少ないだろう」

「やはり、漁師は諦めるのですか?」

「仕方ない。海に出れば、必ず知り合いに出会い、吉備津彦の耳にも入ってしまう」

「それで、皆は納得するのですか?」

「幸運にも、猪手たちが、血の気の多いものと共に漁を捨てられない者も連れて行ってくれた。それに俺も漁では足手まといにしかならないが、百姓なら何かの手伝いができる」

「刀良様は下家の長なのですよ。百姓をしなくても」

「いや、生き延びる為とは言え、あの港から逃げ出し、古くから続けていた漁も捨てさせた。もう長の資格はない」

「刀良様以外に、誰が皆を導いていけるのですか。無理です」

「宇志麻呂みたいな若い者が育っている。それに少々疲れた」

阿止里は驚いた。確かに刀良は体が弱く、他の者の様には動けなかったが、『疲れた』等と弱音を吐くことがなかった。

それだけ、このたびの事は、肉体的にも精神的にも厳しいのだと判断でき、刀良の言葉に反対できなかった。しかし、賛成もできなかった。

しかたなく、阿止里は話題を変えた。


「ところで、調査隊は、拍子抜けする位、うまく行きましたね」

「調査隊の留玉臣とめたまおみ殿も、さっさと帰りたかったのだろう」

「楽々森の話では、留玉臣は吉備津彦に激怒され、危うく殺されかけたそうです」

「そこまでの失敗ではないだろうに」

「留玉臣の配下が吉備津彦に、三成で遊んでいたことを密告したそうです」

「八木姫が図ったか?」

「はい。刀良様の見立て通りです。八木姫は恐ろしい方ですね」


「阿止里よ。八木姫の事は置いておくとして。その『刀良様』の様付けはやめてくれ。お前から様付けで呼ばれていると、長を辞められなくなる」

「刀良様は、私が一番尊敬している人です。様付け以外ありません」

「幼い頃は、お互い、阿止里、刀良と呼び捨てだった。今更、呼び捨ては無理にしても、殿付けにしてくれ」

「刀良殿ですか……」


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