西暦682年8月 下家の庄屋 不名誉な戦い

「そんなことはできない!」

強面の猪手は、仁王立ちになり、長の刀良を睨みつけて叫んだ。

阿止里は、猪手と刀良の言い合いをオロオロしながら見守っていた。この下家の庄屋に集まっている他の人々も固唾を呑んで見守っていた。


刀良はゆっくりと言った。

「言いたいことは分かる。私も同じ思いだ。しかし生き残る為だ。そして温羅殿の指示でもあり、願いだ」

「死にたくない者は構わない。俺は温羅殿の恩義を裏切りたくないだけだ。温羅殿がどう言ようと、自分の信念に従うまでだ」

阿止里は、猪手が代替わりしたといえ、長に口ごたえするのは初めて見た。


しかし、刀良は対照的に静かだった。

「猪手。お前が温羅殿側に参加すれば、それだけで死ぬ人が増える。温羅殿もそれを望んでいない」

「しかし、何があっても、恩義のある温羅殿に刃を向けられない。人の上に立つ長として、恥ずかしくないのか?」

「猪手。私が恥ずかしくないと思っているのか?命が惜しいと思っているのか?私も温羅殿と一緒に伊佐勢理と戦いたい。しかし、温羅殿から自分を負かしてくれと言われた。自分の気持ちでなく、吉備の為に、長として不名誉を受けてくれと言われた」


刀良は全員を見渡した。阿止里は、その目に涙が浮かんでいるのが見えた。

「温羅殿は死ぬつもりでいる。我々にできることは、温羅殿の希望に沿うことだ」

阿止里は、刀良が人前で涙を流すのを初めて見た。

この刀良の発言で、怒りが収まったのか、猪手は座りながら、静かに言った。

「嫌だ。しかし、長がそこまで言うなら、その不名誉を受けるよ。伊佐勢理側として立派に戦ってみせる」

刀良は、少し笑いながら応じた。

「猪手。有難う」


そして、今度はずるがしこい表情を浮かべながら、小さい声で言った。

「不名誉を受けるなら、徹底的に不名誉を受ける。だから伊佐勢理側にはなるが、まともな戦いはしない。伊佐勢理側として伊佐勢理の足を引っ張る戦い方をする」

阿止里は刀良が何を言っているのか分からなかった。他の参加者も互いに顔を見合わせていた。

猪手は、暫く刀良を見ていたが、突然笑い出した。

「不名誉な戦いか!それでこそわれらが長だ。俺も立派に不名誉な戦いをする。立派な不名誉はおかしいか。じゃ、精いっぱいの不名誉な戦いをする」

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