14.証拠集め

 晴臣の滞在先を示す青い点は、自由が丘の住宅街から全く動かなかった。

 得意先とバーベキューをしに、千葉の海へ行ったのではなかったのか。

 何か手違いがあって、自由が丘に行かざるを得なくなった? この点にあるのは、その得意先の会社か何かだろうか。

 

 秋斗の記録会が終わり帰ってくると、千佳はリビングのテーブルの上にスマホを置いて、画面の青い点をじっと見つめていた。

 地図の点は入り組んだ路地の中にある、四角を指していた。ストリートビューで見れば、この建物が何か一発で分かるだろう。会社なのか──マンションかアパートなのか。

 それは分かっている。分かってはいるが、千佳にはその勇気がなかった。


 どれだけの時間青い点を見つめ、逡巡していただろう。

 何度目かの更新ボタンを押すと、青い点が移動していた。千佳は連打のように更新ボタンを押す。もどかしいほどの距離でしか点は動かない。歩いて移動しているのか。それでも点は、自由が丘の駅に向かっていることが分かった。

 食い入るように画面を見ていたスマホが突然、激しく震えたので千佳はぎょっとして肩を上下した。それと同時に「今から帰る」とメッセージが通知される。この青い点が所在を示している晴臣からだった。

 時計を見ると、もう四時半だった。


 浮気相手と会った後に、妻に帰るなんて連絡するものだろうか。やはり何かトラブルがあって、ここにいるのではないだろうか。

 千佳はのろのろと椅子から立ち上がる。

 そうだ、そうに違いない。


 自由が丘から調布にある千佳の家までは、一時間ほどだ。それならば、晴臣が帰ってくる前に夕飯の準備をしないといけない。

 千佳は買い物へ行くために、財布の入った小さなバッグを手にした。もう一度スマホの画面を見る。青い点は自由が丘から離れ、東急東横線の線路の上にあった。



 

 晴臣が帰ってきたのは連絡が来てから二時間後だった。自由が丘から帰るのに、そんなにかかるはずがない。でも千佳は、それがなぜなのか分かっていた。青い点はしばらく新宿駅構内にあったからだ。


「いやー今日も暑かったなあ」

 家に帰るなりすぐシャワーを浴びた晴臣は、さっぱりした顔でリビングに現れた。その素振りはいかにも今日一日、千葉の海岸でバーベキューをしていたかのようだ。

「海岸にいた割には焼けてないのね」

 千佳の鎌をかけた言葉も、ビールを飲みながらさらりとかわす。

「一応デカいテントは張られてるし、日焼け止め塗っていったし。今から焼いたら、シミになるだけだからなー」

──千葉にいたことになっているのだ、晴臣は。

 自由が丘になど、行っていない。一日を自由が丘で過ごしてなどいない。晴臣の設定ではそうなっている。

 千佳は目をつぶり、頭を下げた。


 


 晴臣が浮気をしている。きっと浮気をしている。

 それはいつの頃からなのだろう。

 週末の不在が増えた、一年程前からだろうか。夫婦生活のなくなった、数年ほど前からだろうか。


 結婚前に、一度だけ浮気されたことがある。相手は晴臣と同じ大学の先輩だった。いつも一緒にいるのに携帯ばかり触っている晴臣に、千佳は問い詰めた。浮気なんてしていないと否定する晴臣だったが、寝ている隙に携帯を見たらそれはあっさりと発覚した。先輩とやり取りする、ハートだらけのメッセージがそこにあった。


 先輩に言い寄られて、つい魔が差したのだそうだ。土下座をして謝る晴臣を、千佳はその時許したのだった。

 あれから晴臣は浮気をしていない。いや、単に千佳が把握していないだけかもしれない。


 以前のようにスマホを見れば、晴臣が浮気していることは確定するだろう。しかし常にスマホを持ち歩き、運良く触れたとしてもロックがかかっているに違いなかった。


 週が明け、平日の昼間一人で家にいると、胸の中の苛立ちともやもやで体をかきむしりたくなる。どうにかしたいのに、どうしたらいいのか分からないのだ。


 ママ友に相談しようとした。

 しかしメッセージを送ろうとして、はっと思い出す。この前市役所で会った、すっかり痩せこけたリョウくんママの顔。あのうつろな、生気を失った表情。冷たく乾いた笑い声。

──みんな、言いたい放題だったでしょう。

 ああそうだ、ママ友たちが遠慮がちだったのは最初だけで、次第に得意気に、そして少し楽しげにリョウくんパパの不倫を口々に話していた。

 ダメだ! 自分が相談したら、いないところで面白おかしくみんなに言われるだけだ!

 千佳は激しく首を振る。

 そんな時、思い浮かんだのは凪の顔だ。前に晴臣に浮気されたときも、凪に相談した。

 メッセージアプリを開き、凪に向けて文字を打とうとしたが千佳の指は宙で止まった。

 凪はきっと、別れろと言うに違いない。だって凪だから。凪は強いし、正しい。一人で生きていく力もある。だからきっと、さっさと別れろと言うだろう。

 千佳はまた、強く首を振った。

 結婚前の浮気の時も、そう言われた。だけど千佳は晴臣と別れることは考えなかった。本当に好きなのは千佳だと訴える晴臣を、ただ魔が差しただけだと許してくれと懇願する晴臣を、振り切ることができなかった。

 結婚前でも別れなかったのだ。今は更に多くのものを背負っている。別れる決断などできるはずもなかった。別れて、一体どうやって生きていけばいいのか──


 ママ友にも凪にも相談できず結局千佳が頼ったのは、誰が語っているのか分からないネットだった。

「夫 浮気してるかもしれない」で検索をかける。検索結果にとにかく証拠を集めましょう、賢い妻ならこう振る舞う、などという言葉ばかりが出てくる。弁護士事務所のサイトだった。

 覚悟を決めるように、三回瞬きをしてからその中の一つサイトを開いた。大きな文字で箇条書きが記されていた。

 ・決して問い詰めてはならない。

 ・泳がせ、とにかく証拠を集める。

 ・別れるのか、関係を続けるのか決断する。

 とにかく証拠を集めるというのは、どういうことだろう。結婚前の浮気はそんなことなどせずに、女からのハートだらけのメールを見た途端に問い詰めた。あれではいけなかったということか。


 首をかしげながらサイトを見ていくと『どんな決断をするにも、あなたを助けるのは証拠です』とある。

 浮気の証拠があれば、以下の点で有利になります。

 ・話し合いの場面で、相手に言い逃れさせない。

 ・離婚時の交渉を有利に進められる。

 ・夫や浮気相手に、慰謝料を請求できる。

 ・夫が離婚を望んでも自分が離婚したくないときは、離婚の申し出を却下できる。

 ・浮気相手に対し、夫との接触禁止を要求できる。

 そのためには、決して夫を問い詰めてはいけません。更に用心するようになり、不倫の証拠を隠すようになります。今まで通りに振るまい、泳がせつつ証拠を集めるのです。


 今まで通りに振る舞うなんて、そんなこと自分にできるだろうか。気持ちは塞ぐし、頭も痛い。イライラもする。もう既にいつもの調子でなど晴臣に話していない。今夜も時間通りに晴臣が帰ってきたとしても、普段のように接することなどできそうになかった。


 しかし集める証拠とはどんなものだろう。この前のGPSの記録は、証拠になるのだろうか。

 ・浮気現場の写真や動画(夫と浮気相手がホテルや相手の家に出入りする様子が分かるもの)

 ・メールやSNSでのやり取り

 ・スマホ内にある浮気相手との写真や動画

 ・夫や浮気相手が浮気を認めた音声

 ・浮気の行動記録(帰宅時間・電話履歴・クレジットカードの利用明細)

 自由が丘の住宅街にあるものが、相手の家だとしてもGPSの記録だけではダメだということか。もしそこで証拠をつかむなら、写真──つまり張り込みをしなくてはいけない。

 晴臣のスマホをなんとか見て、メッセージや写真を押さえる方が現実的だが、そんなものを見なくてはならないなんて、考えただけでも気が滅入る。もうひとつの、証拠の写真とはどんなものだろうと調べると、ラブホテルに入るものか最中のものとあり、千佳は思わずスマホをソファに投げつけてしまった。

 何故晴臣と他の女の、そんなものを見なければならないのか。一度見てしまったら網膜に焼きつき、死ぬまで忘れられないだろう。

 そんなものを見せられるくらいなら、一生疑惑を抱えたままの方がいいのではないかとさえ思った。



 しかし、思いがけずチャンスがやってきた。自由が丘の一件があってから六日後。金曜のことだった。

 毎朝六時半に起きてくる晴臣が、今日はなかなか寝室から出てこない。やっとリビングに来たと思ったら、パジャマのまま赤い顔をしていた。

「頭痛い、だるい」

 気だるそうに言う晴臣に体温計を渡すと、三十八度もあった。

「うっわーこれはヤバいわ」

 晴臣はソファに寝転びながら、呻き声を上げる。裸でフラフラしてたんじゃないのと言いたい気持ちを、千佳はぐっとこらえた。


 市販薬を飲んだ晴臣は、会社に電話を入れると、取り敢えず寝ると言って寝室に戻っていった。春菜も秋斗も学校に行き、いつも通りリビングには千佳一人だけだ。テレビも消え、家のなかは静まり返っている。

 

──どんな決断をするときも、あなたを守るのは証拠です。

 

 ネットで見た言葉が、頭をよぎる。証拠。それを探すのは、きっと今しかないだろう。

 もしかしたら、全ては千佳の思い過ごしかもしれない。そうだ、それすらも晴臣のスマホを見れば分かるはずだ。疑惑を一生抱えたままでもいいと思ったが、疑い始めてから千佳は既に今までと同じようには晴臣に接することができなくなっている。それならば、どちらにせよいっそはっきりさせた方がいいのではないか。さすがに最中の写真などない、ないに決まってる。そうだ、ないことが分かればそれでいいのだから。


 そっと寝室のドアを開け、隙間から中の様子を探る。エアコンの効いた部屋で、晴臣は布団をすっぽり被って眠っていた。忍び足でベッドに近づく。布団から少し出た顔は赤みを帯びており、目はしっかり閉じていた。顔を近づけると規則正しい寝息が聞こえてくる。

 スマホは、晴臣が寝ている枕の下にあるだろう。起きている間はずっとポケットにいれて持ち歩いているが、寝る前は枕の下に入れるのを何度か見ている。

 千佳は、晴臣が寝ているダブルベッドの左側に周り込む。千佳はいつも晴臣の右側で寝ている。千佳に近い方には、スマホを置く習慣はないだろうと考えたからだ。

 

 寝息とエアコンの稼働音だけが聞こえる寝室で、千佳自身の心臓の音が割れそうなほどに体内に響き渡る。緊張で手が震える。止めようか、戻ろうかと戸惑う気持ちを押さえ、千佳は左側から手を枕の下に滑り込ませた。指先に樹脂製の角ばったものが触れる。自分が寝ている枕の下に千佳の手が入っている状況だが、晴臣は起きる様子もなく規則正しい寝息を立て続けていた。

 意を決し、千佳はスマホをつかむと勢いよく手を引いた。晴臣の寝息がぴたりと止まる。千佳はとっさにスマホを持った手を背中の後ろにまわした。

 起きたのか、気づいたのか。震える手を必死に抑える。口から出そうなほど心臓が早鐘のように鼓動を打つ。晴臣が、小さく鼻を鳴らし、仰向けから体を千佳の方に向けた。千佳は目を大きく開き、その様子を凝視した。


 数十秒、いや実際にはごくわずかな時間だったかもしれない。晴臣は再び寝息をたて始めた。千佳の強張った背中から、一気に力が抜けていった。しかしこれでまだ終わりではない。千佳は自分の方に体を向けて横向きになって眠る晴臣をじっと見た。千佳の気配は感じていないのだろう、起きる様子は見られない。

 千佳は音を立てないように、ゆっくりとフローリングの床に膝をつく。それでも横で寝続ける晴臣を確認すると、恐る恐る掛け布団をつかみ、そっと持ち上げた。布団を持つ手が、布団が、小刻みに震える。それをこらえて、布団の中にエアコンで冷えた空気が入らないように、少しずつ少しずつ布団をめくっていく。

 晴臣の手が見えた!

 横向きになった晴臣は、右手をベッドの縁に置いている格好だった。右利きの晴臣は、いつも右の親指で指紋認証をしている。それはこの数日間で、しっかりと確認していた。

 千佳はスマホの画面を表示させ、晴臣に聞こえないよう小さく深呼吸をすると、一気にスマホを晴臣の右手のそばに滑り込ませた。マットレスに強く押しつけ、親指の前に画面を置く。途端にスマホの画面の色が、ぱっと変わった。

 千佳が急いで手を引き抜くと、スマホの画面にはたくさんのアプリが表示されていた。ロックが解除された。その瞬間、身体から一気に力が抜けるのを感じた。

 そんなことなど露知らず、赤い顔をした晴臣は規則的に寝息をたてて眠り続けている。千佳は再びロックがされないよう、注意をしながら寝室を出ていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る