13.別れ
聞き間違いだろうか、勘違いだろうか。違う誰かのことだろうか。
何度もそう考え、願った。だけど聞かなかったことになど、凪にはできなかった。
散々迷った挙げ句、天野にメッセージを送った。
「みんなのインフルが治ったら、会ってください。話があるの」
みんなのインフルってなんのこと? そんな返事を期待したが、既読になっただけで翌朝もその次の日も返事はなかった。それが答えだと、凪は悟った。
天野から返事が来たのは、一週間が経った時だった。
「今日の夜、話せる?」
なんの弁解も、とぼけることもなかった。
指定したのは浅草近くの隅田川沿いの遊歩道、隅田川テラスだった。店には入りたくない、二人きりにもなりたくなかった。
整備され、所々にベンチのある歩道には、涼しくなった夜にランニングをする人や、散歩をするカップルで人通りは絶えなかった。
後から来た凪を見るなり、天野は頭を下げた。
「ごめんなさい」
凪は目を閉じ、深くため息をついた。
色々な思いが胸の中にうずまく。何を言っていいのか、あんなに準備してきたはずなのになにも言葉が出てこない。目をつぶったまま、こめかみを指で押さえた。
「どういうこと? 私とどうするつもりだったの?」
「こんなつもりじゃなかったんだ」
頭を下げるというより、うなだれながら天野は苦しげに声を出す。
「凪さんのことは、あの日の前から何度か見かけてた」
凪はゆっくりと目を開ける。視線を感じたのだろうか、天野も頭を上げて凪を見た。街頭に照らされたその顔は、眉間にしわを寄せ頬を歪め、苦しげだった。
「肩で風切って、仕事ができる女性なんだろうなって思ってた。自分とは別の世界の、人を寄せつけないっていうか、その、近寄りがたいなって」
「その近寄りがたい女が財布忘れて困ってたから、親近感でも覚えた?」
『近寄りがたい』なんて、言われ慣れてるはずなのに。天野に言われて、改めてまた傷ついてる自分がいた。
「仕事ばっかりしていて男とは縁がなさそうに見えたから、簡単に落とせるかなって思ってたんだ。結婚も興味なさそうだし、後腐れない関係になれるかなって」
「──なっ!」
乾いた音が、辺りに響き渡った。気がついたら右手で天野の頬を打っていた。
「あんた、そんなつもりで!?」
天野は叩かれた頬に触れず、再び頭を下げた。
「やれたらいいなって、ただそれだけで……だけど、凪さんのこと知っていくにつれて、惹かれていく自分がいて……気がついたら本気になってた」
「嘘つき!」
この年になって、そんな目的で近づかれるなんて! しかも簡単に落とせるかなとは! もう屈辱でしかなかった。歯を食いしばって必死にこらえるが、目尻から涙が次々とこぼれてくる。
──本気だったのに! 本気で好きになったのに!
「嘘じゃない!」
天野は勢いよく顔を上げた。叫び声を上げたその瞳は涙で光っていた。なんで天野が泣くんだと、凪は奥歯を噛み締める。
「本当のこと言わなきゃって、ずっと悩んでた! でも凪さんに会うたびに、どんどん……失いたくなくて、言えなくなって……」
天野は再び、更に深く深く頭を下げた。遊歩道を通る人たちが、ふたりの横を好奇心でいっぱいの視線を送りながら過ぎていく。
「……やめてよ」
凪は天野の腕を取り、引っ張り上げた。これ以上頭を下げられたって、自分までがただ好奇の目に晒されるだけだ。半袖の作業着にむき出しの天野の腕は、あの夜はあんなに力強く滑らかだったのに、今は力を失って弱々しかった。
「謝ったって、家庭を捨てる気なんてないくせに!」
投げつけるように、つかんだ天野の腕を乱暴に離す。顔を歪ませ、苦悶の表情を浮かべる天野の顔から目をそらし凪は言い放った。
「さよならっ!」
体の向きを変え、川沿いの遊歩道を大股で歩き出す。当然、天野は追ってこない。
凪の目から、大粒の涙があふれでてきた。口から小さな嗚咽が漏れる。手で目を押さえるが、涙は次から次へと溢れて止まらなかった。
いい大人が泣きながら早足で歩く姿を、周りの人はおかしく思うだろうか。でもそんなこと、もうどうでも良かった。
歩行者専用の橋に登ると、早足で歩いていたヒールの足が、内側に曲がった。勢いよく前につんのめる。派手に地面に膝をついてしまった。慌てて立ち上がろうとすると、擦りむいた膝はストッキングが破れ、血がにじみ出ていた。
それを見た途端、凪は膝を抱え込んでしゃがみこんだ。
──バカみたい。
心のなかで呟くと、堰を切ったように涙が溢れてきた。
バカと叫びたいのに、口から出たのは嗚咽だった。
もう歩けない。
膝を抱えてしゃがむ凪は、声を上げて泣き始めた。
バカじゃないの。
なんで正直に全部言うのだ、あの男は。
ただやりたいだけなら、もう少し騙し続けてくれればいいのに。
面倒になったのなら、適当な理由をつけてさっさといなくなればいいのに。
妻子持ちがバレた後にわざわざ会って、バカみたいに頭を何度も頭を下げて!
凪は両耳をつかむように、頭を抱え込む。
家庭がうまくいってなかったのか、元々そういう男だったのか。そんなことは分からない。
そんなことはどうだっていい。
だって、凪は天野が好きだった。
自分に見せる顔が、ごく一部のいい顔だったとしても、それでもそんな天野が好きだった。本気で好きだった。
いい大人なのに、天野を失った自分は、こんな風に声を出して泣いてしまうのか。あんなに強いとか、怖いとか言われているのに。
七年ぶりの凪の恋は、唐突にあっけなく終わりを告げた。
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