11.GPS

 それは機能の割にはあまりに簡単にネットで購入でき、頼りないほどに小さかった。千佳は四角く白いGPSを手のひらの上に乗せて、じっと見つめた。


 一度疑い始めたら、きりがなかった。

 ここ一年くらいだろうか。得意先との付き合いだ、後輩のカバーだなんだと言って休日出勤が増え、平日も出張が増えた。帰りの遅いことが増えた。仕事の責任が増えてきたからだと言われて納得していたが、本当に仕事なのだろうか。疑う千佳がなんの仕事か聞くと、嫌がらずに話してくれる。何という得意先のどういう会合か、誰がどういう問題を起こしたのか、淀みなく。ただ千佳には、それが正しいのかどうか全く判断がつかなかった。


 夜のことだってそうだ。確かに回数は減り、いつの間にか全くなくなったがそういうものだと思っていた。不満はあるものの、晴臣が求めてこないならばもう自分たちには必要がないと判断されているのだと。


 しかし『夫の不倫』という疑惑が芽生えた今、それらのこと全てが一気に結びつくようになった。ああ、最近の自分の不満や小さな疑問は全部これが原因なのではないか、と。


 とはいえ心のなかでは『やっぱり違うのでは』という思いが不倫という言葉を、必死に打ち消そうとする。気のせいではないのか、ただの偶然ではないのかと。

 考えても考えても、色んなほつれを見つけてやっぱり晴臣は不倫してるのではと思う自分と、そんなはずはない気のせいだと思う自分がいて何も解決しないのだった。

 だからと言って晴臣に直接聞いたところで、本当のことを言うはずがない。元々弁の立つ晴臣だ。

「ねえシンガポールに行くのが、お盆ってどういうこと?」

 市役所に晴臣がパスポートを申請するのに必要な、戸籍謄本を取りに行った時にリョウくんママと会ったのだ。パスポートを取った理由のシンガポール行きが、お盆の時期なのだという。そんな高くて混み合う時期に、会社がわざわざ出張に行けなどというのだろうか。本当に出張なのだろうか。会社はお盆休みなのに偽って、どこかの女と海外旅行するんじゃないだろうか。疑惑は、千佳の心の中でどんどん広がり始めていく。しかし晴臣は顔色ひとつ変えず返すのだった。

「向こうが来いって言ったら、行かなきゃいけないんだよ。日本はその時期お盆で高いから行けませんなんて、どこの会社がいうんだよ。あっちはお客様なの。大口なの」

 そう言われたら、そう言うものなのだと千佳は飲み込むしかなかった。そもそも晴臣は保険会社の営業だ。それで何故シンガポールが突然出てくるのか。シンガポールに大口の客がいるってどういうことなのか。聞いたところでどうせ、千佳は丸め込まれるだけだ。


 だからGPSを買った。ネットで4,788円。こんなもので本当に分かるのだろうか。


「今度の土曜、得意先のバーベキュー大会なんだわ」

 木曜の朝、シリアルを食べながらだった。今日も暑そうだなと言ったあと、つけ足しのように晴臣は言った。前までは休日の予定は随分前から申告して、教えてくれていたのに。最近はこんな風に、直前になってからさらりと言う。それは休みに不在であることが、当然になってきた証なのか。もしくは罪悪感からか。

「今週末、ぼく水泳の記録会があるんだけど。今度の大会もパパは来られないわけ?」

 秋斗が納豆ご飯を食べながら不満げに言った。晴臣と同じ、シリアルを食べている春菜は目をテレビに向けたまま何も言わなかった。

「前の競技会も来なかったし」

 秋斗は頬をふくらませて抗議する。晴臣は顔の前で手を合わせ、目をつぶって頭を下げた。

「ごめん! 今度の大会は必ず行くからさ。大体中学生になって毎回親が観に行ったら逆にうざいかなと思ってさ、仕事入れちゃったんだ」

「まあそりゃ、そうだけどさ……」

 晴臣はズルい。そういう言い方をしたら、思春期の秋斗は来てと言う方が恥ずかしいと思ってしまうではないか。

 千佳が口を開きかけると、テレビを見ていた春菜が振り返って晴臣に冷めた視線を送った。

「秋斗は今度の結果次第でジュニア予選に出られるかどうか、決まるんだってよ」

 弟をかばう言葉を残すと、シリアルを半分残して春菜は立ち上がりリビングを出ていった。

「ちょっと、春菜! 残してるじゃない、足りるの?!」

 千佳が慌てて洗面所に行った春菜へリビングから声をかけると、足りるしという苛立ちを含んだ声が返って来た。それを合図に秋斗も席を立つ。

「ぼくも、もう行かないと!」

 どう考えてもまだ早い時間のはずなのに、流れる微妙な空気を感じ取ったのだろう。秋斗がばたばたと小走りでリビングを出ていく。千佳はため息をついて、晴臣を見た。

「最近週末の仕事が多すぎるんじゃない? 休日手当出ないんでしょう? そんなに働いて大丈夫なの?」

「そんなもの管理職に出るわけないだろ。大体手当の問題じゃないんだよ、こういう場で得られるものは」

 晴臣も、千佳に負けじとため息交じりに答えた。まただ。分かるような分からないような答え。千佳は、ミネラルウォーターを飲む晴臣の喉ぼとけが動くのをじっと見つめた。

 この朝ごはんだってそうだ。晴臣も元々秋斗や千佳と同じように、和食の朝食だった。春菜だけが、朝から和食は重いだのダイエットだのと言ってシリアルを食べていたのに、ある日から健康に気遣いたいからなどと言って晴臣までもシリアルとミネラルウォーターに変えたのだ。それすらも、不倫のために若返りたいのかと怪しんでしまう。


「そりゃ得意先のバーベキューなんて楽しいわけないよ。家にいた方がいいに決まってるじゃん。暑いし、気を遣うし」

 眉間にしわを寄せて、晴臣が首を振る。確かに暑いなかバーベキューは大変だと思う。本当ならば。

 千佳が真意を確かめようと晴臣の目を見つめて黙っていると、畳みかけるように晴臣は続けた。

「七月に千葉の海だよ? ありえないよ。でもまあ仕事だからさ」

 この時にはもう、千佳の心は決まっていた。確認するつもりで晴臣に尋ねた。

「千葉の海って? どこ?」

「あーどこだったかなあ。部下も一緒でさ、車で連れてってもらうから細かい場所は覚えてないなあ」

 晴臣は首を傾げながら椅子から立ち上がり、そう答えたのだった。

 

 金曜の夜中、隣の晴臣が眠りに落ちるのを待って千佳はベッドを抜けた。二人の寝室を出て玄関に向かう。そこには黒の四角いビジネスリュックが置いてあった。明日持っていくために、さっき晴臣がここに置いていたのを確認している。

 中を開けると財布と汗拭きシート、タオル地のハンカチしか入っていなかった。これが得意先のイベントに行くための持ち物として正しいのかどうか、千佳には分からなかった。内ポケットの一つにGPSを入れた袋を縫い付けていく。本当はスマホを見れば、どこにいたのかすぐに分かるのだろう。しかし晴臣は常にスマホを持ち歩いていたし、寝るときも枕の下に入れていて、勝手に見ることなど不可能だった。

 縫い終えると千佳はキッチンに向かう。冷蔵庫からチューハイの缶を取り出して、缶のままあおった。さすがに今夜は、眠れそうになかった。


 翌朝、七時に晴臣は千佳に玄関で見送られて家を出ていった。仕掛けられたGPSに気づいた様子は全くない。今から本当に女と会うのだろうか。やはりただの千佳の邪推で、本当の本当に得意先のバーベキュー大会だろうか。だって嫁に見送られて不倫しに出かけるなんて、あまりにも馬鹿にしすぎている。

 そうこう思いながら、スマホを手に取りアプリを起動させる。晴臣の位置を示す青い点は、家からすぐの場所にある駅の中にあった。部下に車で載せていってもらうと言っていたから、待ち合わせ場所まで電車で行くのだろう。スマホを持つ手が汗ばんでいた。更新ボタンを押したが点の位置は変わらない。晴臣が家を出てからまだ十分も経っていなかった。こんな調子で今日一日持つだろうか。


「ママ、腹減った」

 背後から秋斗に声をかけられ、あまりの驚きに肩を震わせスマホを落としそうになる。そうだ、今日は秋斗のスイミングスクールの記録会だった。

「ごめんごめん、今すぐ用意するから」

 取り繕うように千佳は秋斗に笑顔を向け、動き出す。むしろ今日は秋斗の付き添いで良かった。スクールで他の子のママとも会うし、秋斗の応援もしなくてはいけない。一人家で晴臣の行方を追っていたら、精神が持たなかったかもしれない。


 スイミングスクールのトイレで、競技の合間に千佳はアプリを立ち上げた。

 

 青い点は、千葉の海などにはなかった。

 目黒区、自由が丘駅近くの住宅街にそれはあった。

 千佳の身体から、一気に血の気が引いていく。

 その日の秋斗の大会記録は、全く覚えていない。

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