10.はじめての人

 待ち合わせ場所の荻窪駅前に、天野が白の軽ワゴンで現れたので凪は目を丸くした。

「これ会社の車だよね? まさかついでに仕事するの?」

 おはようと挨拶しながら車に乗り込み、早速尋ねる凪に天野は苦笑いを浮かべる。

「自分の車、昨日急に壊れちゃって。ムードない車でごめん」

 謝りながら、天野は車をアクセルを踏む。車は駅前のロータリーを抜けていく。

「ムードない車って・・・・・・」

 先週の夜の記憶が残るこの車の方が、凪にとってはなまめかしいのだが。この前の夜のことを思い出しそうになり、凪は慌てて窓の外を見た。梅雨もすっかり明けて、痛いくらいの日差しが降り注ぐ気持ちいいくらいの快晴だった。

「ねえ、今日はどこに行こうとしてるの?」

 凪は運転席の天野に視線を移す。一昨日一緒に飲んだ時、天野が車でどこかに行こうと誘ってきたのだ。行き先は俺が決めておくよと。天野は江戸川に住んでいるというから、てっきり房総にでも行くのかと思っていたが、車は東名高速を目指しているようだ。千葉とは逆の方向である。

「えーっと、鎌倉」

「鎌倉? 意外!」

 天野の答えに、凪は目を丸くした。天野が鎌倉を選ぶなんて、全く想像してなかったからだ。

「なんで鎌倉? もしかしてお寺巡りが趣味とか」

「いやそんなことないけど、凪さん京都とか好きだって言ってたじゃん」

「まあそうだけど」

 以前京都に一人旅をした話はした。歴史も好きだし、古い街並みも好きではある。

「だからこの際俺も凪さんに色々教えてもらって、賢くなろうかなーって。鎌倉って、北条政子が怖かったってことしか覚えてないから」

 天野の言葉に、凪は吹き出した。つられて天野も笑い声を上げる。


──こんな人、初めて。

 今まで付き合った男性は、一生懸命凪に色々教えようとしてくれた。知らないこともあったけど、知ってることもあれこれ得意気に語ってくれた。一緒にクイズ番組を観ていて、彼は答えを次々と口にする。凪がすごいねと言うと、嬉しそうに言ったものだ。お前、勉強ばっかりしてたから、こういう雑学的なの知らないんじゃないの。

 素直に分からないとか、教えてほしいなどと言ってくる男性なんて、今まで凪は付き合ったことなかった。


 今日の天野は白のポロシャツに、デニムのパンツ姿だった。特に鍛えてはいないと言うが、現場仕事ゆえだろう。袖から伸びる日に焼けた腕は引き締まっており、シャツが覆う胸板の厚さはその上からも十分感じられた。

 

 あの夜、二人はそのままホテルに向かった。天野は骨ばった手で凪を優しくなぞり、この引き締まった腕でしなやかに抱き、厚い胸板を荒々しく押しつけてきた。

 体の奥が疼くのを感じて、凪はノースリーブの腕を両手で抱えた。

「どうしたの? 寒い?」

 天野が凪の顔を覗き込んで、心配そうな表情をする。自分だけが今、あの夜を思い出してることに凪は恥ずかしさを覚えた。慌てて首を振り、ハンドルを持つ天野の手を見つめる。

「手、繋ぎたいなって」

 凪の言葉をどう捕らえたのだろうか。天野は少し目を見開いて、そっと返した。

「あとでね」

 

 

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