6.守ってもらいたい
「凪ちゃんありがとう! やっぱ凪ちゃんはすごいなあ」
「すごいのは私じゃなくて、その得意先ね」
目の前にある立派な夕御飯そっちのけで、目を輝かせてチケットを受け取る春菜に、凪はそんなことないよと首を振った。春菜に渡したのは、某サッカーチームのプラチナ席のチケット。スポンサーをやっている得意先がよかったらどうぞとくれたのだが、凪はサッカーに全く興味がない。高校時代、千佳がサッカー部のマネージャーだったので声をかけたら、喜んだのは春菜の方だった。最近このチームのフォワードを推してるらしい。
「この試合の日、テスト前って千佳から聞いたけど。大丈夫?」
「大丈夫だよお」
春菜はニコニコと笑いながら、タコの炊き込みご飯を口に入れる。今日の夕飯はそれとアスパラガスの牛肉巻きにパプリカのマリネ、豆腐の白和えに根菜の味噌汁だった。この色とりどりの食事は全て千佳が作ったらしいが、こんなもの家で作れるのかと凪は感心する。凪が途中で買ってきた唐揚げも、おしゃれな器に入れられてテーブルに鎮座しているが、全く雰囲気に合っていない。
中学生の秋斗は九時まで塾で帰ってから、夕飯を食べるそうだ。夫の晴臣は仕事で急なトラブルが起きて、急に夕飯がいらなくなったらしい。その代わりにと言ってはなんだが、チケットのお礼にと凪が夕飯を食べることになったのだった。
「ね、凪ちゃんってさ、二年の頃から受験勉強始めてた? 部活でキャプテンもやってたのに、*大に現役で受かってるじゃん。どんな風に勉強してたの?」
春菜の質問に、凪は苦笑いをする。
「それって私じゃなくて、千佳とか晴臣くんに──」
「だってママの大学じゃ参考にならないでしょ。パパは最近忙しくて、あんま顔見ないし」
凪はなんと言っていいか分からず、ちらりと隣に座る千佳を見ると、千佳はなにも言わずに目を閉じて首を振っていた。
「最近あの調子なのよ。反抗期かしら」
春菜が部屋に戻ると千佳は凪の向かいに座り、小さな声でため息混じりに言った。低くうなるように食洗機の音が聞こえる。
「この前も薬学部を目指してるってママ友に話したら、勝手に言うなって春菜ってばすごくキレてさ」
肘を突き、眉間にしわを寄せて盛大なため息をつく。家の照明が薄く化粧をした千佳に影を落とし、ずいぶんと老けたように見えた。いや、自分もそうなんだろうなと凪は思い直す。
「そりゃ勝手に話したら、春菜だって怒るよ」
「でもさ、凪には自分から話してたじゃない」
確かにさっき夕ご飯を食べながら、春菜は自分から薬学部を目指している話をしてきた。将来は大学で研究をしたい、家のことを考えて国立の薬学部を目指したいとか色々と。
「凪は文系の経済学部なのにさ、なんで色々相談してるの。私にはどうせ分かんないって思ってるのか何も聞いてこないし、オミくんには予備校行きたいとかってお金の話だけ」
「私は千佳の友だちだけど、ママ友とは違うし。親でもないから色々話しやすいんだと思うよ」
怒らないし責任もないしね、と凪は心の中で続ける。さっき千佳が紅茶を淹れてくれたカップに口をつけて、ふと思いついた。
「でもさ薬学部って、私立なら一千万かかるとか言わない? いくら国立目指してるからって一校しか受けないわけじゃないんでしょう? 晴臣くんが高給取りっていっても、なかなか大変よね」
「そんな高給取りじゃないわよ」
そんなことあるってばと、凪は心の中で呟く。晴臣は保険会社勤務だ。どう考えても凪よりは、はるかにいい給料をもらっているはずだった。それは千佳の暮らしを見ても、一見してわかる。
けれど千佳はそういうことに疎いから、どれだけ恵まれてるか全くわかってないのだろう。そんなことをぼんやり考えていたから、次の千佳の言葉に目を丸くした。
「だから教育費のために、私も働こうかなってオミくんに言ったの」
「ええっ!? 千佳が?」
大きな声を上げる凪に、千佳は頬を膨らませて軽くにらんだ。
「そんなに驚くことないじゃない。これでも一応働いてたことあるわけだし」
「結婚前に一年くらいでしょ。しかも二十年近く前……」
その時もすぐに結婚して辞める気満々だったわけで、どうも働く千佳の姿というのが凪には想像できなかった。そもそもこんなに長い間働いていない者を雇ってくれるところなんて、このご時世──
「新卒で働いた信用金庫とかは絶対無理だって、オミくんに言われたわ」
ということは、この状況で事務職に就こうとしたのか。千佳の世間知らずさに、凪はそっとため息をつく。
「それにオミくんは私が働くことに反対だって」
「ええー?」
目を見開いて一応驚きの表情を見せるが、凪は心の中であーあとため息をつく。晴臣もそういう男なのか、と。凪の仕事関係でもよく出会う、妻に働いてほしくない夫。妻が外の世界を知るのが嫌なのか、自分が養いたいというプライドからか。そういう夫を求める妻もいるわけだから、凪がどうこう言えることでもないが。
「お前が頑張ったって、せいぜい時給千円ちょっとぐらいだ。だったら俺が頑張るから、お前は家にいなよ。だーって」
千佳の口調は不満げだが、口を尖らせるその表情は目尻を下げて微笑んでるようにも見えた。結局千佳も「俺が養うからお前は家にいろ」と言われたいということだろう。
(馬鹿にされてるとしか思えないんだけど)
もちろんそんなことは、いくら友達と言えど口には出さない。
「晴臣くん、千佳のこと守ってあげたいのかね。世間の荒波から」
「世間の荒波ぃ?」
何言ってるのと言わんばかりに、千佳は凪の言葉を繰り返す。ああ、本当に何も知らないのだ。目の前にいる可愛い奥さんは。
会社に行けば自分がしてない部下や下請けの過ちも頭を下げなければいけないとか、色んなものを守るために敢えて怒らなければいけないとか。売り上げが伸びなければ怒られるし、嫌みな上司や得意先だってたくさんいる。きっと夫の晴臣は、そういう嫌でつらいことを千佳の前では決して言わずに、大事に大事に守ってきたのだろう。
こんな何にも知らない奥さんなら、外に出したくないという気持ちも当然かもしれない。外に出て戦って傷つくには、千佳は社会に対してあまりにも純粋で無垢すぎる。
「晴臣くん、千佳のことが可愛くて仕方ないんだろうな。愛なのかな」
その愛の形が正しいのかは、分からないけれど。そして自分はそんな愛、いらないけれど。
「いいなあ」
そう思っていたのに凪の口からぽろりとこぼれ落ちたのは、千佳への羨望だった。聞き逃さなかった千佳が目を丸くする。
「えっ、凪がそんな風に思うの?」
よほど意外だったのか、瞳を開いて大きな目を二回まばたきさせた。
「凪も、誰かに守ってもらいたいの?」
千佳の言葉に凪は目を閉じ、ゆっくりと首を振った。ショートボブの髪が小さく揺れて頬に当たった。
働きたくないときもあるけれど、仕事は嫌いじゃない。きみは働かなくていいよと、守ってもらいたいわけではない。
千佳を見ていてふと気づいたのだ。自分の奥底にある思いに。
──守ってもらえることを喜びと感じられる女に生まれたかった、と。
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