5.出会い

 凪は乱暴にヒールをタイルに打ちつけ、甲高い音を響かせながら会社のエントランスを歩いていた。自動ドアが開くと、唇をかみしめスピードを落とさずに上野の街を歩いていく。


「なんか怖くない? それに仕事ばっかり頑張ってどうすんのよ。だから男も寄ってこないし、結婚できないんだってば」

 

 さっき聞いた、派遣社員の町田ユリカの言葉だ。三年の契約を終える町田が、社員登用の誘いを断ったことはすぐに部署内に広まった。派遣社員同士でよく昼を一緒に食べているから、そこで話したのだろう。


 五階の倉庫の奥で凪が、午後から訪問する得意先に持っていくカタログを探していた時だ。ドアの開く音がして、誰かが入ってきた気配がした。建設会社の凪の会社の倉庫には、ヘルメットや小さな部品の入った棚がひしめき合って設置しており、凪が探しているカタログは一番奥の棚にあった。そのため倉庫は小さいのだが、凪の位置からは誰が入ってきたのか分からなかった。

「YSの3256Q」

 部品名を呟く声で、入ってきたのが先月から入ってきた派遣社員の片倉だと分かった。一緒に部品を探そうかと凪が奥の棚から出ようとすると、もう一人の声が聞こえてきた。

「あった、これだよ」

 町田ユリカの声だった。付き添って一緒に探していたようだ。

「ありがとうございます」

 お礼を言う片倉の声を聞いて、出る幕のなかった凪は再びカタログの棚に戻った。目的の物が見つかったらしいが、奥に凪がいることに気づかない二人は倉庫の中で話を始めた。

 

「町田さん、そんなに色々仕事知ってるのに社員にならないんですね」

「えーだって、社員とかだるくない? 私はもっと気楽に仕事したいのよ」

 いつもニコニコと笑い、おっとりのした感じの町田の口から『だるい』という言葉が出て、凪は目を丸くする。こんな話し方をする子とは思っていなかったが、凪に見せない一面があったということか。

 しかしこんな話をされては、完全に出ていくタイミングを逃してしまった。早く二人が出ていかないかなと、凪は焦れながらそっと倉庫の入り口を伺う。

 

「でも胡桃沢さんに憧れてるって、言ってませんでしたっけ?」

 急に自分の名前を出されて、凪はぎょっとして身を硬くする。ここにいることがバレたら、とんでもないことになる。身体を縮ませ、息を潜めた。

「会社には一応そう言うよお。よく思われたいもん。でもさあ、胡桃沢さんって──」


 そこで、町田の口から出た言葉が『怖い』だった。

──なんか怖くない? それに仕事ばっかり頑張ってどうすんのよ。だから男も寄ってこないし、結婚できないんだってば。

 おまけに『男も寄ってこない』とまで!


 二人の派遣社員の前へ出ていって張り倒したい気持ちをぐっとこらえて、凪は倉庫の奥で身を潜め続けた。怒りでこめかみがどくどくと音を立て血管が浮き上がるのを感じたが、今二人の前に姿を表したら大問題になること間違いなしだった。


 そしてその後も暫く雑談をしていた二人がようやく出たのを見計らい、凪は倉庫を出て会社まで飛び出した。通りの理髪店の看板の時計は11時45分を指している。まだ昼休み前だが、そんなの知ったことではない。


「カツ丼大盛りでくださいっ!」

 注文する声もつい荒々しくなってしまう。

 支社勤務なので会社にいる時は基本昼は社食だが、一人になりたい時は一駅分歩いてこの定食屋に入る。入谷近くのこの定食屋は雑誌に載ったりするわけではないけれど、昔ながらの店で安くておいしいので凪は気に入っていた。あまり混まないのもポイントだ。色気がないと思いつつ、頼むのはいつも好物のカツ丼である。


 五分で運ばれてきたカツ丼の甘辛さと出汁の絡んだ匂いが、凪の鼻をくすぐる。卵でとじられたカツに、凪は昼時で満員の店内のことなど全く気にせず、文字通り食らいついた。

──どうせ、裏であんな風に言われてるとは思ってたけど!

 町田は純粋そうだと凪は思っていたが、同期の相原は調子が良さそうと称していた。社員登用の凪の推薦を断ったこともあったし、裏の顔を想像してはいたけれども。想像するのと、実際聞いてしまうのは全く違うものだ。

──悪かったわね、怖くて! 結婚できなくて!!

 口いっぱいにカツとごはんを頬張る。

 嫌なことは、思いきり食べて忘れるに限るのだ。



 定食屋のレジの前に立った凪の顔は青ざめていた。怒りに任せて会社を出てきたから、財布もスマホも持ってきていなかった。午後は得意先へのアポがある。会社に戻って財布を取ってくる時間はない。持っているのは首からぶら下げた社員証だけだった。どうしようと焦るが、どうしようもない。

(社名を控えてもらって、ツケにするか……)

 今時そんなことをしてもらえるか分からないが、何度か来てる店ではある。相談しようと口を開きかけたときだった。


 後ろから伸びてきたよく日に焼けて骨張った手が、トレーの上に一万円札を置いた。

「おばちゃん、二人分で」

「えっ!?」

 驚いて一万円札を置いた男性を見る。黒く焼けた作業着姿の男性が、凪の方を見ずにレジにいたおかみさんに話しかけ、凪の分もさっさと会計をしているところだった。

「あっ、あのっ!」

 さすがに見ず知らずの人に、大盛りのカツ丼代を払ってもらうわけにはいかない。慌てて声をかけると男性は目を細めて微笑みながら、くちびるに人差し指を当てた。日に焼けた目尻にはしわが深く刻まれ、それが男性の笑顔を柔らかく見せた。


「よくお見掛けしますよ」

 凪が男性に続いて店を出ると、凪がお礼を言うより先に、彼が振り向いて話しかけてきた。

「近くの会社にお勤めなんですよね。お仕事頑張ってらして、かっこいいなあっていつも思ってました」

「いや、そんな」

 凪は慌てて顔の前で手を振る。お金を出してもらった上に、何を言わせているのだ。それに凪は、このブルーの作業着の男性に見覚えがなかった。凪に恥をかかせないように、上手なことを言ってくれてるようだが申し訳なさすぎる。

「あの、お名前……! 私っ」

 スーツの胸ポケットにしまっていた社員証を出して、名乗ろうとすると男性は軽く手を振った。

「いいんですよ、おごりですから」

 再び目尻をくしゃりとさせて笑顔を見せると、凪が答える前に歩き出してしまった。

 さすがに追いかけて揉めるのは、格好悪いし迷惑だ。凪はぽかんと口を開けて、男性の広い背中を見送った。

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