4.ママ友
家に集まったメンバーを見て、千佳はリョウくんママがいないことに今更ながらに気がついた。思えばこの前のランチの時もいなかった。あの時は何か用事かなと思っていたが、二回連続不在は珍しい。
今日は千佳の息子、秋斗繋がりのママ友が家に集まり、それぞれ持ち寄ったお昼を食べている。キッシュやテリーヌなど、いつものようにみんな結構気合いの入ったものを持ってくる。場所を提供した千佳も、つけ合わせになりそうな和え物やサラダをいくつか用意していた。家に来た七人のママたちと一時間ほど話し、料理もあらかたなくなった。片づけをしてお茶を出そうと思った時に、気がついたのである。
「ねえ、リョウくんママはどうしたのかしら? この前も来てなかったわよね」
千佳の言葉に七人がぎょっとしたように目を丸くし、動きを止めた。
「えっ、あれ?」
軽い気持ちで聞いたのに、その場の空気が一瞬にして変わったことに千佳は動揺する。何か変なことを聞いたのだろうか。
他の七人のママたちは互いに目を合わせて目配せしたり、小さくうなずいたりしたのちに、千佳の隣に座っていたアンズちゃんママが、眉間に力を入れて押し殺すように低く小さい声で言った。
「秋斗くんママ、聞いてないの?」
「え?」
何も心当たりのなかった千佳は、瞬きをして聞き返す。その反応に七人は再び目を合わせて、肘で小突き合ったりしている。
あの時秋斗くんママいなかったんだっけ、などと七人で小声で言い合ったのちに、隣のアンズちゃんママが満を持したように口に手を当て、こそっと言った。全員知っているのなら、小声にする必要などないのだが。
「不倫よ」
「えっ!?」
全く予想してなかった答えに、千佳はぎょっとする。千佳の反応にアンズちゃんママは、目を細めて唇の端で笑った。千佳に呆れてるようにも、どこか得意気にも見える笑いだった。
「リョウくんち、旦那さんがレントくんのママと不倫したんだって」
「えええええーっ!?」
あまりの驚きに叫び声を上げ、千佳は慌てて口をふさいだ。一応防音はしっかりしているマンションだし、家には千佳とママ友しかいないから多少の大きな声は大丈夫なはずだが、それでも我ながら心配してしまうほどの大きな声だった。
「やっだー秋斗くんママ、ホント知らなかったの?」
「四月に入ってから発覚したみたいで、リョウくんもレントくんも不登校になっちゃったらしいし」
「そりゃ旦那がこんな身近で不倫してたら、リョウくんママも私たちに会いづらいよねぇ」
さっきまで千佳に話そうかどうか牽制し合っていたというのに、ママ友たちは堰を切ったように口々に情報を教えてくれる。
リョウくんもレントくんも、秋斗とは小学校も中学も同じだった。リョウくんママとはずっと付き合いがあるが、レントくんの母親はあまり見た記憶がない。確かシングルマザーで、仕事を理由にか保護者会や平日の行事は大抵欠席だった。そんな人なのに、どうやってリョウくんパパと知り合ったのだろう。
「サッカーチームで、だって」
千佳の心の中を読んだかのように、ママ友の一人が言った。
「リョウくんパパって、小学校の時サッカーチームのコーチしてたじゃない? レントくんもチームにいて、子どものこと色々気にかけてるうちに……らしいよ」
秋斗は幼稚園の頃からずっとスイミングスクールに通っているので、千佳はスポ少の事情はあまり詳しくない。だから保護者同士でそんなこと起こりうるのかと、口をぽかんと開けて聞くだけだった。第一子どもたちが同級生で、母親同士も知った仲だというのに。
そこで千佳は、ふと疑問に思った。
「ねえ、みんなはどうして不倫のこと知ってるの? リョウくんママから聞いたの?」
当のリョウくんママがいない割には、みんな詳しいではないか。
「ほら、なんか旦那の行動が怪しいみたいなこと、リョウくんママも何度か言ってたじゃない?」
「そうだっけ」
千佳は全く覚えてない。最近うちの旦那遅いのよねー不倫でもしてるのかもねー程度の話は、ママ友の中ではよくあるからだ。
それの大半は、その場の冗談で終わるのだと思うが。
「いやだってサッカーチームの他のお母さんが、二人が新宿かどこかで歩いてるの、目撃したらしくてさ。リョウくんママにお宅の旦那不倫してるわよーって教えてあげたんだもの」
「手、繋いでたらしいよ」
そう言ったのは、髪を夜会巻きにしている派手めなフウくんママと、肌の感じから恐らく千佳よりは十歳位上のルキくんママだ。フウくんもルキくんも、サッカーチームに所属している。
つまり不倫を目撃したどこぞのお母さんは、サレ妻のリョウくんママに教えて、もれなくチームの母たちにも
「私はリョウくんのママに、大変だよね、いつでも話聞くよってメッセージ送ったんだけどね」
それは『話聞いたわよ。お宅の旦那ったら、同級生の母親と不倫したんですってね』と言ってるようなものである。千佳は口を横に広げ、声を出せずにいた。千佳が何も言わなくとも、話は母親たちの中でどんどん進んでいく。
「レントくんママもまた、寂しげな美女って感じだもんね。木村多江みたいな?」
「リョウくんのママとは全然タイプ違うもんね」
「リョウくんのママって、声の大きいスライムって感じだもんね」
「分かる分かる! あの顔と体型ね!」
「旦那さん、スライムと一緒にいたのに、木村多江が良くなっちゃったんだねぇ」
自身のいない場で、家族の不祥事を語られ、おまけにスライムみたいとは散々な話である。母親たちの盛り上がりように引きつつも、千佳はついつい話を聞いてしまう。
頭の中では、男が妖艶に自分を見上げて腕を絡ませてくる木村多江の腰を抱き、追ってくるスライムから懸命に逃げている姿をぼんやりと思い浮かべていた。
「私たちこの話で先月は結構盛り上がったんだけど、秋斗くんママは知らなかったんだ?」
「秋斗くんママ、ちょっとぼーっとしてるとこあるからねぇ」
どさくさに紛れて、千佳まで悪口を言われる。先月と言ったら、四月の新学年が始まった月だ。役員選出のための保護者会もあったし、この不倫話はさぞかしみんなで盛り上がったのだろう。
「先月は上の春菜の部活とか進路の話で、高校の方ばっかり行ってたのよ。おまけに向こうのお母さんまで具合悪いとか言って」
義理の母は調布にある千佳の家から車で三十分ほどの、川崎市の外れに夫婦で住んでいる。頼るのはやっぱり娘よねと裏で言ってるのは知っているが、具合が悪い、どこそこが痛いとなると決まって呼び出すのは千佳なのだ。義理の姉、つまりその頼りたい娘は横浜に住んでいて千佳と距離は大して変わらないのに、DINKSでバリバリ働いてるから、声をかけるのは
ちなみにあれこれ痛いとしょっちゅう言う割には、義母も義父も思い切り元気だ。
そんなこともあり年度始めで気がかりだったが、秋斗の方は中二だし差し支えないだろうと思って、中学の保護者会も欠席しママ友のお茶の誘いも断っていたのだった。
「しっかしこんな身近で不倫されたら、リョウくんママはどうするのかしらね。離婚?」
「えーっ、できる? リョウくんママもずっと専業主婦でしょう? 引っ越して終わりじゃない?」
先月散々盛り上がったというママ友たちが、身近で起きた不倫騒動について再びあれこれ話し始めたところだった。
閉じられたリビングのドアの向こうから、ただいまという声がした。
「えっ、春菜!?」
その声に慌てて、千佳は高二の娘の名前を口にする。さすがに難しい年頃の娘に、弟の同級生の家で起きた不倫を聞かせるわけにはいかない。ママ友たちに話をやめるよう、牽制の意味もあった。
時計を見ると、まだ二時前。こんな早い時間に帰ってくるなど聞いていなかった。
千佳が慌てて立ち上がると同時にリビングのガラスドアが開いて、春菜が顔を見せた。
白のオーバーサイズのTシャツに、膝上十センチのショートパンツからは長く程よく肉付いたまっすぐな脚を、惜し気もなく出している。まっすぐ切り揃えた前髪の下からは、くりっとした大きな瞳を覗かせていた。千佳の高校の頃にそっくりと凪はよく言うが、春菜の方が少し目尻と口角が上がっていて、気が強そうに見えると千佳は常々思っていた。
「どうしたの、こんな早く帰ってきて」
千佳の問いには答えず、春菜は先に集まったママ友たちに頭を下げる。ロングヘアがさらりと揺れた。
「こんにちは」
きちんと挨拶をする春菜に、ママ友たちは口々にお邪魔していますと言う。春菜は千佳の後ろをすり抜け、キッチンに向かい冷蔵庫を開ける。キッチンと言ってもアイランド型なので、千佳たちのいるテーブルから春菜は丸見えである。
「五、六限体育だったんだけど、先生が休みだったから帰ってきた」
冷蔵庫からペットボトルを取り出し、グラスにお茶を注ぎながら顔も上げずに春菜は言う。
春菜の行く高校は自由な校風の進学校で、制服もないし、先生が休みなら自習もなく帰ることも自由だった。
「やっぱり春菜ちゃんは、優秀な高校行ってるから」
「しっかりしてるし、立派よねぇ」
目の前で誉められ、春菜は顎を前に突き出して、無言で軽く頭を下げた。居心地が悪いのだろう、お茶を入れたグラスには口をつけず手に持って歩き出した。すかさず千佳の向かいに座っているヒナちゃんママが、春菜に声をかけた。
「薬学部目指してるんですって? 難しいのに偉いわよねぇ」
千佳がぱっとこちらを見る。少しつった目で、それは一瞬睨んだかのように見えた。
「でも春菜ちゃんなら大丈夫よ。どんな難しい大学も受かるわよねぇ。うらやましいわあ」
無責任にアンちゃんママが言い、笑顔を見せた。春菜はそれに答えることなく、小さくごゆっくりと呟いてまた頭を下げるとそのままリビングを出ていった。
「ねえなんで、私が薬学部目指してること言いふらしたのよっ」
四時過ぎにママ友たちがそろって帰っていくと、待ち構えていたかのように春菜が部屋から飛び出してきた。
「言いふらすって……」
随分な言いようである。千佳は八人で座っていたテーブルを布巾で拭きながら、リビングの入り口に立つ春菜を見る。春菜の大きな瞳は爛々と光り、眉間にしわを寄せてぐっと千佳をにらんでいる。真っ直ぐに両脇に下ろした手で拳を作り、その手の甲には怒りを表すかのように青く血管を浮かび上がっていた。
「言いふらしてるじゃないのよ! 大体関係ないでしょ、 私がどこの大学を目指そうと! どっかのお母さんたちにとっては!」
「だってみんな春菜が優秀だって、大学はどこ行くのかしらなんて聞くから……」
「だからって本当のこと言う必要なんて、一ミリもないでしょっ!」
春菜のヒステリックな声が、リビングに響き渡る。ああ本当に、なんて気の強い娘だろう。勿論年頃ということもある。だけど自分が高校生の時はもっと
「これで薬学部に行けなかったら、大したことないのねってママ友の集まりでみんなに言われるんでしょ! 国立に落ちて私立に行ったら、すんごい高額なのよねー就職したところで元が取れるのかしら、とか!」
「まさか!」
みんなは春菜のことをすごい、優秀だと言っているのだ。いくら目指す大学に入れなかったとしても、そんなこと言うはずないではないか。
「ママって、ホントにのんきだよね」
千佳の反応に春菜は身体の力が抜けたように、手を開き首を傾けた。
「私の悪口を、みんながママの前で言うわけないじゃないの。いないところで散々言うのよ。笑いながら。どっかの家の不倫話を面白がるみたいに」
千佳は目を丸くし、言葉を失った。千佳はさっき、みんなで盛り上がっていた不倫の話を聞いていたのか。
「とにかく! 世の中の人が働いてる時間に集まって、いない人の悪口で盛り上がんないでくれない!?」
春菜はそう言い残すと、千佳の答えを待たずにくるりと踵を返し、大きく音を立ててリビングのガラス戸を閉めて出ていった。
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