3.凪の苛立ち
窓の外には、スカイツリーが見える。凪の会社は上野にあった。職場の会議室で部長に呼び出された凪は、困惑の表情を浮かべている。話は派遣社員の町田ユリカのことだった。
「本人は働き続けたいのだと、私は思っていたんですが」
眉間にしわを寄せ、指を唇に当てる。テーブルの向かいに座る白いものが混じる髪を短く刈り上げた部長は、斜め上を見ながら人差し指でこめかみを掻いた。
「胡桃沢がそう言って推薦してきたから本人に確認したが、とにかく町田は正社員になる意思はないようだ」
部長のダメ押しに、凪は憮然とした面持ちでため息をついた。
「胡桃沢のとこの派遣社員、退職するらしいじゃん」
昼休み、社食でBランチを一人食べていると同期の相原が声をかけてきた。相原は凪と同じ営業部に所属する部長補佐だ。つまり同期ではあるが、課長の凪の上司にあたる。
相原は昼ごはんの乗ったトレーを向かいの席に置き、断りもせずに凪の向かいの席に座った。
「円満退社って言ってくれない?」
凪は面白くなさそうに目だけを動かしてちらりと同期の上司を見ると、すぐにBランチの酢豚を食べ始めた。
実際面白くなかった。
町田ユリカは、凪が課長を勤める営業二課の派遣社員で、三か月後に在勤三年になる。派遣社員は同じ事業所で三年を超えて勤務することはできないのだ。
「バリバリ仕事する胡桃沢さんに、私憧れてるんです!」
この三年間で町田は、何度も凪にキラキラした目を見せてきた。だから少し仕事を覚えるのが遅いなとか、確認作業が甘くてミスもそれなりにあるなと思っていたが、やる気があるんだと思い正社員に推したのだ。
「町田さんのこと、社員に推薦しようと思うの」
凪の申し出にも、嬉しいとかありがとうございますとか、町田ユリカは言っていたではないか。
「あれは、そんな働きたいとは思ってなさそうなタイプだよねぇ」
さっき凪を会議室に呼び出した部長にも言われたことを、相原までもが言う。
部長は、町田ユリカにハッキリと言われたそうだ。
──私、責任ある仕事はしたくないんです、と。
なんだ、責任ある仕事って。お気楽に仕事していたいってことか。
「だって町田さんは、バリバリ働きたいみたいなこと言ってたのよ」
私みたいに、という言葉は飲み込んだ。凪は不機嫌を隠さず、向かいの相原に反論する。相原は凪のぶっきらぼうな態度には全く動じる様子はない。
「あの子調子いいからねぇ。胡桃沢さんみたいになりたいんですぅとか言ったんだろ?」
見事言い当てられて、凪の頬がぴくりと動く。
「ぼくも言われた、相原さんお仕事も家のことも何でもできて、奥さん幸せですねぇ~って」
相原の言葉に、凪は箸を持つ手を止める。
「調子いいっていうか、まあそこら辺を簡単にぼくなんかに見破られちゃう辺り、考えが浅いっていうか」
見破れなかったお前も浅いなと言われた気がして、凪は眉間にしわを寄せた。
「ま、とにかく女子がみんな、胡桃沢みたいじゃないってわけだよね」
もう食べ終わった相原は、次いい人来るといいねーなどと軽い調子で言い残して、食堂を出ていった。
相原は探りを入れたのか、励ましてくれたのか分からないが、凪は何とも面白くなかった。
二十五歳で独身の町田ユリカは、結婚の予定もないと聞いている。短大を出たのちに働いたIT企業を半年で辞めてから、凪の会社が派遣として二社目だと。
(そろそろ社員になる時期じゃないの? これから先もずっとその調子でどうするのよ)
そう思って凪は、はたとさっきの相原の言葉を思い出し、顔をしかめた。
──女子がみんな、胡桃沢みたいじゃないってわけだよね。
一見、胡桃沢みたいにバリバリ働きたいわけじゃないと取れる。しかし、相原は本当はこう言いたいのだろう。
──仕事よりも、結婚・出産を考えてるんだよ。
(私が結婚も出産もできないから、仕事を頑張ってるみたいに思わないでくれる?)
苛立った凪は三分の一ほどおかずをお皿に残したまま、投げるようにトレーに箸を置いた。
仕事は楽しい、充実している。
だけどこれでいいのかという思いが、凪の中で時折うずくのだった。
国立大の経済学部を出た凪は、商社への就職を希望していた。しかし卒業の頃は、就職氷河期真っ只なか。毎日のように色んな企業を回ったが、結局何とか内定を取れたのは今働いている建設会社一社だけだった。あの時代で総合職にこだわったのも、なかなか内定を貰えなかった原因の一つだったのかもしれない。
一方で私立の女子大に進んだ千佳は、いずれ結婚するからこだわりないと言って、大学に来ていた求人枠でさっさと信用金庫に就職を決めた。そしてさっさと妊娠して退職、母になった。
千佳に会うたび、なんて自分は要領が悪いのだと凪は思う。
志望した業種ではなかったが、入社したからには頑張ろうと思って今日まで働いている。しかし凪はやっと課長になれたところだ。同期の男性は、昼に話しかけてきた相原のようにもう部長補佐や次長になっているし、なんなら後輩にも抜かされている。
──女なのにすごいよね。
男と同じように働きたくて総合職になったし、地方勤務も経験した。それでも男性と同じようにはなれないし、子どもを生む女性にもなれていない。つくづく自分は中途半端な存在だと思う。
帰りにスーパーへ寄り、総菜とビールの入った袋を下げた凪は家の鍵を開けた。荻窪の築十五年の単身向けマンション。東京支社勤務になってから住み始めて、八年目になる。
二十代半ばに彼氏と半同棲していた時は、よく料理をしていた。だから自炊出来ないことはない。彼が喜ぶと思って、自分でもこういう面があることを見せたくて、頑張って料理をしていた。
その時の彼が、凪にコンプレックスを抱いていたのは気づいていた。それを一生懸命隠そうとしているのも。だから凪も一生懸命、何も分からない振りをした。バカな振り、できない振り。彼に気に入られるように、頑張って取り繕って、女性っぽい面を見せて──そして疲れて、そんな自分が嫌になって別れた。次の男も似たような感じで別れた。
シャワーを浴びると、ボブカットの髪をタオルドライしながら冷蔵庫を開ける。ビニール袋ごと突っ込んだ総菜を取り出し、トレーごとレンジで温めた。
先日行った千佳の家の出来事を思い出す。相変わらず綺麗に片づけられたリビングは、観葉植物やセンスのいい家具が置かれていた。千佳が日々手をかけているのだろう。対する自分の家は最小限の家具しかなく、ただ寝るだけの家だ。人など決して招けない。
千佳自身も肩ほどの長さの髪をおしゃれにアレンジしてまとめ、きちんとメイクをしてパステルカラーの可愛らしいワンピースを着ていた。いつ行っても家のなかも千佳もきちんとしているから、普段から手を抜くことなどないのだろう。
凪はトレーのままテーブルに総菜を置くと、プルトップを空けて缶ビールに口をつける。
どうせ自分だけなのだから、洗い物は最小限、トレーがあれば皿など出さない。千佳の家では絶対お皿に出して食べるよなと、いつも出される数々のおしゃれなお皿やカップを思い出す。北欧とかイギリスのブランドのセンスのいいものばかり出てくる。その上には千佳の手作りの料理。
この前出してくれた、千佳の作ったシフォンケーキもおいしかった。凪はいつも店で買ったものしか持っていかない。大体シフォンケーキなんてどうやって作るんだよ、とビールを飲みながら一人で突っ込む。
「嫁、ほしー」
この生活で幾度となく思ったことを口に出す。我ながら色気がないが、いっそその方が向いていると凪はつくづく思うのだった。
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