2.千佳の葛藤

「そりゃ私は、適当なものしか食べてないわよ。だけどみんなそんなものだと思わない?」

 土曜だと言うのに接待ゴルフに出かけていた晴臣が帰ってきたのは、八時過ぎだった。夕飯をちゃんと用意していたのに、飲んで来たから軽いものがいいと急に言うので、千佳は慌てて油揚げをさっと炙り、豆腐の和え物を作って食卓に出した。

 二人の子どもたちは父親が帰ってきても声を出すだけで、部屋から出てきはしない。

 

「凪ちゃんに会うと、いっつもそんなことばっかり言ってるじゃないか。仕方ないだろ、全然違うんだから」

 晴臣は自分用の缶ビールを持ってテーブルの向かいに座った千佳をちらりと見ただけで、テレビの野球中継を見ながら呆れたように返す。そして吐き出すように一言付け加えた。

「そもそも千佳だって、ママ友とランチだーなんだーって、いいもの食べてる時もあるだろ」

「そんなの、しょっちゅうじゃないもん。それにママ友とは……」

 春菜と秋斗の情報収集ために必要な、一種の仕事みたいなもの──と言いかけたが、晴臣の目がじっとテレビを見つめているので続く言葉を諦め、グラスに移したビールを口にした。


「会ったら文句言うのに、凪ちゃんとはしょっちゅう会ってるよな。話ならママ友の方が会うんじゃないの」

 テレビの野球中継をじっと見たまま、晴臣が言った。確かにそれは晴臣の言うとおりだ。子どもを通じて知り合ったママ達は、年賀状に文句を言ったりしないし、昼御飯を聞いたりしない。きっとみんな、子どもと夫が不在の昼食など、似たようなものだろう。


 凪とは高校の同級生だった。

 成績は上位でテニス部の部長、気も強くて男勝りでの凪と、いつもぼんやりしている千佳とは凸凹コンビだと当時からよく言われていた。確かにタイプの違う二人なのだが、今もこうして付き合いがあるのは気が合うからだろう。卒業すると凪は有名な大学に進み、独身のまま建設会社でずっと働いている。

 一方で千佳は人気の女子大に入り、信用金庫に入社したがすぐに退職した。在学中から付き合っていた晴臣との間に春菜を妊娠したからだ。インカレのサークルで知り合った二歳上の晴臣とは、妊娠をきっかけに結婚し、以来千佳が外へ働きに出たことはない。

 

「凪も結婚して子ども生んだら、気持ち分かると思うのよ。オミくん、誰かいない?」

 千佳の言葉にビールのグラスを傾けながらぼんやりと野球を見ていた晴臣は、ぎょっと目を丸くして顔を向けた。

「誰かって、凪ちゃんに? 今さら紹介?」

「そうよ、おかしい?」

「おかしいだろ~本人が結婚したいって言ったのか?」

「言ってないけど」

 結婚したいとも、彼氏がいるとも欲しいとも言ってないが、凪だって結婚すれば仕事とは違う主婦の大変さに気づくはずなのだ。

「四十まで結婚しなかったんだから、したくないんじゃないの? 仮に結婚願望あったとしても、あの凪ちゃんだよ? 並大抵の男じゃダメだろうよ」

「今は結婚したくなくても、実際したら色々変わると思うのよ」

 アルコールにあまり強くない千佳は、まだ缶一本だというのに顔を赤らめ、どこかぽーっとする頭でぼんやりと考えた。

「私は幸せだからさ、オミくんと結婚して」

 くすりと笑うと、千佳はまばたきして目を潤ませて上目遣いで晴臣を見つめた。


 千佳の誘いに、晴臣は世話しなく目をしばたたく。少しの沈黙の後、豆腐の和え物に手を伸ばして食べ始める晴臣は、千佳の視線に気づいてないのだろうか。ダメ押しのつもりで、テーブルのしたで晴臣の太ももを触ろうと千佳が手を伸ばしたときだった。

「あーそういや俺、来週の日曜も接待入れられたんだった」

 晴臣の言葉に、千佳の手がぱっと止まる。そんなテーブル下の出来事を知らずか、晴臣は少し腰を浮かしてパンツの尻ポケットからスマホを取り出した。そして憮然としてる千佳の顔を見ることなく、スマホを操作し始める。

「やっぱり、そうだった。先輩から草野球に誘われたんだった」

「えーっなにそれ、最近そんなのばっかりじゃない」

 千佳は頬を膨らませる。今日もゴルフだったし、先週末も急に呼び出されて出勤していた。平日だってここのところ残業が増えている。

「俺も四十半ばでさ、色々責任ある仕事が増えてきてるんだよ。千佳には大変な思いさせてるのは分かってるけど、ちょっと頑張らせて欲しい」

 スマホから顔を上げ、真顔で正面からまっすぐ見つめられたらもう何も言えなかった。そもそも千佳には仕事というものがよく分かってない。よく分かってないから仕事を理由にされたら、もうそういうものかと納得するしかないのだった。


「春菜も秋斗も将来を考える年になったじゃん。だからこそお金がないから諦めるなんてことがないように、俺も頑張りたいんだよ」

 子どものため。分かってる。千佳だって、子どものために日々奔走してる。だけど、少し前から澱のように胸の中に溜まってきたものに千佳は気づいていた。

 ──じゃあ私はなんなの。

 数年前から下の秋斗がようやく一人で部屋で寝るようになったというのに、晴臣が千佳に手を伸ばして来ることはなかった。作るご飯は食べてくれるし、不在の間子どもたちの面倒を見てくれてありがとうと言うが。それでも埋まらないものは、確実に千佳の中にある。

 晴臣と最後としたのは、一体いつのことだっただろう。それすらも思い出せない。

 

 二人の子育てで忙しかった。こんな都会のマンションの一室ではプライベートな空間もない。そうこうしている間に、気がつけば行為はなくなっていたのだ。晴臣は、もう自分たちには必要ないとでも思っているのだろうか。

 そうかもしれない。今更かもしれない。

 だけどもう女として求められることもないのかと思うと、何とも言えない寂しさが千佳を襲うのだった。


 お風呂場から晴臣の鼻唄が、かすかに聞こえてくる。今日のゴルフの成績がよかったのだろうか。こっちの気も知らずに、と千佳はそっとため息をついた。

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