7.隙のない女
「乾杯」
軽く重ね合わせたグラスの中の白ワインが、間接照明を浴びてきらりと光った。一口飲んでそっとグラスを置く。
「素敵なお店ね」
二人の目の前には大きなはめ殺しの窓があり、その向こうには厩橋と川岸の夜景を川面にキラキラと映す隅田川があった。
「良かったあ。凪さんおしゃれな店ばっか知ってそうだから、これで大丈夫かなって俺めちゃめちゃ緊張したんだよね」
天野は骨の目立つ大きな手を左胸に当てて大きく息を吐き、安堵の表情を浮かべる。真新しい白のTシャツの上からでも、がっしりとした胸がはっきりと上下したのが分かった。
蔵前の倉庫を改装して作ったというこのバーは、天野がお礼にと言って連れてきてくれた店だ。上野にある会社からは近いものの、蔵前は凪にとってあまり来ることのない場所だった。
天野はこの前、財布を忘れた凪に代わってカツ丼を奢ってくれた彼だった。
先週の木曜に会社から出たところで、偶然彼に再会した。凪はすぐに姿を認めてお金を返そうと財布を出したが、彼の大きな手に止められた。あれはごちそうしたんですから、と。では代わりにと、その夜に凪がなじみの割烹料理屋に彼を連れて行ったのである。
こんな店に作業着で大丈夫すかと青いつなぎを隠すように、大きな身体を縮めて店内にいる天野は──凪の目にはとても新鮮に映った。
作業着をよく見ると、胸にはオレンジ色の刺繡で『オーセン工業』とあった。聞けば浅草の近くにある社員十名の小さな外装会社とのことだった。
「同業者じゃん!」
凪の会社は、ビルと戸建てを請け負う建設会社だった。凪自身は営業なので現場に行くことはあまりないが、建物にかかわるという点では同じだ。
「いや同じって、建設ってだけだし!」
天野はめっそうもないと、手を振って否定した。
「現場で施工する俺ら下請けと、元請けじゃ全然違うでしょう! いや下請けっていうか、俺らの仕事は孫請けっていうか……ひ孫請け?」
全然違うってことはないでしょうと凪が否定すると、天野は口をきゅっと横に結び真面目な顔をして、首を横に振った。そしてよく日に焼けた頬を赤らめ、つんと上を向いている短い前髪を握りしめてこう言ったのだ。
「凪さんのこと実はよく見かけていて、格好いいなって思ってたんです。いつもピシッとスーツ着て、仕事してるって感じで。一人で食事してる姿も、背筋が伸びていて、なんていうか……」
「それを怖いっていうのよ、みんなは」
笑いながらそう返したのは、照れ隠しだ。だからカツ丼のお礼が豪華すぎるから更にお礼をしたいという天野の無粋な申し出を、自分は受け入れたのだと凪は後から思う。
天野拓也、凪より四歳年下の三十六歳だという。前もって約束していた今日は、青い作業着からTシャツとベージュのチノパンに着替えていた。Tシャツの白さが天野の肌の浅黒さに映えていた。
「ここ、よく来るの?」
アペタイザーのアボカドのピンチョスをつまみながら、凪が聞く。前回の様子からは、大衆居酒屋みたいなところが得意そうだったから意外だった。凪が先日連れていったのは、行きつけの庶民的な割烹料理屋だったが、おまかせの惣菜やお酒に恐縮しきりだった。
注文した鶏レバーのムースが、薄くスライスされたフランスパンと一緒に木製のボードに乗って運ばれてきた。凪はすかさず海老のアヒージョと、ビールを二つ頼む。
天野は頬を三本の指でこすり、斜め上に視線を送った後に観念したように言った。
「えっと、一回来ただけです。会社の人に連れられて」
あっさりと認めるその姿を、凪はまばたきして見つめた。
「凪さんには自分の知ってるなかで、一番おしゃれなところがいいかと思って……」
肩をすぼめて大きな身体を小さくし、天野は恥じるように言った。その仕草に、なんだか凪の頬まで赤くなる。
「私のことよく見すぎだってば。チェーン店だって、焼き鳥屋だって好きでよく行くわよ」
「えー? なんか意外」
「そもそも下町の食堂で、カツ丼の大盛り食べてるのよ」
凪の言葉に、天野が吹き出す。
「言われてみれば」
「でしょう? おまけに財布は忘れるし」
つられて凪も笑いだす。夜の光を受ける隅田川をうつす窓ガラスに、並んで笑い合う二人がぼんやりと写っている。天野は笑い声を止め、目を細めた。目尻に細かな皺が、優しげに刻まれる。のぞきこむように凪の顔をじっと見つめるので、凪はどうしたらいいのか分からなくなる。
「えっ、なに?」
「凪さんは隙がなくてできる女って感じだから、そういう抜けてるところ、なんかいいなあって思って」
突然の告白に、凪は目を泳がせ慌ててグラスに残った白ワインを飲み干す。
天野は酔ったのだろうか。まだ一杯目なのに。免疫ないとは言わないが、こんなセリフは久し振りすぎて戸惑ってしまう。
「じゃあ」
天野が凪の前に置かれたピンチョスへ手を伸ばす。普段住宅の外壁を塗っているという、骨ばった二本の指がピックをつまみ上げる。武骨な指から、手から、色気がこぼて落ちるようだと凪は思った。
「今度は、凪さんの好きな居酒屋に行きましょうよ。俺が緊張しないとこね」
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