四 白い森

 玻璃の靴も、瑠璃たちと同様歩くたびにコツコツと硬質な音がする。やわらかい革の靴を履いているイーレンと二人で歩いていると、足音はほとんど一人分に聞こえた。白く冷たくつるりとした床は、板張りの廊下と違って少しも軋まず、当然樹上の屋外のように蔓や枝がしなる音もしない。怖いほどどっしりとしていて、思いきり飛び跳ねても全く力がはね返ってこないので、妙に足が疲れる。


「……なにやってんの?」


 白い長衣の裾を翻し、前を歩く玻璃が振り返った。ぴょんぴょんと歩きながら飛び跳ねていたイーレンは、恥ずかしくなって「……いや、床が重いなと思って」と小さな声で言った。


「コンクリートだし、その下は土だからね」

「この床の素材の名か?」

「表に出てるこの白いのはリノリウム。これは植物素材だよ」

「これが植物?」

「亜麻仁油に植物の繊維を足して作るんだけど、こっちの植物ってほら、どれも真っ白じゃない」

「へえ」


 こちらのもので作り方の想像がつくものに出会ったのは初めてかもしれない。玻璃はふふっと穏やかに笑って、白い袖の下に着けた腕輪をちらりと見下ろし、「もう少し時間があるね」とつぶやいた。


「三日間は六時間おきに注射だから。抗菌薬」

「それ、機械式時計か? そんなに小さいのに?」

「いんや、クォーツ式」


 薄くて小さい時計は、文字盤に白い貝の板が使われていた。午後七時。さっきのは夕食だったらしい。


「上では機械式なの? 整備が大変だろうに」

「基本的には日時計と鐘だが、宝物としていくつかあるんだ」

「千年前のものが保存されてるの?」

「いや、亜鉄製だけど、作るのがおそろしく難しいらしい。職人はほとんど神の使いみたいな扱いだ。木立ひとつぶんもある豪邸に住んで、捧げもので暮らしてると聞いたことがある」

「パーツ全部手作りってことだよね。とんでもないな伝統工芸」


 イーレンにしてみればこちらの人工知能だとかの方が何百倍もすごいと思うが、これが見えているものの違いというやつなのだろうか。玻璃の後に続いて、植物から作られたようには見えない素材の階段を上がってゆく。骨組みに板が渡してあるものではなく、中がぎっしり詰まった重たい階段である。


 外への出入り口も自動で開くのかと思ったがそうではないらしい。とんでもなく重そうな素材の分厚い扉は、鉄ではなく全く別の金属だという。


「鋼鉄だと竜が齧りに来ちゃうから、チタン合金なんだ」


 虹彩認証とやらを行ったあと、特殊な形状をした持ち手をガチャンと引き上げ、玻璃が重たい扉を押し開ける。漆黒の闇に屋内の光が細い筋を作ったが、ほとんど何も見えない。


「真昼ならもう少し明るいんだけど、まあ大差はないから」


 そう言って玻璃が手にしていた筒を持ち上げると、先端から目の眩むような強い光が発せられた。暗闇をくっきりと照らす丸く青白い光にイーレンは驚いたが、すぐに、その光の内側に浮かび上がった光景に目を奪われた。


 丸い光が舐めるように森を往復し、周囲を照らす。白いキノコか何かで覆われた巨大な木の幹が乱立し、天井から気根が垂れ下がる。黒い地面の半分以上には、なんだかわからない白い植物が生い茂っていた。


 それだけだった。


 振り返って避難所シェルターの入り口を見る。そこには扉がぽつんとあるだけで、大きな建物の残りの部分は全て地下に埋まっているらしかった。扉の後ろには同じような白と黒の歪な風景が広がっていた。


「こんな風に、太陽光がないと寄生植物ばっかりになるんだ。葉緑素を持たないから緑色にならないし、そもそも葉っぱが必要ない。多少なりとも健康的な色をした植物が生えてるのは、穴の真下だけだね」

「……それほど多くの人間が住んでいるようには見えなかったが、地上の人間は、まさかあれしか生き残っていないのか?」


 おそるおそる問えば、玻璃は首を横に振った。


「少し離れたところにはもう少し大きな居住区があるよ。こっちは研究施設だから、住んでるのは五十人弱くらいかな」

「居住区というのは」

「もう少し内装に生活感があるけど、おおよそこんな感じのシェルターだね。鉄の匂いがするものは地下に埋めとかないと危険だし、それでなくても、普通に竜に轢かれるから」

「轢かれる」

「地面の上におうちを建てると、お散歩中の竜に踏み潰されちゃう」


 鼻歌まじりにね、と笑った玻璃が頭を振って深呼吸した。確かに、少し空気が薄いような感覚がある。


「大丈夫か」

「うん。訓練してる瑠璃たちと違って、外で有酸素運動すると流石に倒れるけどね」

「地下の方が酸素が濃いのか」

「濃くしてるのさ。頭痛がしてくる前に戻ろうか」


 階段へ戻って扉を閉めると、玻璃は「生き返る〜」と言いながら呼吸を繰り返した。イーレンも深く息を吸ってみて、それほど新鮮な空気ではないなという感想を抱く。


「まあ、これが現実だよイーレン。何もない、空気すらない、色をなくした暗黒の世界。どうだい、樹上の暮らしの方がよほど豊かだろう? 小鳥の歌で目を覚まし、頭上は緑の若葉で埋め尽くされて、そこに木漏れ日が降り注ぎ、赤や黄色の花が咲いて、爽やかな風が吹き抜ける──そういうものに、君は触れて育ったんじゃないのかな」


 金色の目を細めて見つめてくる玻璃の笑顔に、曇ったところはない。ただ、なんとなく「その通りだ」とうなずくのには抵抗があった。


「……まあ、景色は美しいところだよ」

「古代の叡智の守護者のような顔をして、僕たちはただ、捨てるべきものにすがりついて離れられなかっただけなのかもしれないね。ユゥラの真っ赤な、草木染めだというあざやかな衣装を見て、ちょっとだけそう思ったよ」

「どんなに多くを持っていても、ないものねだりをするのが人間なのかもな」

「業が深い種族だねえ」


 そう言って、ぎこちなく笑い合う。正確に言えばイーレンの表情はいつも通り完成された作りものだったが、どういう顔をしたらよいのかわからなかったので、どこか切なげな玻璃の笑顔をそのまま写し取ったのだった。


 ついでに発電施設も見学してゆくかと尋ねられたが、イーレンは迷った末、部屋で休む方を選んだ。体を洗って食事をとって、気が抜けたのだろうか。半月にわたる死と隣り合わせの生活の疲れが一気に押し寄せ、今にも眠ってしまいそうだった。「なら、また明日だね」と人懐こく笑っている少年は、訊いてみればイーレンと同じ十七歳だという。見かけは小柄で童顔、しかしその歳でいっぱしの医者や学者のように振る舞う彼は異様に見えたが、それすらも樹上人の偏見であるのかもしれなかった。


 そんなことをぼんやりと考えているうちに、いつの間にか眠りに落ちていた。

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