二 風呂と着替えと食事

 大浴場には信じがたい量の湯がなみなみ張られた浴槽があったが、腕の抜糸が済むまで入浴は許可できないと玻璃に言われてしまった。


「本当は清拭を勧めたいところだけど、まあシャワー浴ならいいでしょう」


 シャワー、と言いそうになって口をつぐんだのも束の間。壁に繋がれた管から熱い湯が無限に出てくる装置にイーレンは夢中になった。花とも香木とも違う甘い香りがする石鹸で体を洗い、それを壁から湧き出る熱い雨で洗い流す。左腕が使えないからと玻璃が介助してくれたのは助かったが、それ以上に延々と質問攻めにしてくるのが少々鬱陶しかった。


「なるほどねえ。音楽には詳しくないけど楽譜は雅楽を基準にしてるのかな。ドレミじゃないのは不覚だったなあ。まあどうせヘルツで測るから問題ないと言えばないんだけど、それでいつ聞かせてくれる? 明日の体調を見て熱が出てなかったらいけるかな? 楽譜は暗譜してる分だけでも一応書き留めておいてほしいんだけど、あとで紙とペンを届けるから、あ、利き手は右だよね? よかったそれじゃあ」


「……玻璃」

 女性用の浴室だろうか。隣の部屋から出てきた翡翠が低い声で言った。


「なに?」

 爽やかにしらばっくれた玻璃に強い視線を送った翡翠は、イーレンの顔を盗み見るように見上げてさっと目をそらした。顔が赤くなっている。いったい浴室でユゥラに何を聞かされたのだろうか。気になるような、絶対に聞きたくないような。


「あー、やっぱ袖も裾も短いか」

 翡翠の後ろから顔を出した瑠璃が、イーレンの服装を見て苦笑した。

「ちょっとだせーけど、まあ寒くはないだろ? しばらくはそれで我慢してくれよ」

「ああ」


 借り受けた淡い灰色の服は、細身なわりに動きやすい。ボタンは貝かと思ったが、玻璃によると貝を模して作った人工物らしい。どんな素材でどうやって作るのかと質問したら玻璃の話が止まらなくなったので、また後日資料を見せてもらうことになっている。


「ほら、ユゥラ。イーレンに見せてやれって」

 瑠璃が浴室の中を振り返って手招きしている。この服はユゥラの方が似合いそうだと思っていたイーレンは、ほんのりわくわくしながらそちらに視線を向けた。


「……ですが、脚が」

 すると、部屋の中からユゥラの声だけが聞こえてきた。瑠璃が「だからぁ」と腰に手を当てる。


「そんくらい普通だって。似合ってるし、脚細いし大丈夫だよ」

「……膝まで見えていてもはしたないと呆れませんか、イーレン」

「へ!?」

 扉越しにとんでもない質問をされてイーレンは半歩後ずさった。


「いや、呆れないけど」

 呆れないけど、その服大丈夫なのか? そう続けようとしたが、「ほらな」と言った瑠璃が強引に戸を引き開けてしまった。


「あっ」

「うわっ!」


 その姿が視界に入った瞬間、イーレンは隣の玻璃をとっ捕まえて手のひらで両目を塞いだ。玻璃が「うわ、ちょっと」と言いながらイーレンの腕を掴みにかかり、包帯に指が触れて「こら左手! 左手使わない!」と大騒ぎする。


「緊急事態だ、許せ」

「いや膝丈のスカートかなんかでしょ? ここじゃ普通だって! べつになんとも思わないから!」

「今のけっこういい動きだったぜ。やるじゃん」

「そっか。樹上は標高が高いから、あんまり肌を出す服は着ないのかもね」

「イーレン、呆れていませんか」


 各々が好き勝手発言していたが、イーレンはろくに聞いていなかった。ユゥラの着ている服が、イーレンのそれとはまったく違う意匠のものだったからである。


「あたしが持ってる中で一番可愛いやつだぜ? ほら、この背中んとこ。蝶の羽みたいになっててさ、歩くと布が揺れて刺繍がキラキラすんの。似合ってるだろ」


 瑠璃が自慢げに言うので、上の空でうなずいた。うっすら透ける繊細な白い布を幾重にも重ね、そこここに銀刺繍のきらめきを纏わせたその服は、おそろしくユゥラに似合っていた。可憐すぎてこの世のものとは思えない。


「魂引っこ抜かれたみたいな顔だけど、そんだけ真っ赤だとそこそこ普通に見とれてるように見えるな」

 瑠璃が何やら失礼なことを言って、「ほらな、効果抜群じゃん」とユゥラ耳元にささやきかけている。

「一周回って見せてやれよ」

 そう言われたユゥラがくるりと回転すると、背中に繊細な蝶の羽が広がった。心臓が急激に痛くなってイーレンはよろめき、その隙に玻璃が腕の中から脱出した。


「ユゥラ……その服は危険だ。攫われる」

「だから、こっちじゃこのくらいのデザインは普通だって」

「君には審美眼というものがないのか?」

 本当になんとも思っていなさそうな玻璃に、イーレンは信じられない思いだった。瑠璃が笑いながら「たぶんないと思うぜ」と言っている。


「ま、あたしが護衛についてるから大丈夫だよ。それより飯食おうぜ」


 食堂はこっち、と案内されて初めて、朝食を食べ損ねていたことを思い出した。現在の時刻はわからないが、昼は確実に過ぎているだろう。緊張状態が続いているイーレンはそれほど空腹を感じていなかったが、ユゥラは「ごはん」と頬を緩ませている。


 食堂というのも、廊下や談話室同様、素材のわからない白い壁と床の内装だった。ここにも窓がない。大きな長机と座面の丸い簡素な椅子がずらりと並んでいて、白い長衣姿の人間が三人、固まって食事をしているようだった。男性が二人に女性が一人。みな淡い色の肌と髪をしていて、もの珍しげにこちらを見ている。


「エーセット五人前! でいいよな?」


 厨房に向かってほとんど叫ぶような大きな声で注文した瑠璃が、振り返って尋ねる。玻璃と翡翠が黙ってうなずき、ほとんど待たないうちに盆に乗った食事が五人分提供された。そろって部屋の端の席につき、イーレンはまじまじと皿の中身を見つめた。全体的に白っぽく、彩りの少ないそれは野菜や肉を煮込んだもののようだが、米以外はひとつも名前がわからない。


「……いただきます」


 手を合わせると、双子と翡翠も同様に指先をそろえて手のひら同士を合わせた。食べているものはこんなにも違うのに、食前のこの挨拶は上層と変わらないのだと思うと、不思議な心地である。そういえば、箸を使っているところも同じだ。汁ものを一口すすり、その塩気の強さにイーレンは真顔のまま恍惚となった。


「おいしいです……」


 ユゥラも同じものを口にしてため息をついている。ここのところ素材の味そのままの料理しか口にしていなかったイーレンたちにとって、野菜の香りが全然しないだとか、食感がぶよぶよしていて変だとか、そんなことは全く気にならなかった。ああ、うまい。塩がうまい。最高だ、塩!


「口に合ってよかった」


 翡翠が口の端を少しだけ持ち上げて笑う。丁寧に味わいながら食べている彼女の隣で、一気にかき込んだ瑠璃がもう食事を終えていた。「ごちそうさま!」と言いながら盆を厨房へ返しに行った少女は、帰ってくるなり水を一気飲みしてドンと机に置き、「でさ」と話を切り出した。


「あたし、上層に行ってみたいんだけど。どうやったら母さんの許可がもらえると思う?」

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