第七章 シェルター
一 鉄分
「いかなる手段も存在しない、という可能性を我々は考えない。人類の歴史において、あらゆる不可能を可能にしてきたのが科学者であるからして」
特に考え込むでもなく、さらりと言った博士の返答にイーレンは肩の力を抜きかけたが、しかし博士は「と、言いたいところだがね」と言葉を続けた。
「我々よりも、上層の人間に問題があるのではないかと思うが。先ほどの玻璃の説明で君も理解したのではないか? 竜が欲しているのは若い娘ではなく、鉄分だ。この低酸素の地上であの巨体を維持するためには、血中にどれだけ濃密なヘモグロビンが必要だと思う?」
「ヘモグロビン」
「鉄から作られる、血潮の赤い成分さ。全身に酸素を運ぶ役割を担っている」
「……だから、ガラの花や樹液は血のように赤いのか?」
「花は知らんが、少なくとも樹液に関してはその通りだ。というか『ガラ』というのはそもそもベンガラのガラじゃないのか? 酸化鉄を主成分とする赤色顔料」
組んだ脚に頬杖をつき、つまらなさそうに博士が言う。
「深く考えずともわかるはずだ。歌で竜を呼び、舞台の端にガラの果実でも山積みにしておけばそれで事足りるだろう。いまどき生贄なんて超古代文明じゃあるまいし……科学を失えば、文明はある程度遡るものなんだろうな。ああ、答えを言ってしまったかな」
博士がため息をついて玻璃を見た。玻璃が苦笑いでうなずく。
「上の連中が説得に応じるか否か。要するに千年ものの根強い因習を捨てて合理性を選択できるかどうか。これに尽きるのではないかね? ……はあ、馬鹿馬鹿しい」
これ以上なくうんざりした顔になって、博士は膝の上の頬杖の上に顔を置き直した。頬が豪快に潰れてメガネがずれている。そんな博士の態度を見て、翡翠が口を挟んだ。
「一概にそうとも言えませんよ、博士。人の生活習慣をコントロールするのに、宗教は大事です。生の豚肉を食べてはなりません。血に触れてはなりません。感染症の起きる仕組みを理解できなくても、神の言葉なら人を守ることができます。倫理的な問題だってそう。教育の限界を越えられる可能性をもってる」
博士はずれたメガネ越しに翡翠を見上げた。
「一理あるが、素直に受け入れるのには抵抗があるな。私は無神論者だから」
「信仰じゃなく、学問の話だと思いますけど」
「あいにく興味のない分野でね」
いかにも態度の悪い姿勢を改めることなく、博士は「まあ、その点に関しては任せておきたまえ」とイーレンに向かって空いている右手をひらひらさせた。
「数年はかかるだろうが、どうにか上へ人をやって交渉を試みておこう。君らはここでのうのうとしていればいい。歓迎するよ、メラニンの王子様」
にやりと笑って頬杖から顔を上げると、メガネがずり落ちて片耳にぶら下がった。双子とよく似た顔立ちで、しかし彼らとは何か一線を画する老獪さのようなものを瞳の奥からにじませながら、博士は言った。
「我々にとっては手間だけかかるが知的好奇心を刺激されない、非常に面倒な案件を持ち込んでくれたなと、そういう気持ちだが……君たちが単なるお荷物かと言われれば、決してそうではない」
博士はゆっくりと立ち上がり、向かいの長椅子に座っているイーレンの目の前までやってくると、彼の顎をすくい上げるように持ち上げて間近で瞳を覗き込んできた。瞳孔が大きく開いていて、ちょっと正気とは思えない顔つきになっている。
「黒髪に黒い瞳、象牙色の肌をした君の容姿は、我々が失ってしまった古代人の姿そのものだ。それに神韻詠唱というのも非常に興味深い。のどうたの仲間だろうが、それにしても複雑怪奇な音だと思わないか? 人体から発せられる音声とは到底思えない。論理的思考は不可能を可能にするが、時に理論上の不可能を理屈抜きで可能にしてくるのが、現実の最も面白いところだよ」
彼女は一気にそうしゃべると、今度は隣のユゥラの頬に手を滑らせた。口角が不自然なほど吊り上がり、魔物のような笑顔で彼女は言う。
「そして君の方は、これまでの人生のほとんどを上層の書庫に入り浸って過ごした生き字引ときた。そうだな、やはりまずは竜の頭に乗ったという話が気になるな。手始めに──」
「手始めに風呂と食事と睡眠でしょう、博士」
今にもユゥラを取って食いそうな博士の顔の前に手のひらを差し込んで、翡翠が言った。その背後から瑠璃がひょこりと顔を出し「てかその顔やめろって、母さん。イーレンがドン引きしてんじゃん」と口を尖らせる。
「その顔とは?」
「瞳孔開いてんだってば、このマッドサイエンティスト」
「失敬な。感情ある生き物というのはね、興味のある存在が目の前にいると、瞳孔を開けてよく見ようとする本能を持って生まれてくるんだ。つまり親愛と歓迎の証さ」
「はいはい、わかったから、今日のところはここまでにしてください。話はひと段落したでしょ」
翡翠にくるりと体の向きを変えられ、奥の戸の方へ押し出された博士は、首だけ振り返って「また話を聞かせてくれよ!」と言いながら部屋を出ていった。それを見送った玻璃が「じゃあ風呂場に案内するから、道すがら雑談でも」と母親そっくりに笑い、「玻璃はイーレンの着替えを用意してきて」と同様に廊下へ押し出されている。
「玻璃のじゃサイズ合わないから、とりあえずリネン室の奥の棚から新品の一番大きいやつを調達してきて。今すぐ」
「えぇ……」
「で、瑠璃はユゥラの分ね。一緒に行って取ってきて」
急かすように指示を飛ばされ、ぶらぶらと暇そうに室内を歩き回っていた瑠璃が意外そうな顔をする。
「え、お前が行ってきたら? せっかく」
「いいの。早く」
「あーい」
ほれ行くぞ、と玻璃の背中をつついて瑠璃が部屋を出ると、ひとりでに戸が閉まった。とたんに静かになった室内に、ふぅ、と翡翠の小さなため息が響く。
彼女は肩を落として力なく首を振り、イーレンたちを振り返って言った。
「ごめん。あの人たち本当にデリカシーがないから」
「デリカ」
また復唱しようとしていたことに気づいてイーレンは言葉を切ったが、翡翠にはくすりと笑われた。
「人の気持ちを想像してしゃべるってことをしないの。悪い人じゃないんだけど」
「それは、なんとなくわかります」
悪意は感じませんから、とユゥラがささやくように言った。翡翠は「ありがとね」と微笑んで、すぐに表情を引き締めてみせる。
「まずはきちんと体を休めてもらう。そうしたら、そのあとちゃんと、君たちの話を聞くから。二人がこれからどうしたいのか。故郷へ戻りたいのか、ここで暮らしたいのか、別の道を考えているのか……その、私はふたりのこと応援する。ふたりが二度と引き離されないように、絶対味方するから」
どちらかというと冷徹そうだった表情が、徐々に頬が赤らんできたせいか、それとも恥ずかしげに視線を彷徨わせているせいか、年相応の少女然とした顔になっている。面白いが、これは参考になりそうもないな、と考えながらイーレンがその様子を見ていると、翡翠は短い上着の裾をきゅっと引っ張って伸ばし、ちらちらとイーレンの顔を見上げて言った。
「それで、その……もしよかったら、その、また今度でいいから、二人の馴れ初めとか聞かせてくれる? イーレンの方から告白した、んだよね? その、好きなったきっかけとか、えと、もし嫌じゃなかったら」
「いいですよ」
イーレンがぽかんとした顔を作り忘れている間に、ユゥラが返事をしてしまった。翡翠がパッと顔をかがやかせ、口に手を当てて嬉しそうに礼を言う。ユゥラは淡々と「聞かれて困るようなことはありませんから」と応え、イーレンはじわじわと熱くなる耳を隠そうと顔の横の髪をいじった。
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