四 吸気口
出された茶は、ガラスという名の透明な器に入っていた。一点の曇りもない、博士のメガネと同じ素材と思われる完全に透明な石である。どことなく味気ないがやたらと鮮やかな黄緑色の茶を飲みながら、イーレンたちは樹上の生活について、そして社の信仰と「嫁入り」の儀式について訊かれるまま答えていった。地表勢の四人とも筆記用具は手にしておらず、「博士」を名乗るのに記録をとらないことを意外に思っていたが、どうやら「ソラ」が裏のどこかで音声を文字に書き起こしているらしい。とはいえ壁の向こうで速記しているわけではなく、それどころか彼女には肉体すらないという。それがどういうことなのか、イーレンにはさっぱりわからない。
「へえ、粉末焼結ならうちにもプリンタがあるが……まあ電気炉すらなしに大したもんだ。これが伝統工芸ってやつか」
枝に鈴帯を巻きつけた即席の鈴杖を手に取り、指先ではじいて鈴を鳴らしながら博士が言った。また「電気」である。雷と同じ力を生み出し利用する技術だということは知っているが、それが照明にも炉にもなり、扉の開け閉めも可能にし、そしてソラという知能を持った人格すら人工的に生み出すのだと言われると、汎用性が高すぎて何がなんだかとしか言いようがない。
「……お前はどう思う、玻璃?」
興味深げに鈴をためつすがめつしながら、博士が言った。相談ではなく、教え子の出来を確認する教師の口調だ。
「十年の猶予の間に、どうにかしないといけませんね」
玻璃が答えると、博士は「その『どうにか』の部分が聞きたかったんだが」と苦笑した。
「まあそれにしても、やってくれたな、イーレン」
不穏な言葉に、イーレンがじわりと長椅子の背もたれから体を起こすと、瑠璃と翡翠が同時に腰へ手をやった。一触即発の空気が一瞬流れたが、すぐに博士が「ああいや、今から君らをどうこうしようという話じゃない」と顔の前で手を振った。
「お恨み申し上げます、という軽い苦情だよ」
「恨む、とは。上層の信仰はあなた方と何の関係もないだろう」
イーレンが問うと、博士はごく軽い調子で肩をすくめた。
「それがそうでもないらしい。さて、どこから説明したものかな」
博士が玻璃に試すような流し目を送ると、玻璃は「まずはデイから」と低く応えた。
「それがいいだろうな」
「デイ……」
そっと口にする。自分でも気づいていなかったが、イーレンはどうも耳慣れない音価の言葉を聞くと自分の声で復唱する癖があるらしい。先ほども「プリンタ、プリンタ」と何度もつぶやいて瑠璃に笑われた。今は翡翠も笑いをこらえている。
「泥と書いてデイだ、イーレン」
玻璃が補足を入れる。泥と聞いて、イーレンは思わずユゥラを見た。彼女もこちらを見ていた。懐から小さな木の蓋物を取り出すとまたもや少女二人が身構えたが、玻璃はむしろ興味深げに身を乗り出した。中に収められた黒い粉末に「それだよ」と目を丸くする。
「え、それどうしたの。まさかそれも植物から抽出したとか?」
「いや。竜の上に乗ったときに服に付いたものを、乾燥させて保存した」
「竜の上に乗った!?」
玻璃と博士の声が完全に重なった。目をまんまるくして、ついでに瞳孔が開き気味になっているのも含めてそっくりだ。親子なんだろうな、とイーレンは半ば確信した。
「突き落とされたときに、こう、頭の上にぼよんと」
「竜をクッションにしたってこと?」
「緩衝材という意味で言っているのなら」
「嘘でしょ……」
呆れたように言ったのは翡翠である。彼女は腰の武器から手を離し、「ちょっとその話くわしく」と鼻息荒く腰を浮かせた玻璃の肩に手を置いた。
「順序が違うでしょ、玻璃。竜の贄になる運命から逃れた人に『恨みます』なんて酷いこと言っておいて、ろくな説明もしないなんてあり得ませんから、博士も」
一重目蓋の目尻付近をほんの少し、瞳と同じ青緑色の顔料で彩っている翡翠は、この中で一番小柄だが双子より大人びて見える。彼女の指摘で玻璃はハッとした顔になり、気まずそうにユゥラを見て「ごめん」と言った。その反応を見て、イーレンもようやく彼らを信用することにした。
◇
焚き火の炎が小さいと感じたとき、下層は空気が薄いのではないかと予想したが、実際はそれどころではなかったらしい。そしてそれこそが、地表の彼らが「儀式」を欲する理由であると、端的に言えばそういう説明を受けた。
「
よくぞその少量の泥からそこまで導き出したね、とユゥラに賞賛の視線を送り、玻璃は「それで、話はここからだ」と続けた。
「君たちも見てきた通り、下層へ行けば行くほど植物は光合成する力を退化させている。それだけでも酸素不足になる要素満載だけど、それだけじゃない」
泥によって力を得るのは植物だけはない。細菌をはじめとする微生物たちも爆発的に増殖し、酸素を使う。その上、この森林は各階層が寄生植物の類でみっしり覆われている。空気の通り道が少ない下層の森は、地底の岩窟に近しい環境になる。使われた分の酸素を供給できる当てがない。
「泥にはどうも放射性物質に近いような、突然変異を誘発する性質があるらしくてね。植物や動物たちの多くは短期間でこの低酸素の環境に適応した進化を遂げたけど、僕たち人間はそうもいかなかった。脳にものすごく酸素を使うから」
頭脳で思考するってのはね、エネルギー使うんだよ。そう言いながら玻璃はトントンと指先でこめかみを叩いてみせた。
「だから僕たち地上に残ることを選んだ人間は、『穴』のそばにシェルターを構えることにした。十年に一度、鉄分豊富なガラの花と若い果実を求めて上層まで森を突っ切る、竜が作る巨大な吸気口のそばに」
そこまで話して、玻璃はイーレンたちの反応を窺うように言葉を切った。イーレンが言葉を選んでいる間に、ユゥラが口火を切った。
「上層の民は、そのために儀式を執り行っていたのですか? 地表に住むあなたがたへ空気を届けるために」
「いや、違うだろうね。僕の知る限り上層と下層の間で交流は一切ない。おそらくは、粉末焼結によって精錬された『亜鉄』を竜に喰わせることで、里を喰い荒らされる前にお帰りいただこうという、そういう儀式なんだろう。人間の血液も、結構な鉄分を含んでるしね」
「里を喰い荒らす? どういう意味です」
「君たちの言うガラの木は、この多層森林の骨格のほとんど全てを構成している主要な木だ。その花を喰うということは、里自体を喰うのと同義だろう。嫁入りの儀で、本来なら完全にランダムであるはずの穿孔の位置を誘導し、竜を素早く地上に帰す──本質としてはそういうものじゃないのかな。僕らはただ、その恩恵にあやかってるだけさ。定期的に同じ場所に同じ大きさの穴が開く場所なんて、他にないからね」
「……では、儀式がなくなれば、里は」
「ユゥラ」
声を震わせたユゥラの手を、イーレンは強く握った。
「俺がやったことだ」
「です、が」
「全部俺が、独断で、強引に、やったことだ」
そう強い口調で言って、イーレンは玻璃に向き直った。
「……何か、君たちと上層の里のためにできることはあるか。花嫁をこれからも喰わせ続けるという以外の方法で。それだけは、絶対に譲れないんだ」
〈第六章 了〉
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