三 博士

 白くて妙につるりとした内装は、廊下に出ても続いていた。先導する翡翠が暗い廊下に一歩踏み出すと、その瞬間、パッと廊下全体にまばゆい明かりがともる。音もなく、蝋や煙の匂いもせず、しかも天井に嵌め込まれたような奇妙な照明器具をイーレンとユゥラはぎょっとして見つめたが、瑠璃に「ほら、行け」と背を押されて歩き始めた。


 天井の照明を反射するつやつやの床は、翡翠が歩くとコツコツと硬質な音を立てた。床もだが、靴底も硬いのだろう。床も壁も天井も、何の素材でできているのかわからない。木とも石とも違うように見える。廊下にはひとつも窓がなく、ぶぅん……と遠くで何かが唸るような音がかすかに聞こえた。


「電気、初めて見る?」

 と、翡翠が前を向いたまま涼やかな声で言った。


「電気……これが?」

 ユゥラが小さな声で言った。


「電灯、って言った方がいいかな。昼光色を再現したと言われてるLEDの電灯なんだけど、どう? 上層の真昼の光と似てる?」

「光量がかなり少ないですが、色合いとしては近いと思います」

「ふうん。これだけ明るくても、薄暗い感じがするんだ?」

「真昼の屋外よりは」


 その返答に、翡翠は顔を上げて天井の光を見つめた。

「へえ……それってどれだけ明るいんだろう。目が痛くならない?」


「最上層といっても、上には梢がありますから」

「木陰に家を建てて住んでる感じ?」

「そうです」

「へえ、おとぎ話みたい。絵とか描ける?」

「絵画の才はあまり。図に近いものなら」

「いいじゃん。その方が助かる」

「──気が合いそうだな、あいつら」


 二人の会話を聞きながら歩いていたイーレンは、しんがりを歩く瑠璃に声をかけられて振り返った。こうして改めて見ると本当に肌が白い。頭髪の色も、元々はごく淡い金だったのだろうと感じさせる祭主と違って、色味を感じない。薄暗いこの場所では銀色をしているが、上層の強い光の下では純白に見えるのかもしれない。


 瑠璃は気安い調子で、しかしやはりさりげなく腰の短剣の柄に手のひらを乗せながら話した。

「ユゥラ、だったか。あいつも翡翠と一緒でガリ勉タイプなの?」

 またわからない言葉だ。とはいえ、千年前に分かたれた民族であると考えれば、言葉は通じ過ぎるくらいだろう。


「……がり」

 ぼそりと語頭だけを復唱し、ほんの少し首を傾ける。通じない単語はいくつもあるが、通じていない、という仕草は通じるようだ。瑠璃は「あー、えっと」と言いながら宙空を見つめて別の言い回しを考え始めた。


「知識欲のバケモン、みたいな」

 そう言って、ちらりと目配せ。それはわかる、とうなずき返す。


「知的好奇心はかなり強いと思う」

「お、ちょっとしゃべりかた普通になったじゃん」

「まあ」

「にしても変わった名前だよな。イーレンってどんな字書くんだ?」


 突然全く違う話を振られて面食らったが、特に前の話題を続けたいとも思わなかったイーレンは、促されるままぼそぼそと小さな声で答えた。

「繊維の『維』に、鍛錬の『錬』だけど、当て字だよ。由来は竜の言葉だから」

「竜の言葉、ってあれか。つか、あれマジでやばくね? なんなのあれどうやってんのってか、上の連中はみんなできんの?」


 半分程度しか聞き取れなかったが、おおよそ言っていることはわかった。しかしイーレンは黙り込んだ。ほんの少し状況が落ち着き、それに伴ってある程度気持ちも落ち着きを取り戻していた彼は、「快活な少女」という未知の人種に戸惑い始めていた。


「瑠璃。そのあたりのことは、今からまとめて談話室で質問するから」


 助け舟なのか、単に目的の場所に着いたからか、判別できない声で翡翠がそう言って、白い戸の前に立った。少し背伸びをして、壁に取り付けられた小さな箱に顔を近づける。小箱は「ピッ」と奇妙な高音を出したかと思うと、次の瞬間、唐突に「認証しました」と女性の声でしゃべった。手も触れていないのに、引き戸が滑るようにひとりでに動いて開く。


「は?」

 イーレンもぽかんとしたが、ユゥラはもっと驚いたようだ。目を丸くしてしゃべる小箱に近寄っていった。


「話しました、この箱」

生体認証バイオメトリクス、虹彩認証のカメラだよ。しゃべるのは、これも一応ソラが管理してるから」

 こともなげに翡翠が言う。


「ソラさん」

「人工知能。ソーラーのソラね。──ソラ、明かりつけて」

 翡翠が呼びかけると、どこからともなく優しげな女性の声が響く。


 ──談話室の明かりをつけます。翡翠さん、おかえりなさい


 声とともに室内が明るくなった。何やらイーレンたちの知識や理解を遥かに上回ることが起こっていたが、翡翠は特にそれを自慢に思う様子もなく、ただ涼しい顔で「ただいま」と返すだけだ。


 ──玻璃さんも、おかえりなさい


 と、再び声がして、向かいの戸が開いた。引き戸は内側から見てもからくり仕掛けのようなものは見当たらず、明らかに擦過音とは違う不思議な動作音とともに両側の壁の中へ吸い込まれてゆく。


 その様子を無言で凝視しているイーレンたちをおかしそうに見つめ、玻璃が「ほら」と背後の人間に声をかけた。


「博士、この子たちですよ」

「おやおや、本当にまだ子どもじゃないか」


 玻璃の後ろから現れたのは大人の女性だった。玻璃と同じ前開きの白い長衣を羽織っていて、非常に透明度の高いレンズの嵌まったメガネをかけている。顔立ちと、癖の強いふわふわの銀髪からして双子の血縁者だろう。シミのない白い肌に灰色の瞳。目尻に細かな笑いじわ。


「イーレンとユゥラだったね。私は立川桔梗たちかわききょう。気軽に『博士』と呼んでくれたまえ」


 鷹揚な笑みを浮かべ、よく通る声で彼女は言った。上層で「博士」と言えば薬学や植物、天文学などの高度な学問を教える教育者のことを指すが、こちらでもそうなのだろうか。どことなく教師然とした雰囲気を醸し出す博士は、「さあ、かけなさい」と長椅子を指し示しながら言った。


「玻璃、瑠璃、茶を淹れてくれるかね? 早速話を聞こうじゃないか。生贄と神官の二人組、非常に不穏だ。イーレン君、君の里にちゃんと『儀式』の後継者は残っているんだろうね?」

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