二 大好きです
癖なのか、その名の由来であろう緑色の瞳を伏せがちに保ったまま、翡翠はユゥラを縛っていた紐をほどき、猿轡を外した。
「はい、ご協力ありがとう。あ、ちょっと口のとこ赤くなっちゃった。ごめんね」
「イーレンを踏んではなりません」
と、噛まされていた布を吐き出すなりユゥラが言った。底冷えするような冷たい声だ。彼女がそんな口調で話すのを初めて聞いたイーレンは、驚いて彼女を見つめた。瑠璃が警戒した顔になり、翡翠が先を促すように小さく首をかしげる。
「あなたがたは、彼に危害を加えないという条件をすっかりお忘れのようですね。本人の同意をとるどころかあのように乱暴な真似をなさって。約束を反故にされたと受け取らざるを得ません。そちらがそのおつもりならば――」
そのつもりならば、どうするつもりだというのだろう。イーレンに酷いことしないで、というような可愛らしい抗議が始まるのかと思っていたら、ユゥラは淡々と地表人たちに喧嘩を売り始めた。
「ユゥラ」
「イーレンは黙っていてください」
切れ長の瞳をすっと眇めたユゥラは、立ち上がると隣の翡翠より頭ひとつ背が高い。花嫁衣装のときは可憐さの方が目立っていたが、燃えるような赤髪を高い位置で括り、細身の黒衣を纏った彼女は、小柄な三人を前に充分過ぎるほど威圧的に見えた。
「瑠璃といいましたね。イーレンの上から降りなさい」
「……いや、あたしは」
「どういうつもりでイーレンを『ぶん殴る』などと言ったのか、述べなさい」
「いや、その」
交戦的な表情をたじたじとしたものに変化させながら、瑠璃が素早く横目に翡翠へ視線を投げた。翡翠は肩をすくめて「軽口叩いた瑠璃が悪い」と冷ややかに言った。
「……翡翠、お前」
ひでえ、とつぶやいた瑠璃がイーレンの腹の上でみじろぎする。体重そのものは軽いが、鳩尾に膝が刺さって地味に苦しい。
「そろそろ、降りていただけぬだろうか」
ぼそっとイーレンが言うと、瑠璃はたったいま気づいたかのようにぎょっとしてイーレンを見下ろし、ユゥラを見て、玻璃を見て、「や、その……ごめん」と言いながらのろのろと床に降りていった。
「いやでも、約束を違えたわけじゃねえよ。処置の最中にお前が暴れるとよくねえって、玻璃が言ったからさ」
「肩を手で押さえてくれればそれでよかったけどね」
「お前それ、先に言えって」
「ごめんね。この子、基本性格がゴリラだから」
翡翠がさらりと言った。イーレンは首を振って起き上がろうとしたが、玻璃に制止される。
「左腕は使わないで。今は麻酔が効いてるだけで、傷が治ったわけじゃないから」
「……麻酔」
見慣れぬ包帯に覆われた傷を見る。確かに左腕の肘から下、ほとんどに感覚がない。上層で使う薬草の麻酔薬とは明らかに効きが違う。言われた通り右腕を使って起き上がろうとしたが、よく見ると下腹部と膝、足首あたりを幅の広い帯で寝床に固定されていた。イーレンが横たわっているのはどうやら床ではなく、担架のようなものの上だったらしい。視線に気づいた玻璃が「ああ、忘れてた」と言って、バリバリとすごい音を立ててイーレンの腹から帯を引き剥がした。
「……何の音だ、それは」
「これ? マジックテープ。正式には面ファスナー」
「なんだそれは」
「興味あるならぺりぺりしてみる?」
「……ゴリラというのも初めて耳にした。どのような性格のことを指すのか」
「古代の霊長類だよ。実際のところは繊細な平和主義者らしいね」
「ねえ玻璃、違うでしょ。話をややこしくしないで」
「その前にゴリラじゃねえし。てか、なんでお前そんなしゃべり方なの? そっちの子は普通なのに」
ゴリラが何なのかはピンとこないままだったが、悪口の一種であるらしい。ムッとした顔の瑠璃が、話題を変えようとしたのかイーレンに話を振ってきた。特に変わった話し方をしていたつもりのなかったイーレンは眉を寄せて当惑した顔を作り、その間になんと答えようか考えようとした。が、その前にユゥラが言葉を返した。返してしまった。
「神官は社の外ではみんなそういう口調なのです。神職としての神秘性を保つためです。しかし、私の前ではもっと優しい口調で話します。イーレンは私のことが好きだからです」
会話だけ聞いていれば和やかだが、各々さりげなく武器を手に取りやすい姿勢を崩さなかった地表の面々が、一様に呆気に取られた顔になった。次いで、玻璃が手のひらで口を覆って目を逸らし、翡翠がほんのり頬を赤くしてユゥラとイーレンを交互に見つめ、瑠璃は「……へえ」と生ぬるい声で相槌を打った。
「ゆ、ユゥラ」
イーレンは小さな声で止めようとしたが、ユゥラは気にせず続けて言った。
「このイーレンは、神の花嫁として捧げられるはずであった私を神、いえ、竜から奪い取ったことで里を追われました。いいえ、奇跡的に助かっただけであれは処刑でした。それほどイーレンは私が大好きです」
そっか、と半笑いで瑠璃が言った。じわじわ頬と耳が熱くなってゆくのを感じながら、イーレンは意識して表情筋の力を抜いた。ストンと無表情になった彼を見て、翡翠が「え、何?」と小さな声で言う。ユゥラがどことなく優越感のにじむ口調で答える。
「翡翠、大丈夫です。イーレンはこうして、突然死んだような顔になる癖があるのです」
「いや、どんな癖だよ」と瑠璃。
「突然笑ったり、突然顔が死んだりします。そして私のことが大好きです」
「面白い人だな」
玻璃が言った。ユゥラのことかと思ったが、彼の目はイーレンの方を向いていた。明るい金色の瞳と目が合うと、少年は口角を引き上げてイーレンに感じのよい作り笑いを向け、そしてすぐに真剣なまなざしになった。
「竜の花嫁って、つまり生贄ってことだよね。ちょっとその話、詳しく聞かせてもらえる?」
突然静かな声を出した玻璃に、皆の注目が集まる。彼は仲間の少女たちを振り返って、笑っていない目をしたまま軽い声音で言った。
「博士を呼んでくる。ラボ、じゃない方がいいな。談話室に集合ね」
「わかった」
間髪入れずに翡翠が応えた。唐突に変わったその場の空気に困惑し、イーレンは問うた。
「嫁入りの儀が、どうしたというんだ」
すると玻璃はやわらかく目を細め、再び優しげな笑顔を作ってみせた。演技が下手なのではなく、作り笑いであることが相手に伝わるように笑っているようだった。
「その花嫁ってさ、もしかして十年に一度、神に捧げられるものじゃないかい?」
イーレンはとっさに言葉に詰まったが、隣で目を瞠ったユゥラの表情で察したらしい。小さな声で「やっぱりそうか」とつぶやいて、彼は作り笑いにほんの少しの苦さをにじませる。
「その儀式が『失敗』したとなると、ちょーっと深刻な事態になるかもしれない」
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