第六章 地表

一 処置

 霞んでいた思考がゆっくりと像を結んでゆく。うっすらと目蓋を開いた途端、耳元で「うわっ、起きやがった!」と大声が上がった。


「どうしよう、ぶん殴るか?」少女の声。

「口を開けさせて」こちらは少年の声だ。おそらくイーレンよりも年下。

「わかった」


 唇の端から何か硬いものがねじ込まれる。どうやら短剣の鞘だ。もがいて逃れようとして、全身のあちこちを縛られているらしいことに気づいた。喉の奥で唸ると、イーレンの口をこじ開けようと奮闘している少女が、金の瞳を鋭く眇めて「黙れ」と一言。片手で喉をキュッと絞められ、息が止まる。その隙に今度は何か冷たいものが口に押し込まれた。喉の奥に冷えた液体が吹きかけられる。苦い味が込み上げ、冷たく感じたそれはすぐに熱をもち始めた。痺れが広がってゆく。毒か。


「暴れんなよ、舌噛むぞ」


 少女がそう言って、イーレンの上にどさりと膝をついた。腹を強く圧迫された彼は息を吐き出したが……出るはずの呻き声が出ない。すぐさま強く唸ろうとして、己の喉が全く震えないことに愕然とする。


「よし、効いてる」


 見上げると、少女と同じ銀髪に白い肌、金の瞳の少年が奇妙な透明の容器を揺らしながらイーレンを見下ろしていた。亜玉の小壺だろうか、たぷんたぷんと中で液体が揺れる。少女が「流石だな……」と厳しい顔のままつぶやいた。二人の頭の向こうに白い天井が見える。室内に運び込まれたようだ。首を捻って見回すと、隣に座らされているユゥラと目が合う。縛られているが、怪我はないように見えた。


「演技じゃないよな? 試しに一発ぶん殴っていいか?」と金の瞳の少女。

「やめなさい」と少年。

「女の子の方はどうする? そっちは変な声じゃなかったけど」

「一応やっておこう」


 少年が答えた。見たところ十四、五歳。双子だろうか、隣の少女とほとんど瓜ふたつの顔立ちをしている。彼はしゃがみ込んでイーレンをまじまじと見下ろし「呼吸はできているな」と言って――そしてユゥラの方を見た。彼女の後ろに控えていた金髪の少女が、うなずいて猿轡の結び目に手を掛ける。


(ユゥラにも毒を飲ませるつもりだ)


 そう気づいた瞬間、イーレンの内に残っていた冷静な部分が散り散りに吹き飛んだ。

 ふぅ、と吐き出された息が奇妙に濁る。双子がぎょっとした様子でこちらを見る。

「おい、ちょっとこれ、まずいんじゃ」


 ――ユゥラに、手を、出すな


 美しい楽の音でなくとも、音は音である限りその本質は変わらない。風の音にも高い低いがあるように、掠れた呼気にも音高があり、組み合わせれば和音になる。揺らぎながら幾重にも重なる吐息の不協和音が室内に反響する。だが、目の前の相手の頭を揺さぶるには及ばない。これでは竜を喚ぶこともできないだろう。イーレンは無力感に歯を食いしばったが、それでも彼らにとっては脅しになるだけの威力があったらしい。少年が毒液を床に置いて両手を上げ「わかった、彼女には何もしない」と言ったところで、イーレンは息を揺らすのをやめた。吐いた息がごく普通に床板の上を滑ったのを見て、少年が肩の力を抜く。


「彼女には何もしないから、とりあえずその面白い声を出すのは一旦やめてくれ。いや、もちろん後からじっくり聞かせてもらいたいけど、流石に君の処置の方が先だ」

「おいハリ、何が『もちろん後から──」


「処置、とは?」

 眉を寄せて何か言いかけた少女を遮って、イーレンは慎重に問うた。銀髪の少年はにこりと感じよく笑って答えた。


「その腕の咬傷こうしょう、まだ縫合しただけだから。君、何かアレルギーはある? 破傷風ワクチンの接種歴は?」

「……は?」

「抗菌薬を投与しないといけないんだけど、今までお薬でアレルギーが出たことはありますか?」


 何の話か全くわからない。イーレンはぽかんとするあまり鋭い表情を作るのを忘れ、心をなくしたような無表情で腕の傷を見下ろした。異形の大蜥蜴にかなり酷く咬まれた記憶のあるそこは、見たことない織り目の白い布が巻いてあり、布の端が小さな銀色の金具で留めてある。亜鉄、にしては色むらがなさすぎる。まさか金属なのだろうか。


「んー、わかんないか。ならワクチンも接種していないものとみなします」

 少年がそう言って、傍らの机から小さな透明の器具を取り上げた。亜玉とは少し違うように見える筒状のそれの先端には、細い銀色の針がついていた。


「それは」

「注射器、見たことない?」

「知らぬ」

「あらまあ、ほんとに最上層から来たのかな……ここにお薬が入っててね、これを静脈、いや、血管はわかる?」

「存じている」

「うん。これは、血管に直接薬を入れる道具です。獣に咬まれた傷を放っておくと命の危険があるのは知ってるかな? それを防ぐお薬です」

「なぜ」

「ん?」

「なぜ、治療を? よそ者である私を警戒しているのでは」

「そりゃ、死なれたら困るからさ」


 そう言うと、少年は「じゃ、押さえといてね」と腹の上の少女に告げて、彼は白くて妙につるりとした床に膝をついてイーレンの右腕をごそごそといじくり始めた。「ちょっとチクッとしますよぅ」と幼児に言い聞かせるような間延びした口調で言ったかと思うと、腕の内側に細いものが突き刺さる感覚があった。治療のための薬だと告げた目に嘘の気配がなかったためにイーレンはじっとしていたが、ユゥラの方は猿轡の内側で何か言いながら立ち上がろうとして、金髪の少女に肩を押さえられている。


「彼女の布を外していただけないか。神韻詠唱は私にしかできぬ」

 床に横たわったままそう頼むと、金髪の少女は「どうする、ハリ?」と少年に指示を仰いだ。


「いいんじゃない? 少なくとも話は通じそうに見えるし」

「いやいや、何言ってんだ。むしろこいつの口を塞ぎ直すべきだろ」

「わかった、外すね」

「おいヒスイ」


(少年がハリ、金髪がヒスイ……翡翠で、確か粗野な口調のこいつはルリ……瑠璃と玻璃、か。全部宝物の名前だ)


 内輪揉めを始めた三人をそっと横目に一人ひとり観察し、イーレンは顔と名の記憶に努めた。未知の環境では何ひとつ見逃すべきではないし、忘れるべきではない。


 玻璃という名の少年だけが白い長衣姿で、残りの二人は動きやすそうな服を着ている。瑠璃の腕には金属の矢を発射する装置。腰に色々と道具をぶら下げている少女二人は上層で言うところの探索者か狩人のような装備だが、年齢はユゥラよりもいくつか下に見える。彼女らはどういう立場の人間なのか、ここは一体どこなのか――


 と、瑠璃の憤慨する声がイーレンの思考を断ち切った。

「こいつは、シェルターで治療を受ける代わりにおかしな真似はしないという条件を呑んだんだ。その上でついさっき妙な声で威嚇した。信用しない方がいい」


 嘘八百を並べ始めた瑠璃にイーレンは反論しようとしたが、翡翠が口を開く方が先だった。

「瑠璃、その条件を呑んだのは彼じゃない。こっちの女の子。そのときはこの人、気絶してたでしょ」

「……あ」


 瑠璃が口を半開きにした顔のままイーレンを見下ろし、のろのろと翡翠に視線を戻した。しばしの沈黙の後、翡翠は「納得できたみたいね」と静かに言って、ユゥラの拘束を外し始めた。突き放すような口調と冷淡な表情から、三人の中では最も非情そうに見えていたが、どうやら外見通りではないらしい。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る