五 瑠璃と翡翠
「――あれ、どこ行った? こっちの方だったよな?」
天井から垂れる蔓の一本に片手でぶら下がった少女が、くるくると空中で回転しながら周囲を見回した。見ているだけで目が回りそうなその動きに眉をひそめたもう一人が、呆れの混ざった声で応える。
「そのはずだよ。悟られたかな」
「んな馬鹿な。あたしと
くるんと器用に体重移動で振り返った少女は、ほとんど色素が感じられない明るい銀髪に真っ白な肌をしていた。明かりのない場所では白い影のように見える彼女の瞳だけが、ヒカリゴケのわずかな光できらりと金色にかがやく。
「その一流の私たちがいつまで経っても超一流になれないのは、
皮肉っぽく肩を竦める少女翡翠は、複雑に絡まり合った木の枝の隙間に小鳥のように舞い降りて、乱れた金の前髪を指先で丁寧に整えた。その毒舌と無駄に几帳面な仕草に、瑠璃は面倒そうな態度を隠さない。
「チッ、うるせえなァ」
「舌打ちしないの。女の子でしょ」
「年下のくせに、ババァみてえな説教垂れんじゃねえよ。今に顔まで老けてくるぜ?」
「……チッ」
「あ! 翡翠だって舌打ちしてんじゃん!」
「黙って。とりあえず、光が見えた場所まで行ってみよう」
「ん」
弾みをつけて枝の上に上がった瑠璃が、体をしならせた独特の動きで隣の木に飛び移った。振動の伝わり方を鹿に擬態させているのだ。狩りをするときは、こうして草食動物のふりをしておけば獣に警戒されない。余所者らしき人間に忍び寄るときもまた然り。
ぴょんぴょんと木から木へ飛ぶ瑠璃の後を、彼女より小柄な翡翠が追う。こうすることで、獣たちは母を追う子鹿の動きだと錯覚するのだ。
「あ、ほら! 焚き火の跡だ。うわ、てかこのスープまだあったかいし、美味そう」
「食べちゃダメだよ」
「……そんくらいわかってるし」
「何、その間は」
「別になんもない、けど――きゃっ!」
木の陰から静かに彼女たちを見つめている人影に気づいた瑠璃は、思わず可愛らしい悲鳴を上げてしまったことに真っ赤になりながら背後に飛び退った。全く同時に開けた場所まで下がった翡翠が「きゃ、だって」と楽しげにつぶやく。それを一瞬横目で睨んで、銀髪の少女は鋭い威嚇の声を上げた。
「テメェ、何もんだ! シェルターの人間じゃねえな、どっから来た!」
じりじりと下がりながら、背後の気配を探る。聞こえるのは獣の息遣いばかりだ。人間に囲まれている感じはない。
「私はイーレン、最上層より参った。郷里へ戻らんがため、物資の補給を必要としている。どうか手をお貸しいただきたい」
謎の人物が妙に古風な口調でしゃべった。とても背の高い、整った顔立ちの若い男だ。感情などないような冷たい目で瑠璃たちを見据えていたのが、話し始めた途端パッと華やかな満面の笑みに変わった。この上なく胡散臭い。二人が黙って見つめ返していると、イーレンと名乗った男は唐突に笑顔を消し去って、得体の知れない虚無の表情で瑠璃と翡翠をじっと見た。
(こいつ、危険人物だ)
瞬時にそう判断した瑠璃は、左腕に装着していたクロスボウを一矢撃ち込んだ。細い鉄の矢が男の髪を揺らして背後の木に刺さる。しかし男はそれをちらと振り返って「……金属?」とつぶやいただけだった。降伏宣言どころか、気後れする様子すらない。
「近づくな。次は額を撃ち抜く」
「敵意はない。話を」そう言って男が一歩踏み出す。
「ち、近づくなって!」
「瑠璃、一度距離を取ろう。笛を」
翡翠がささやく。瑠璃は小さくうなずいて、二人同時に大きく後ろへ跳ぶと胸に下げていた笛を吹いた。キュー、と迷子の子鹿が母を探す声に似た音色が響き渡り、二人がばら撒いた振動を狙って集まってきていた肉食獣があちこちから姿を現す。少女たちは足踏みをか弱い鹿からしなやかな猫科の獣のものに変えると、木の枝へ飛び上がって暗がりへ退避した。
「……あいつ、死ぬかな」
「大丈夫でしょ。こんな場所で呑気に肉を煮てるような傑物だし」
「それ、馬鹿って言ってないか?」
「だから、馬鹿な行動が取れるくらいの実力はあるんじゃないの? 最上層から来たっていうのが本当だとも思えないけど、少なくともうちの人間じゃないんだから、どこかから死なずに旅はしてきてるわけだし――ねえ瑠璃、もう一人いる」
「は? どこに」
目を凝らすと確かにもう一人、華奢な体格の女の子が奥の木立の中から姿を表した。小さな声で「イーレン」と連れの男を呼んでいる。男はそれに「出てくるな」と返事をして、寄り集まってきた獣を睨むと、手にした杖を足元に打ちつけた。
シャリン……
真鍮の鈴ともブロンズの鐘とも違う、聞いたことのない繊細な音だ。武器の類は持っていないように見えるが、まさかあの細い杖を振り回して戦う気なのだろうか。
じわじわと包囲を狭める肉食獣は十一頭。体の大きなそれは蜥蜴の群れだ。獰猛な上に知能も高く、この階層付近の生態系の頂点に立つそれは、どうやら他の動物を蹴散らした上で子鹿を狩りに来たのに、現れたのが大して美味くもない人間で苛立っている。牙の間から漏れる、ぞっとするような唸り声。群れで現れるなら小型の狼か何かだと予想していた翡翠も、「見殺しにしたら博士に怒られるかな」と苦々しくつぶやいた。
「助けに入るか?」
「入ったとして、助けられると思う?」
「後ろの女の子一人なら逃がせる」
「よし」
うなずき合って、男の背後に回るために飛ぼうとしたところで――二人は示し合わせたように動きを止めて男に目を戻した。男が、もう一度杖先の風変わりな鈴を鳴らしたのだ。
シャリン……
美しいその音色を聞いていると、なんだか別世界に誘い込まれるような奇妙な気分になってくる。ふと、体の力が抜けて木から落ちるのではないかという恐怖に襲われて、瑠璃は頭の高さにある枝をぎゅっと強く握り直した。動かなければ、という気持ちが次第に薄れて、鈴の音に引き込まれてゆく。翡翠も同じなのか、ぴくりとも動こうとしない。
シャリン……
シャリン……
時間の流れが遅くなる感覚。杖をつきながら、牙を剥き出す蜥蜴に向かって歩き出した男の上着の裾が、後ろで結わえた長い髪が、宙を泳ぐようにゆったりと持ち主の後を追う。底なし沼のような色の瞳が、何の感情もなく取り囲む敵を流し見た。先頭の蜥蜴が飛びかかろうと全身に力を入れる。男の薄い唇がわずかに開かれる。
男が空いた片手を差し伸べた。その瞬間に発せられた彼の歌声について言い表す言葉を、瑠璃は持たなかった。ただ畏れと寒気とめまいが同時に押し寄せ、無意識に手探りで翡翠の手を握った。彼女も縋るように握り返してきた。
「竜の、声……?」
か細いささやきが耳に届くが、瑠璃の頭の中は低く哀しげに唸る嘆きの歌で一杯になっていて、その意味を理解するまでに三秒はかかった。
「……そうだ。親を引き止める子竜の鳴き声だ。行かないで、そこにいてって」
「なんでそれを、人間が」
「わかんねえよ、そんなの」
その効果は
彼は反射的に口を開こうとしたようだが、謎めいた声を敵へと浴びせるには至らなかった。とっさに喉元を庇った腕に凶悪な顎が喰らいつき、引き千切らんと頭を振る。少女が悲鳴を上げ、男が懐から取り出した短刀の鞘を口で咥え、引き抜くやいなや銀に光る切っ先を蜥蜴の目玉に突き刺した。悲鳴を上げる蜥蜴。その隙に顎から腕を引き抜く男。だが手負いの獣はその喉笛を噛み切ってやろうと身を低くして――
『オーリォ!』
とそのとき、男が凄まじい声で怒鳴った。一体どんな喉と肺活量をしているのか。よく通る声、どころではない。耳がキーンと痛くなる声量。
その言葉が何を表しているのかはわからなかったが、その裏にたっぷりと混ぜられた不協和音は、明らかに竜の威嚇の声だった。雄の竜が雌を奪い合うときの戦いの声。全身が恐怖で硬直した瑠璃と翡翠はもんどりうって苔の上に落下し、真正面から声をぶつけられた蜥蜴たちはキャウンと子犬のような悲鳴を上げて身を翻した。狭い森の中で無理やり飛膜を広げ舞い上がり、先を争って奥へ奥へと逃げる。
「あいつは……竜の、何なんだ?」
喘ぐように吐いた言葉に、翡翠は応えなかった。ただ両腕で己を抱いて、真っ青になって震えている。
ならば、瑠璃がやるしかあるまい。
震える手でクロスボウを構える。額の真ん中に狙いをつけた彼女はそのとき、全く冷静ではなかった。「瑠璃、何を」と相棒が肩に手を掛けたのにも気づかない。ただ、黒い髪をした竜の化身から森と里を守らねばと、それだけが頭を巡っていた。
バシュッと小さな音を立てて発射された矢。目を丸くして振り返った男は、奇跡的にそれを防いだ。顔の前にかざされた杖に矢が突き刺さり、その勢いで杖は男の頭を殴りつけた。額からだらりと血が流れ、よろめく彼に二人の少女が飛びかかる。押し倒し、後ろ手に腕を捻り上げる翡翠と、ナイフを振りかざす瑠璃。一息に喉を切り裂こうとしたとき、澄んだ声が響き渡った。
「――やめて!」
飛び込んできた赤毛の少女に当てるまいと、瑠璃はとっさに武器を放り捨てた。揉み合うように地面を転がり、顔をしかめながらナイフを拾って振り返ると、翡翠が気絶した男に猿轡を噛ませ、既に手足まで縛り終えている。
「翡翠」
「ちょっと瑠璃、こいつを殺そうとしたでしょ! 勘弁してよね。こんな得体の知れないやつ、何も情報を取らないまま死なれたら恐怖しか残らないよ」
「その得体の知れないやつを、どうやって気絶させたんだ? この短時間で」
「私は何もしてない。その子の膝がこめかみに入ったの」
顎で指された赤毛の少女は、どうやら必死で飛び込んだ際に男の頭に飛び膝蹴りを喰らわせてしまったらしい。「あ……」と泣きそうな声を上げる彼女には、そう危険性を感じない。
「手首を縛らせてくれる? シェルターに来てもらうから」
そう翡翠が尋ねるとためらう様子を見せたが、明らかに自分よりも手練れな二人を交互に見つめ、少女は「イーレンに危害を加えず、傷の手当てをするならば」と答えた。
「この男がこれ以上おかしな真似をしないなら、悪いようにはしないよ」
「……では、一時的な拘束を受け入れましょう。あなたがたが私たちを信頼に足ると判断し、安心を得るまで」
大人しく両手を差し出す直前の、ほんの一瞬。大人しそうな顔立ちをしているのに、その瞳は氷よりもずっと冷たく感じられた。華奢な体躯に似合わぬ冷徹な気配に気後れしそうな己を隠して、瑠璃は「交渉成立だな」と冷たく笑い返した。
〈第五章 了〉
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