四 声
手頃な木の枝に花嫁の鈴帯を巻きつけた即席の杖を、シャリン、と足元に打ちつける。
『
彼が一声歌えば、おぞましい姿の怪物たちが慌てふためいて逃げていった。その中から歌にあてられて気絶したものを何匹か捕らえると、木の枝に逆さ吊りにして喉を切り裂く。血が止まるのを待って、その場で解体作業。
下層の野営生活も半月となれば、狩猟くらいはもう手慣れたものだ。というか、この「竜の声」が便利すぎるのだ。「神韻詠唱術」と呼ばれ、神官のみに伝授されてきたこの特殊な音楽は、実は下層探索隊にこそ必要なものだったのかもしれない。
地表近くに動く光を発見してから、イーレンたちはおよそ九十階層を降り、大穴を半周回り込んで集落と思わしき場所の真上近くに来ていた。はじめは塩気が少なく感じた食事にも舌が馴染み、手作りの装備も充実してきた。新しい着替えが手に入らないのが難点だが、まあ、丁寧に洗いながらどうにかそこそこの清潔さを保っている。
イーレンは細い蔓を編んで作った籠に肉を放り込み、手のひらについた血液を丁寧に拭き取ると、様子を窺っていたユゥラを振り返った。
「どうですか、イーレン」
「たぶん顎狐の近縁種だと思う。尻尾が五本あったけど」
「顎狐……」
薄紫の毛皮に大きな顎、八本脚の気持ち悪い獣を好物にしているユゥラが、嬉しそうに口元を綻ばせた。
「今日は、煮て食べたいです」
「そうしようか。トマトもあるし」
「はい」
のんびり歩いて拠点へ戻ると、イーレンは小さな木製の鍋に水を張り、それを焚き火の上に乗せた。樹皮が灰色の地衣類に覆われていたせいで気づくのが遅れたが、地表の土壌から鉄分を汲み上げているガラの木は、どうやら下層の七割近くを構成する主要な樹木であったらしい。これが上層のガラとは別の木なのか、それとも上まで繋がっているとてつもなく巨大な一本の木なのかは、混み合った枝ぶりゆえに判然としない。
そんなガラの木の謎は置いておくとして、この木は大変燃えにくく、材は硬いが緻密で強度があり、熱伝導率が高い。そして何より、こうして鍋代わりにしたり小枝を煮込んだりすることで、豊富な鉄分が摂取できる優れものである。見つけたときは思わず歓声を上げてしまった。
その鍋に張った少量の水があたたまるのを待って、新鮮な肉と、中身が黒いゼリー状になった果実を放り込む。このトマト風の何かは、見た目こそ最悪だが濃厚な酸味と甘みがあって香りも爽やか、肉の塩気と合わせて汁物にすると実に美味いのだ。そこへユゥラが乾燥させておいた香草類をいくつか千切り入れる。胡椒茎、と名づけた細い茎はとにかく虫瘤が多いのが難点だが、刺激的な香りとぴりりとした辛さがあって使い勝手がいい。
ぐつぐつと肉が煮える音を聞きながら、イーレンは短刀でちまちまと木を削って箸や匙を作り、ユゥラは摘んできた花を丁寧に木の板に挟んで押し花にしている。最近の趣味だ。
「それ、見たことない花だな」
「ええ。押し花にしても光るでしょうか?」
「どうだろう」
「光るものができたら、イーレンにもあげます」
真面目な顔でそう言ったユゥラは、淡く白色に発光して見える花をまじまじと観察し、香りをかいで、花弁を一枚取ると細い布帯を使って二の腕に貼りつけた。毒味の前段階として、まずは皮膚のやわらかいところに当てて反応を見るのだ。はじめはイーレンが全て引き受けようとしていたが、祭主並みの気迫を漂わせながら「半々です」と言われてしまったので、それ以降は交代で毒味するようにしている。
「この花からは種も少し取れました、イーレン」
「良かったな」
「はい」
握りしめていた花の種は、花弁よりは淡いもののかすかに光っている。ユゥラはそれをキラキラした目で見つめ、ふにゃりと微笑んで腰帯にくくりつけた革袋に仕舞う。顎狐の皮を虫瘤でなめして作った、光る花の種子専用蒐集袋だ。
「上層へ帰ったら一緒に育てましょう、イーレン」
「うん」
二百階層付近で見つけた青い光の群れは、やはり花畑だった。ヒカリゴケに近い性質を持っている、つまりわずかな月明かりを強く反射して、まるで発光しているようにかがやいて見えるようだった。ゆえに焚き火の炎にかざすと華やかにきらめくし、手の中に閉じ込めてしまえばまったく光らない。
このように下層の大穴近くには、上層とも森の奥とも違う固有の植物が自生しているようだ。このような光を集める植物がところどころに生えていて、わずかな光で懸命に光合成を行っている。それが健気でもあり、白や青や緑に光る幻想的な月夜の情景は、追い詰められそうな心をいつも慰めてくれる。
「……しかし、そろそろ夜間の見張りは交代に戻した方がいいな」
「そうですね」
集落の人間に出くわすかもしれない、と口に出さずとも、聡明な少女はすぐに発言の意図を悟ったようだ。笑顔を消してスッと大穴の方へ視線を流すユゥラは、やはりどこか仕草が祭主に似ている。愛も情も与えられず、理想的な生贄として洗脳された娘でも健気に親を見て育ったのかと思うと、どうにもやるせない気持ちになる。小さな棘のようなその痛みをごまかすように口を開く。
「あと五層くらい、かな」
「場所によって天井の高さが違いますから正確には数えられませんが、おそらくは」
「友好的な民族だといいが」
「そうですね。言葉も通じない可能性が――」
ふつりとユゥラが言葉を切った瞬間、イーレンが焚き火へ水をかける。光の届かない最下層付近の森がふっと暗闇に閉ざされ、イーレンは鈴が鳴らぬよう手で押さえながら杖を持ち上げると、手探りでユゥラの手を引いた。
「移動するぞ」
耳打ちすると、耳元で「はい」と冷静なささやき。相変わらず肝が据わっている。イーレンたちは苔の下の梢を揺らさぬよう慎重に、あらかじめ決めておいた隠れ場所へ移動を始めた。垂れ下がる気根の絡み合った奥深くへ音もなく身を隠すことができ、かつ出入り口が複数あり、いざとなれば苔を突き破って上下にも移動できる場所を、二人は常に確保するようにしていた。毎日の寝場所もそうだが、焚き火の煙や食料のある場所へ留まり続けるのは、人間相手でも獣相手でも悪手にしかならない。
(獣か、人か)
足元からわずかに伝わる振動は、ユゥラの感じ取った違和感が勘違いでないことを証明している。それが何であれ、ついさっき歌ったばかりの森で動き回る存在は危険だ。太い樹木を背にしてユゥラを背後へ隠し、イーレンは静かに深呼吸すると目を閉じた。もともと鋭敏な彼の聴覚が集中力を高めるほど研ぎ澄まされ、風に揺れる木々や蔓草、遠くで吼える獣の声、無数の虫の歌の中から対象の存在だけを炙り出す。
(あとたったの五層。呑気に噂話なんてしている暇はなかったらしい――)
「……ユゥラ」
「はい」
「かなり訛りがあるが、おそらく『どこへ行った?』と」
「それならば、意思疎通が可能ですね」
のんびりそう言った少女の微笑が、目が慣れてきた暗闇の中でぼんやり見えた。苦笑を返したイーレンは、異様な速度で近づいてくる気配を仰いで視線を鋭くした。
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