三 見下ろす
投げた枝が掠り、コソコソ近づいてきていた拳大の蜘蛛が逃げていった。いや、とっさに蜘蛛かと思ったが、明らかに脚は八本より多い。毒虫なのかどうかもわからない。
離れた風下に獲物の残骸を捨て、時折寄ってくる虫を追い払いながら、仮眠を取るユゥラの寝顔を眺める。腹に入れた顎狐の毒が回っている感触はない。途方に暮れるようなこの状況のなかで掴んだ小さな幸運が、ひどく嬉しい。
日中は服から乾いた泥をこそいだり、短刀で器や箸を作って過ごし、日が暮れる頃には夕食の肉を焼きながら、干していた方の肉を焚き火の上に吊るし直して燻製の準備を始めた。保存のことを考えれば本当はもっとじっくり干しておきたいところだが、そう何日ものんびり滞在していられない。イーレンにできるのは、乾きやすいようできる限り肉を薄く削いでおくことくらいだ。肉を吊るした即席の三脚の上に厚く苔を被せる。煙を溜めるための屋根だ。いくつか小枝に火をつけてみて、比較的良い香りの煙が出るものを熾火の上に乗せた。
「ユゥラ。疲労回復にも、塩分を摂るのにも肉は重要だから、できればこのくらいは食べてくれ」
焦げ目のついた肉の塊から、ほんの欠片だけを切り取って食べようとしているユゥラに、イーレンは厚く切った一枚を差し出して言った。
「……けれど、私が食べるほどイーレンのお肉が減ります」
「君が塩分欠乏に陥ったら、俺は自分の手首を切って生き血を飲ませるぞ。脚が十六本ある怪物の血を飲むよりは安全だろう」
「お肉を食べます」
「よし」
少々気色の悪い脅し文句になってしまったが、素直に肉を受け取ったのでいいだろう。炙り肉にかぶりついたユゥラが滴る肉汁の旨味に頬を緩めたところで、イーレンは繁みの陰から陰へ回り込むように移動している十六本脚の怪物を倒すために立ち上がった。
◇
「……毒がありそうだったから、獲らなかったよ」
「ふぁう」
焚き火のそばへ戻ると、ユゥラは肉を口いっぱいに詰め込んで真剣な顔で咀嚼していた。なかなか噛み切れないようだ。
「おいしい?」
「んぅ」
「よかった」
「うぃぇん」
「うん、俺も食べるよ」
「んんぅ」
「……何?」
首を横に振ったユゥラが肉を飲み込もうと喉を動かし、眉を寄せて必死にもぐもぐした。それでもやっぱり噛み切れないようで、噛みながら穴の方を指差す。
「え? 向こう?」
振り返るが、特に何もない。
「何かいた?」
そう訊けば、首が横に振られる。
「……っ光、が一層下に」
「あ、飲み込めた?」
「はい」
「一層下?」
「爆発のところではないでしょうか」
立ち上がると、揺れる焚き火の明かりに影が大きく伸び縮みする。確かに一層下あたり、穴の向こうにやわらかな青い光の群れが見える。暗くてよく見えないが、爆発地点の近辺であるようだ。
「ヒカリゴケの仲間かな……」
「見に行きましょう」
「いや、今からはちょっと」
イーレンは暗がりに目を凝らし、光をじっと観察した。無数の光の点が床面あたりに広がっており、特に動いている様子はない。泥の影響を受けて何かの花が咲いたか、それとも栄養豊富な若木を求めて光る虫が集まってきているのか。
「移動するなら日中がいい。せめて明日の朝まで待とう。同じものが上の階層にもあればもっといいんだけど」
イーレンは慎重に足場を確認しながら穴に近寄ると、木の幹に手をついて大穴の壁面にぐるりと視線を巡らせた。あそこまでの規模はないが、ちらほらと似たような色の光は見える。時間も体力もできるだけ節約しておきたいこの状況でわざわざ下へ戻るか否か、迷いながら踵を返そうとしたとき、イーレンは「……ん?」と眉をひそめた。疑問に思った心情を表したのではなく、見つけたそれをよく見ようとしてのことである。
「どうしました?」
「ちょっと、来てくれないか。足元に気をつけて」
イーレンの手招きに従って、ユゥラが隣にしゃがみ込む。太い枝に掴まって、彼女は漆黒の深淵にしかみえないはずの地表を覗き込んだ。
「……人里?」
困惑したつぶやき。イーレンは小さくうなずいて言った。
「植物……には、見えないな。君にも人里があるように見えるか。だが、あんなところに」
その光は地面の上か、下から数えてほんの数階層の場所にあるように見えた。橙色の小さな光の点がいくつもかがやき、わずかに揺れる。
「火災、っていう可能性は、いや、それにしては煙が出ていないか。光る花畑か何かがある可能性はなくはない、けど」
「んぅ、い」
「……また肉を口に入れたの?」
「ん」
振り返ると、ユゥラはまた肉が飲み込めなくなって必死で噛んでいた。が、今度は小さく切り分けてから食べたらしく、先程よりは早く嚥下に成功したようだ。
「イーレン、あそこへ行ってみませんか?」
「……あそこに?」
「はい。最上層へ戻るよりも、ずっと近いです」
「確かに強い光が均等に並んでいるけど、必ずしも人工物だとは限らない。光る花が咲いているだけで終わりかもしれない。人工的なものだったとしても、古代遺跡の名残か何かで、人間はいない可能性の方がずっと高い」
「それはそれで見てみたいです」
「うーん……」
イーレンは腕を組んで唸り、眉間を何度か揉んで、そしてもう一度光の方を見下ろした。
「一応、試してみるか……」
少し迷ったが、大きく息を吸って、叫ぶ。
「――おーい! 誰かいるのか!」
静かな夜の大穴に、神官のよく通る声が反響する。ユゥラがびくりと跳ねただけで、光に動きはない。人がいないのか、遠すぎるのか。
『そこに誰かいるか!』
竜の声で、もう一度。やはり光はチラチラと瞬くばかりで変化はない。返される声も――
「しまった」
突如、地底から湧き上がった不協和音に森が震えた。最上層で聞いたそれよりもずっと大きく深い、千も万もひしめく唸り声。
『居りませ! 眠りませ! おやすみっ!』
慌てて叫び返すと、竜たちは「おやすみ」と返すようにいくつも唸りを上げて、そして少しずつ静かになっていった。イーレンは胸を撫で下ろして、びっくり顔で震えているユゥラの手を握った。きゅっと握り返されるあたたかい感触に、自分の動悸も少しずつおさまってくる。
「ごめん、迂闊だった」
「何頭、いるのでしょうか」
「さあ……」
イーレンは苦笑いで地表を見下ろした。光のあった場所へ目をやって、そしてつい癖で、ストンと全ての感情をその顔から消した。ユゥラが小さな声で「あっ」と言う。
「イーレン、また顔が死んだようになっています」
「……やはり下へ行ってみよう、ユゥラ」
「え?」
視線を追った少女は、小さな光の点がいくつも慌てたようにうろついているのを見てきょとんとした。
「……松明でしょうか」
「その可能性が高くなった。あの『声』を聞いて逃げもせず、穴のそばまで確認しにくるような間抜けな生き物は、人間くらいしかいない」
重々しく告げると、ユゥラは静かに言った。
「ならば、まずは明日の夜、一層下のあの綺麗な青い光を見に行きましょう。どうせ下へ向かうのですから、いいですよね」
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