二 狩猟
枝と蔓と苔でできた床は、岩と土の地面よりもずっと細やかに振動を伝える。息を殺して迫る異形の獣の忍び足を、足の裏で感じとる。大きいのが一頭と、小さめのが数匹。
「……イ」
「静かに。じっとして、獣の注意を引かないで」
ゆっくり唾を飲む。胸の前で守り刀を抜いて、イーレンは口を開いた。
『――動くな』
竜の言葉はやはり竜にしか通じないのだろうか。獣が彼の言葉に従うことはなかったが、期待通りの効果はもたらした。声を聞きつけた獣がびくりと身を縮こまらせ、一目散に逃げ始めたのだ。四つ脚で駆け去る尾の高さがイーレンの頭より高い。
『止まれ!!』
腹から咆哮すると、枝の上からこちらを狙っていた黒い影が一匹、足を滑らせてころりと苔の上に落下した。駆け寄って胴体を踏みつけ、短刀で一息に喉を裂く。緊張で力が入りきらず、もう一度振り上げて強く切りつける。父と比べれば手際はかなり悪かったが、鋼鉄の切れ味のおかげで上手くいった。噴き出す血を浴びぬよう獣の体を押さえつけ、確実に無力化したのを確認して、その辺りの蔓草で木の枝から吊り下げた。
「……イーレン」
震える声がかけられる。その瞳が死骸を見つめているのに気づいて、イーレンは「見ない方がいい」と言った。
「血が抜けたら捌くから」
「あの」
その言葉にユゥラは少しほっとした顔をして、そしておずおずとイーレンの隣まで寄ってきた。異形の死骸を恐ろしそうにちらりと見て、すぐに目をそらし、またちらりと見る。淡い紫色をしたもじゃもじゃの毛皮に、目が四つ。鉤爪のついた脚が八本と、尾が二本。尖った牙の並んだ顎は胴体の半分近い大きさがある。
「……その生き物は、食べられるのですか」
「さあ。知らない種類だから、試してみる必要がある」
「獣がはっきりと異形になり始めるのは四十階層からです。その階層ですら、角や毛皮を持ち帰ることはありましたが、捌いて食べたという記録はありません」
「毒味は俺がするから、大丈夫」
知っている何にも例えようがない姿を見つめ、この気色悪い動物に何と名前をつけようか考える。
「……ムラサキアゴキツネ」
「どのあたりが、狐なのですか?」とユゥラ。
「尻尾がふさふさだろう」
「狐の尾は、先端が枝分かれしていないのでは」
「まあ、そうだけど」
半殺しで吊られていた獲物が絶命し、流れ出る血の勢いが緩やかになったのを見て、イーレンは蔓を切って紫色の怪物を降ろすと、腹を裂いて内臓を抜き始めた。あたたかい肉は腐りやすい。体温を下げるだけならば水を含んだ苔の中に突っ込むのでもよいが、どうせのんびり解体できる水場も安全地帯もないのだ、熱のこもった腑はここで捨ててしまう。はじめに細菌の温床である腸。心臓と肝臓は食べるために残してもよかったが、どれも奇妙な形をしていたりやたら数が多かったりして自信がなかったので全て取り出し、苔の深いところに埋め込む。
「行くよ、ユゥラ」
「はい」
複数あった獣の気配はさっぱり消え去っていた。定期的に竜の声で何か歌っておく必要があるな、と考えながら、イーレンは昨日のうちに見つけておいた木の方へユゥラ誘導した。
「ここが比較的登りやすそうなんだ。先に俺が荷物を上へあげるから、ユゥラは俺が戻ってくるのを待ってから登ってくれ」
「なぜ戻るのを待つ必要が? イーレンの後に続いて登ればよいのでは」
「俺が下にいれば、君が落ちてきても受け止められる」
「このくらいで落ちたりしません」
平然とユゥラが言った。イーレンは無言のまま彼女をじっと見つめ、歩み寄ると、しっかり抱えている巨大な豆の鞘を取り上げた。浄衣から半袈裟を一本外し、それを紐代わりに背負わせる。
「……くれぐれも、気をつけて」
「イーレンは過保護すぎます」
「だって君、箱入り中の箱入りなお姫様じゃないか」
「箱から出したのはイーレンです」
「だから心配してるんだよ」
「見た目より賢いですよ、私」
「君に足りてないのは賢さじゃなく、警戒心と慎重さだろ」
「え?」
ぽかんとしているユゥラへ「俺の言うことを何でもきけとは言わないが、安全確保だけはこれからも口出しさせてもらう」としつこく言い含め、イーレンはアゴキツネを背負って枝を登った。よく音を聞き、時折動きを止めて振動がないか確かめ、念のため顔を出す前に低く歌っておく。
『
祝詞の一節だが、獣相手に竜語が通じないなら内容は何でもいいだろう。逃げてゆく足音は聞こえない。さっきの『止まれ』は少し声を張ったので、上にも届いていたのかもしれない。
推定ガガイモの爆発的な成長は一見止まっているように見えたが、念のため穴の縁に沿って少し回り込み、距離を開けておく。それほど歩いたつもりはなかったが、足場が悪いせいか、すぐに息が切れる。
「疲れてないか、ユゥラ」
「問題……ありません」
肩で息をしながら返答されたので、ひとまず食事にすることにした。昨日と同じように焚き火の土台を作り、ふんわり丸めた綿毛を乗せる。ユゥラが着火に挑戦してみたが上手くいかず、今日のところはイーレンが火を熾した。
「少し……炎が小さい気がします。すぐに息が切れますし、酸素が薄いのでしょうか」
「こっちの植物には緑の葉がついてないし、風も通りにくい。その可能性はあると思う。頭痛や吐き気は?」
「ありません」
「お互い無理はしないようにしよう。息切れする前にこうして休む。かつ、早めに上へあがった方がいいな」
「私もそう思います」
「うん。じゃあ、ユゥラは先に豆を食べていてくれ」
そう言って火の上に豆を乗せると、ユゥラが「あの、やはり毒味など」と不安げにイーレンの袖を引いた。
「この豆のように、安全なものもあります」
「選り好みしていたらあっという間に栄養失調になる。自分で確認していかないと」
「ならば、毒味は私が」
「でも、もう口に入れてしまったよ」
舌を出して、乗っている炙った肉片を見せる。ユゥラはどこか悔しげに口を幾度かパクパクさせて、無言で薪の上に豆の鞘を乗せた。
「……ずるいです」
「悪いね」
してやったりと微笑んで、肉片を口に含んだままじっと百五十数える。妙な臭みもなく、むしろ脂が乗っていて美味しい。少し噛み、呑んでしまいたい衝動を堪えて追加で三百数えたら、はじめて嚥下できる。
「……熱々で食べたいな」
「大丈夫そうですね」
「うん。味も普通の動物の肉だし、おそらく問題ない。もう少し量を食べて、半日経過を見るよ。ユゥラは夕食まで待ってくれ」
「……はい」
「植物の場合はもう何段階か慎重にならないといけないから、迂闊に真似するなよ」
「イーレン」
焦げてきた豆の鞘を慎重に剥いていたユゥラが、顔を上げて少年を見つめた。熱々の豆を差し出されたが、首を振って断る。毒味中は別のものを胃に入れない方がいい。世の中には組み合わせで効果を発揮する毒もたくさんあるので、単体での安全確認は重要だ。
「多かったら残しておいてくれ、夜に食べるから」
「次は私が毒味をします」
「それはまた、そのときに考えよう」
曖昧に躱すとユゥラに睨まれたが、祭主の顔を見慣れているイーレンは少しも怖くない。顎狐の解体を再開し、作業のついでに小さく切ったものを焼いて口に放り込む。小柄な猪くらいの大きさはあるので、夜に食べる分の肉を残し、あとは薄く削いで手近な蔓へ洗濯物のように干してゆく。夜まで乾かしたら、その後は燻製だ。本当は塩漬けにしておきたいところだが、ないものは仕方がない。
「塩は……流石に手に入らないだろうな」
「かなり西へ行かねばなりませんものね」
「うん。あまり穴から離れない方がいい」
樹液から塩が抽出できるのは、地表に岩塩の産地がある西の森だけだ。樹種ではなく土壌依存なので、塩分濃度の高い土地の真上に行かない限り絶対に採れない。
(せめて肉が食べられそうでよかったな)
そう思いながら箸代わりにしていた木の枝を焚き火に突っ込み、守り刀を清めた苔も上に乗せた。濡れた苔からもうもうと蒸気が上がり、乾いた端から焦げてゆく。
会話が途切れると、途端に森の不気味な静けさが気になった。にぎやかな小鳥の声も、さらさらと梢の揺れる音色も聞こえない。不気味な紫白の森に響くのは、大穴を通るかすかな風の音だけ。獣も鳥も虫も、暗がりでじっと息を潜めている。
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