一 爆発
目を開けると、周囲が明るい。焚き火ではなく、大穴側から差し込む青白い朝日である。嘘だろ、とイーレンは息を呑んで飛び起きようとして、なぜか自分が身動きひとつできないことに気がついた。首を、肩を、腕を、脚を、全身を何かに押さえつけられていて、一寸程度しか身を起こせない。
「は!?」
強引に身を捻ろうとして失敗し、すぐ隣に咲いていたらしい白い花に顔から突っ込んだ。青っぽい草の香りがして、睫毛が花粉で黄色く染まる。
「うわっ──ゆ、ユゥラ! ユゥラ、どこだ!」
首を動かせる範囲が非常に狭く、あたりを見回せない。大慌てで呼ばわると、三秒ほど経って「……ん?」と小さな声が聞こえてきた。絡み合う蔓草の中でぎちぎちと頭を回して、必死にそちらを見る。燃え尽きて白くなった焚き火の向こうに、花嫁衣装を被って丸くなった赤いかたまり。
「ユゥラ、無事か!」
「……ぇん」
「おい、どうした」
「イぃぇん」
「ユゥラ?」
「……ょう」
「あ……おはよう」
赤い布の下から、綿毛まみれになったぼさぼさ頭が現れた。半分しか開いていない青い瞳がイーレンをぼんやりと見つめ、「……かがみ?」と言う。
「その、怪我はないか、ユゥラ」
「けが?」
「ええと、動けそう?」
「……ぅん」
もぞりと布が動いて、半開きの目がゆっくり二回またたき、ユゥラは「……ううん」とのんびり言い直した。
「動けません、イーレン」
「そっか」
「はい」
「怪我はないね?」
「はい」
ユゥラは落ち着き払った様子で、綿毛の枕に頭を乗せたままうなずく。こんなにも朝に弱い人間をイーレンは初めて見た。少々呆然となりながら、イーレンはひとまずあちこちを捻って、どうにか左腕の肘から先だけを蔓から抜き出すことに成功した。懐に無理やり腕を突っ込み、鞘を脇に挟んで守り刀を抜く。鋼鉄の刃は軽く滑らせるだけでいとも簡単に太い蔓を断ち切った。左腕が自由に回せるだけの空間を確保し、次いで右腕を自由にすると、両手を使って上半身を開放してゆく。
「……カガミ、ガガイモの仲間ですね」
と、その様子をぼんやり見守っていたユゥラが言った。イーレンが振り返ると、彼女は目の前の綿毛に鼻先をちょんと当て「この種が……育ったものなのかもしれません」とあくびまじりに述べた。少し目が覚めてきたらしい。
「ガガイモってあの、おひたしにする? こんなに成長の早い植物だったか?」
「いいえ。しかし、こんな季節に種を飛ばしている時点で、上層のものとは別種でしょう」
「それはそうだけど。こんなに太い茎の植物じゃないし」
手首ほどある太い蔓を断ち落とし、イーレンはようやく体を起こした。がんじがらめの両脚を手早く引っこ抜き、焚き火が完全に消えていることを確認すると、ユゥラの方へ向かって道を作り始める。
「手際がいいですね」
「まあ、森の中で道を作ることにはそこそこ慣れてるから」
「お父さまと下層の探索を?」
「うん。ただ毒草を見分けたり獲物の下処理をしたり、子どもでもできる基礎しか教わってないから、本格的な探索とか狩猟はやったことないけど……にしてもよく切れるな、この短刀」
蔓を切るのに夢中になってさらりと言ってしまったが、イーレンが下層に不慣れなのは言わない方がよかっただろうか。彼女を不安にさせてしまっただろうかと目の端で様子を窺ったが、彼女は「綺麗ですね」と言いながら白いガガイモの花を眺めていた。流石は元生贄、この異常事態に肝が座りすぎている。
ユゥラと荷物を救出すると、イーレンたちは、絡まり合った蔓玉の中から慎重に抜け出した。外側から見ると、蔓は予想より遥かに大きく成長している。天井の隙間を縫うように上へ上へと伸びて、少なくとも三層上には到達していそうだ。
「まるで森林爆発だな……」
呆れてそう言ったイーレンの袖を、ユゥラがちょんちょんと引いた。
「イーレン、あれを」
「ん?」
そっと指された先に目をやると、昨日も見た綿毛の木である。よく観察すれば確かに同じような葉がついていて、太い蔓の形をしているが、樹皮は硬く木質化している。こちらの「爆発」している方も、時間が経てばこんな風に──
「あれ?」
「どういうことでしょう」
下層にはほとんど風がない。綿毛は遠くへ飛んでゆくことなく、親の根元にふわふわと舞い落ちている。水分たっぷりの苔の上に乗っている無数の種子のなかで、発芽しているものはひとつもない。
二人同時に、野営地の方を振り返った。特に太い蔓を目で辿り、イーレンは守り刀を片手に「爆心地」へ歩み寄る。邪魔な蔓をいくつか切り払って、足元の苔に手を伸ばした。
「何かが埋まってる、わけではなさそうだけど……」
雑菌を嫌うコカゲノシッポゴケがあるということは、動物の死骸が腐敗している可能性はほとんどない。頭上の木々も、特に他と種類が違っているようには見えない。特別な腐葉土であるとか、そういった特殊な土台に根を伸ばしたと考えるのは難しいように見える。確かに同じ植物だよな、と葉を一枚手に取ってじっくり見ていると、ユゥラが突然しゃがみ込み、苔の中に手を突っ込んだ。
「イーレン」
「どうした?」
「これ」
彼女が取り出してみせたのは、千切れた黒い苔である。この辺りに生えているのと同じものだ。
「それが?」
「よく見てください」
白い指が苔を揉むように触る。その指の腹が墨を塗ったように黒く染まったのを見てイーレンは驚き、一拍遅れて目を見張った。
「これは……」
手を伸ばして苔に触れ、指先に付着したそれの匂いをかぐ。
「やっぱり、泥だ」
「顔や手を拭った苔を、確かここに捨てました」
「『土』って……すごいんだな」
やはり地表の物体というのは計り知れない。イーレンが半ば呆れてそう言うと、ユゥラは「いえ」とわずかに眉を寄せた。長髪を後ろで縛り、飾り気のない黒衣を纏ってそういう表情をしていると、ユゥラはかなり中性的に見える。祭主さまもさぞや美少年だったのだろうな、と頭の中でユゥラの赤髪を銀髪に置き換えていると、彼女は祭主が困惑しているときとそっくりな顔でイーレンを振り返った。
「古代の植物学については、他の分野よりも多くの知識が継承されています。都市を捨て、森林で生きることを余儀なくされたという『終末』当時の状況を鑑みるに、優先的に知識や技術が使われ続けてきたのでしょう。ですが……」
ユゥラはそこで言い淀み、「あくまでも、荒唐無稽な推測と思っていただきたいのですが」と前置きする。イーレンが視線で続きを促すと、ユゥラは少し声を小さくして自信なさげに言った。
「ですが、地表の土壌によってここまでの異常な成長が起こるという文献に出会ったことはありません。思うに……この『泥』が、森林爆発の原因なのではないでしょうか」
「うん。時期を見て、確かめてみよう」
そう言うと、不思議そうな顔で見つめられた。そうやって目を丸くして上目遣いに見られると、なんだか妙に気恥ずかしくなってしまう。イーレンはあからさまにならないようさりげなく目を逸らし、ユゥラの手の中を指差した。
「それに何か植えてみればいい。時間と安全を確保した上で」
「……そう、ですね」
きょとんとしたユゥラもすごく可愛い。そういえば寝起きの顔もとてつもなく可愛かった、とか邪念が脳裏をかすめたが、手のひらを真っ黒にして泥まみれの苔を握りしめたユゥラが「そうですね。今のうちに実験を進めて、いずれは森林爆発の研究者になってもいいかもしれません」と微笑んだのを見て、神職らしからぬその邪念はあっという間に吹き飛んでいった。
「うん。きっと楽しい。二百階層まで降りた記録なんて、他の誰にも書き残せない。きっとどこの里でも下層研究の第一人者になれる」
「……私、大人になれるのですね」
「もちろんだ」
「……狩猟の経験はないと言いましたね、イーレン」
「その通り。だけど君は、俺がなぜこの白い衣を着ているのか忘れてないか」
天寿を全うするまで、君を守るつもりでいるよ。そう言って、イーレンは片手を出してユゥラを下がらせ、森の奥で光る一対の瞳を鋭く睨み返した。
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