第五章 遭遇

父(祭主視点)

 失敗だらけなウロの人生で唯一自信を持って「成功した」と言えるのは、娘の運命を妻に知られずに済んだことだ。産後の肥立ちが悪かったリェラは、父親によく似た青い目に、母親そっくりな赤髪を持った我が子を胸に抱き、幸せにおなりと微笑みながら死んでいった。その笑顔には一点の曇りもなく、彼女はウロが娘を幸福に育て上げると信じきっていた。


 偽りの笑みで彼女を見送ってから、ウロは作り笑いができなくなった。


 誕生と共に「花嫁」の運命が告げられるのはむしろ温情であると、当時の祭主ジレンは言った。未来を信じて生きてきた人間からその未来を奪うより、夢も仕事も好いた男も全てを寄ってたかってむしり取るよりは、はじめから全てを無いものとして育てる方がよい。洗脳にも近しい思想教育を施し、殉教を恐れぬ狂信者へと育て上げれば、少しは儀式の残虐性を緩和できると。


 幼い花嫁候補ユゥラにとってその教育が良い方向へ働いたのかは、正直言ってわからない。ただ、その方針がウロの心を壊したのは確かだった。最愛の妻を喪い、忘れ形見の娘さえも奪われると知って、彼はおかしくなった。乳飲み子の娘を抱いてふらふらと虚ろな目で里を歩き回り、すれ違う誰にも憎しみの視線を向け、突然道の真ん中で膝を折って涙を流した。


 そしてそんな状態のままひと月が過ぎたころ、彼は唐突に社入りした。誰にも止められなかった。並外れた歌の才能であっという間に鈍色の衣を得たウロは、あっという間に地位を上げてゆき、脚を痛めて儀式の進行に苦労していたジレンを押し退けて祭主の座におさまった。凍りつくような目をした若き祭主は、先代と違って神官達と事務的な会話以外の交流を持たず、雑談の類は全て無視する男だった。花嫁の教育にも一切関わらせなかった。しかしユゥラ姫が日に日に美しく、人形のような無表情に成長しているのを見れば、彼が仕事を全うしているのは明らかだった。つまり彼女が愛を得ず、情を培わず、信仰のみに生きる「真の花嫁」に育て上げられようとしているのを疑う者はいなかった。


 しかし、その教育も全てが無に帰した。否、無よりもずっと悪い結果になった。彼が育てた弟子の失態によって。


 その日、未だ竜の声による強いめまいが残るなか、人々は地面からわずかに顔を上げ、一人舞台に立ち尽くすウロを見つめていた。氷色の瞳で暗い淵を見下ろす彼は、血を分けた娘と才能ある弟子を失ったばかりだというのに、何の感情も抱いていないように見えた。ウロ自身も、そうあろうとしていた。


(ユゥラ、ユゥラ、ユゥラ――)


 舞台に這いつくばり、手を伸ばしたい衝動をウロは堪えた。叫び出そうとする喉に力を入れ、息を止める。彼は愛弟子が空中で娘を抱き寄せ、竜を喚んだのを見守ると、浄衣の裾を翻して群衆に向き直った。紛糾し始めている里人達へ片手を上げ、沈黙させると、彼は押し殺した声で淡々と言った。


「……神は竜声の子を愛され、その声に応えられる。しかし神は、人の子の命令に従う存在ではない。あくまでも、神は人の上におられるのだ」


 静まりかえった森に、遠く穴の底から竜の唸りが聞こえてくる。めまいを呼ぶのは変わらないが、どこか不思議そうな、穏やかな声だ。


(つまり、少なくともイーレンはまだ生きている。そして彼は、決して娘を死なせないだろう)


 祭主の口元に浮かんだ淡い笑みを、人々は目を丸くして見つめた。彼が笑うところを初めて見て驚く者と、こんな状況で悠々と笑っていることに驚く者が半々。


「希望を捨てることはない。神は必ず我らの声に応えてくださる。それを私が証明しよう」


 冷酷な目をした「氷の祭主」が、こんなにもあたたかい声音で話したことが未だかつてあったろうか。神官たちは口をあんぐりと開け、群衆はその瞳にわずかな希望の光を取り戻した。


(次は失敗しない)


 ウロの唯一の宝を背に庇い、業火のような咆哮を神へと向けた弟子の背を思い出しながら、祭主は口を開く。


「ひと月後の満月に、再び儀式を執り行う。だが、次の花嫁はまだ年端もゆかぬ――」


 迷うように言葉を切ると、人々の間から、誰が、誰がとささやきが上がった。再び抱きかけた希望から一転、不安に揺れる声。愛する家族を失うことを恐れて、他人の犠牲を望む声。


「故に異例だが、私が婿入りするとしよう」


 保守的な声がいくつか上がったが、ウロが「そも、神へ嫁ぐのが女性に限られていたのは、働き手を失いたくなかった人の都合だ。大地の神が男神か女神かはわかっていない」と言えば、簡単に口をつぐんだ。彼の言葉に納得したのではなく、万が一にも我が身を危険に晒したくない、保身の沈黙だった。


 しかし、それでいい――


 ふっと顔を上げると、もう部屋が薄暗くなっていた。燭台に火を灯すと、驚くほど部屋が明るくなる。この二日間のウロは、ずっとこんな調子だった。幾度も、幾度も同じ回想を繰り返しては「あの時こうしていれば」と、覆水を盆に返す算段ばかり立て続けている。調合の手を止め、目を閉じて深呼吸すると、ウロは脳裏に描き出された二人の姿――またたく間に小さく遠ざかってゆく娘と弟子の姿をどうにか振り払った。生まれたばかりの我が子を腕に抱いたときの感触も、優秀な弟子が時折不器用に自分へ笑いかけるときの喜びも脳裏から消し去った。揺れる蝋燭の紅色から目を逸らし、調合台に椅子を寄せ、「婿入り」の香を練る作業を再開する。


(次は失敗しない。決してだ。必ず、完全に、悪しき因習を断ち切ってみせる)


 イーレンは里一番の探索者イセンの一人息子だ。下層の森だろうと、短刀一本あれば必ず生き残る。娘と弟子が帰還するまでに、彼らの居場所を作っておかねば。

 そのためならば、この身はどうなっても構わない。

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