四 鋼と玉


「……これは」


 淡い虹色に光る神秘的な花模様を、ユゥラの細い指がおそるおそるなぞる。薄桃色の爪にうっすら虹が反射するさまを、青い瞳が食い入るように見ている。


螺鈿らでん。貝殻細工だよ」

「貝殻……」


 鯉口を切り、音もなく抜く。青白い刀身が鋭い光を放った。ゆるく傾ければ、陽炎を思わせる不思議な刃文が浮かび上がる。触れただけで骨まで断ち切りそうな、寒気のする美しさである。


「亜鉄じゃない、本物の鋼だ。こっちの飾りは翡翠。地表のぎょくだね」

「ひすい」


 半分は白く、半分はみどり色をした飾り玉をつまみ上げ、大穴から差し込む遠い光にかざした。ぎょくはやわらかく光を透かし、一度見たら忘れられないような神秘的で清らかな色彩を胸の奥深くまで届けてくる。


「きれい……」

「里側からは見えない角度で、懐に押し込まれた。餞別のつもりだろう。きっと……俺が皆の憎悪になぶり殺されるのを、あの人はよしとしなかったんだ。俺は感謝している」


 少しずつ出るようになってきた声で独り言のように低くつぶやくと、ユゥラは視線を玉に固定したまま、ほんの少し目を細めた。微笑みでも悲しみでも哀れみでもない。あまり見たことのない種類の複雑な表情だ。話を続けてよいものかと躊躇したが、イーレンは続きを口にするために苔から水を掬って飲んだ。


「厳しい方だが、冷酷な人ではなかった。と思う。君が俺の後を追って飛んだとき……あんなに必死な祭主さまの顔を、俺は初めて見た。懸命に手を伸ばして君を助けようとしていた。だから……その、彼を恨んでも仕方がないが、彼なりに、君を愛していなかったわけではないと、それは知っておいていいと思う」


 水面のような瞳がこちらを向いた。大穴から差し込む陽光と焚き火の炎、色の違う光に両側から照らされて、これ以上なく複雑な色にきらめいている。


「だから、これを君に」


 イーレンは短刀の柄から翡翠の飾り玉を外すと、そっとユゥラに差し出した。


「短刀の方は俺に使わせて欲しい。俺の方が扱いに慣れてるから」

「イーレンへ贈られたものですから、どちらもイーレンが持っているべきでしょう」


 ユゥラは玉を受け取らなかった。その表情に変化はない。何色ともつかない色に瞳をかがやかせたまま、悲哀も嫌悪もなく、じっとイーレンを見つめ返す。イーレンは膝の上で重ねられた華奢な手を取って、春霞色の宝石を握り込ませた。


「俺が、君に持っていてほしいんだ。翡翠は古来、幸運を招くと言われた石だから。君が嫌でないのなら」

「幸運を、私に」


 何を考えているのかわからない顔のまま、ユゥラがつぶやいた。彼女は握っていた手のひらを開き、翠色と白色の境目の部分を指先でなぞった。そして花を模した白い絹の組紐を腰帯に結びつけると、うつむいて小さな声で言った。


「ならば、私はいつもイーレンの幸福を願っています。あなたの幸せが、私の幸運となるように」

「君の幸福が俺の幸福だ。だから、この守り刀で必ず君を守る」


 ユゥラの唇が弧を描いた。淡い微笑みが、イーレンの顔をじっと見て更に深まった。


「父を恨んではおりません」


 声は小さかったが、本音に聞こえた。なぜ、と思ったが、訊くことはできなかった。



   ◇



 蒸し焼きにしただけの豆は、驚くほど美味かった。禊のために朝から水しか口にしておらず、既に昼食の時間を過ぎていたせいかもしれないが、こんなに美味いものは初めて食べた気がした。ユゥラも夢中で頬張っているので、気持ちの問題だけではないだろう。


 食事をしがてら、まだらに黒く染まった花嫁衣装と浄衣を焚き火のそばに干しておく。


「洗わないのですか?」

 ぎゅっと手のひらで苔を押して水たまりを作り、ユゥラが首をかしげた。確かに最低限の洗濯ができる程度の水は溜められそうだったが、イーレンがこの汚れた服をそのまま乾燥させる選択をしたのは、節水のためではなかった。


「少なくとも、しばらくは。夜までに乾かないと防寒具として使えないから。それに、この泥も乾かして集めておきたい」

「泥、を?」

「はじめは竜の体液か何かだと思ったけど、この香りは知ってる。社の宝物庫にあった『土』と同じなんだ。たぶん地表の泥なんだよ、これ」


 おそらく竜は沼とか湿地とか、そういうところからやってきたのだろう。指先に黒い泥を掬って、じっくり香りを確かめる。


「間違いない。朽ちた葉と、鉱物の混ざった香りだ」

「とっておくと何かに使えるのですか?」

「いいや、この量じゃ特に何にも。けど、上層へ持ち帰れば貴重な宝物だ。最高の交渉材料になる」

「交渉」

「どこか別の里に身を寄せるとか、そういうときに」

「別の里……」


 ぽかんとした顔で復唱するユゥラは、想像もつかないといった様子である。近隣の里とはかなり距離が離れているし、何か諍いがあって過去に決別しているらしい。それこそ探索隊でもなければ、よその人間なんて顔も見たことがないだろう。


「あちこち旅をしてみよう。きっと居心地よく暮らせる場所がある」


 そのためにまずは生き残らねば、という言葉は呑み込んだ。希望は大きい方がいいし、不安は少ない方がいい。無情な現実は心の片隅にとどめておいて、本当に必要なときにだけ戦えばよいのだ。


(人類はそうやって生き残ってきた。制御不可能な森林の増殖に怯えるだけでは亜鉄も亜玉も生まれなかった。竜信仰は大嫌いだが、その教義の全部が悪いわけじゃない)


 紅いガラと白い亜玉。神域がそのふたつの色に彩られるのは、紅白を縁起の良い組み合わせだとした古代の価値観を受け継いでいるというのもあるが、それ以上に、ガラから採った亜鉄と鋭く割った亜玉が、火打金と火打石になるからだ。鋼と石英で容易に火を熾す、その技術を人類が取り戻した象徴として、社はガラの御神木を亜玉の林で囲う。


 パチ、パチ……と、薪のはじける小さな音が森に響く。少しずつあたためられてきた花嫁衣装から、香のかおりが漂い始めた。厚い布地の内側にたくさん縫いつけられた匂い袋には、ガラと亜玉の葉、丁子の実や肉桂の樹皮など十五の香料が調合された、嫁入りの香がたっぷり入れられている。香室の管理者だったイーレンも知らなかったこの特別な香りは、花嫁が一歩歩くだけで甘苦くどこか爽やかな、えも言われぬ芳香をふりまく。これも生薬として効能の高いものが多いので、燃やしてしまうわけにはいかない。どうにか密閉に近い状態にして香りを封じ、大切に持ち歩かねばならないだろう。


(とりあえずは豆の葉で包んで……短刀があれば木彫りの器を作れるか)


 匂い袋の糸を切って衣装から外し、繊維が緻密そうな木のかたまりを見繕い、服が乾いたころには日が傾いて真っ暗になっていた。大穴の下層という立地ゆえ、最上層と違って西日がほとんど差し込まない。


 火持ちの良い生木を焚き火に足して、イーレンは夜間の見張りに備えて少しでも体力を温存しようと横になった。目を閉じるつもりはなかったが、とうに限界を超えていた彼の体は言うことをきかず、泥のように重たい眠気で意識を攻め立てた。程なくして、イーレンは抗えず深い眠りに落ちた。


〈第四章 了〉

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