三 火打石

「……本当ならこの服も鈴も穴の底に捨ててしまいたいけど、これだけの厚さと面積のある布を手放すのは自殺行為だ。亜鉄の鈴も使いどころが多い。持って行くけど、我慢してくれるか?」


 心苦しいが、そういう言い方をすればユゥラは同意するだろうと予想した上で言った。彼女は想像通り、というか、特に気にする様子もなくあっけらかんとうなずいた。


「もちろんです。毛布にも天幕にもなりますし、傷の手当てにも使えます」

「……ありがとう。できるだけ、目に入らないように持ち歩くから」

「その必要はありません。イーレンがいますから」

「そっ……!」


 それはどういう、と尋ねようとして、その質問も口にするのは気が引けて、イーレンはただただ言葉に詰まってその場で硬直した。頬と耳がみるみる熱をもち、ユゥラが「顔が赤くなりました」と淡々と言った。


「私はなにか、恥ずかしいことを言いましたか?」

「……いや、その。君の信頼が嬉しくて」

「人は嬉しいときにも顔を赤くするのですか? ならば、イーレンのそばにいられて嬉しい私の顔も赤くなっていますか?」

「あ、いや……その、そうでもないかな。個人の体質もあるから」

「なるほど」


 真剣にうなずいたユゥラへ真面目な顔でうなずきを返し、イーレンはそそくさと足元の枝を拾い始めた。このあたりの足元が脆くなっているのは竜のせいだが、竜が豪快に破壊していったおかげで、折れた太い枝がごろごろ転がっている。このあたりを根城にしていた野生動物も、しばらくは戻ってこられないだろう。安全な歩き方さえ心得ていれば、むしろ生き延びるには有利なのかもしれない。


「野営地は、竜が荒らした跡にできるだけ近い方がいい。このあたりで足元が緩んでいない場所を探すから、ユゥラはそこの豆の木の下で待機。周囲に薬草を見つけても、その場を離れないように」


 ついでに豆を採集しておいてくれ。そう言うと、ユゥラは首をかしげて「豆のところが安全ならば、そこで野営をするのではいけないのですか?」と尋ねた。


「食料になる植物がない場所の方が安全だ」

「動物が食べに来るからですか?」

「その通り。焚き火と荷物、寝床もそれぞれ場所を分ける」

「下層探索隊の方々は、いつもそうやって野営をしているのですか?」

「いかにも。だが、その探索隊も精々五十層あたりまでしか降りたことがないはずだ。彼らのやりかたがどれだけ通用するかはわからない。油断せず行こう」

「はい。今の『いかにも』は、少し父に似ていました」


 そう言ってユゥラがほんのり笑うので、イーレンは返答に困ってしまった。

「……ええと、それは」

 どういう意味で言っているんだ、とイーレンは必死で思考したがさっぱりわからなかったので、とりあえずごまかすことにした。

「……ここ最近、ずっと師事していたから」

「ええ、知っています」

「うん」


 おざなりな相槌を打って、「じゃあ、何かあったら呼んでくれ」と彼女に背を向けた。とはいえ本当に何かあってから駆けつけるのでは遅いので、イーレンは人よりも敏感らしいその聴覚を最大限に研ぎ澄ませ、森の奥から異形の化け物が忍び寄って来ていないか探りながら、足元の強度を確かめてゆく。


 太い幹を竜にへし折られておらず、生きた枝が緻密に絡み合った場所をいくつか見つけると、苔の上の足跡を見ながら確実に来た道を戻った。広い面として見たときに足元が安定していても、枝と枝の間の隙間が少しでも広ければ、体ごと下層に落下してしまう。自然のままの森は、天然の落とし穴でいっぱいだ。たとえ竜の破壊が及んでいない場所でも、大きな穴を人の手で丁寧に補修してある里とは安全性が全く異なるのである。


 と、そうして慎重に戻った先でユゥラが豆の木によじ登っているのを発見して、イーレンは息が止まりそうになった。


「ゆ、ユゥラ!」

「イーレン、たくさん採りました」


 彼女の身長とほとんど変わらない巨大な豆の鞘を両腕で山ほど抱え、そのまま樹上で上体を捻ってイーレンを振り返るユゥラに、慌てふためいて真下へ駆け込み、両腕を広げる。


「下から届く範囲でいいんだ! じゃなくて、今すぐ豆を捨てろ! 枝から手を離すな! 危ないから!」

「大丈夫です」

「大丈夫じゃない!」


 枝の上のユゥラは今にも滑って落ちそうに見えたが、以外にも器用に一つずつ豆を苔の上へ落とし、危なげなく木を降りてきた。まさか社の御神木でもあるガラの木に日常的に登って遊んでいたのではと、思わずとんでもない想像をしてしまったが、返答によってはかなり返事に困るので、真偽を問うのはやめておくことにした。


 ひとまず今日の野営地には、密度と強度のある土台の上にコカゲノシッポゴケが生い茂り、寄生植物の類が生えていない場所を選んだ。ヤドリギのように樹木に根を伸ばすものであれば気にする必要はないが、白くてひょろりとした葉のない草、いわゆる腐生植物はカビやキノコなどの菌類に寄生している。つまり、その付近に溜まった水は菌まみれで煮沸しても飲めない場合が多い。


(……とはいえ)


 苔に溜まった水が飲める環境は、調査の進んでいる上層でもかなり貴重である。ここを離れれば、そう簡単にはいかないだろう。


(亜玉、でなくても、せめて原種の竹が生えていれば)


 若竹からは新鮮な水が汲める上に、水筒を作るのも簡単だ。半分に割れば鍋の代わりにもなる。だが、見渡す限り森の中はうねうねとした不気味な灰色の樹木ばかりで、竹林なんて爽やかで生命力にあふれたものには出会えそうもなかった。


 どうしたものか、と頭のなかで算段を立てつつ、イーレンは拾い集めた太い生木の枝を苔の上に並べ始める。隣でその様子を見守っているユゥラが、小さな声で尋ねた。


「それは?」

「こうしておくと薪に苔の水分が浸みるのを防げるし、真下の苔が乾燥しないから燃え広がりにくい。囲炉裏みたいに灰の層を作れない場所で火を熾すときは、こうやって土台を作る」

「ふうん……」


 澄んだまなざしに好奇心の光が灯った。楽しそうでなによりである。彼女には幸福であってほしいというのもあるが、こういった厳しい環境下では、絶望した人間から弱ってゆくのだ。全てを失ってなお希望を失わなかった人間だけが今もこうして命を繋いでいるのだと、神典にも書いてある。


 イーレンはほんのり口の端を上げて枝を手に取った彼女にほっとして、つい表情を整えるのを忘れた。すかさず少女が「今はなぜ、突然死んだような顔になったのですか」と訊いてくる。


「いや、べつに」

「疲れましたか」

「大丈夫」


 気が緩むとこうなる、というのは言ってもいいのだろうか? 変なやつだと思われるだろうか?


 折れたての生木の上に乾いた枯れ木の小枝と、例の綿毛のかたまりを用意する。それから亜鉄の鈴をひとつと、浄衣の胸元に半袈裟を留めていたピンから、亜玉の裸石ルースを取り外して握り込む。


「火打石を使ったことは?」

 大きな目を爛々とかがやかせたユゥラに問うと、彼女は首を振った。

「ありません。衛舎の囲炉裏ではヒヅタの燐寸マッチを使っていました」

「なるほど。原理は知ってる?」

「硬度の高い亜玉と強くぶつけ合わせた衝撃で亜鉄が削れ、飛び散った微細な破片が赤熱し、その熱で火をともします」

「その通り。実践するから、よく見ていて」


 ふたつの角をカチンと鋭くぶつけ、丸めた白い綿毛の上に火花を落とす。その火花が熱を失う前に、綿毛ごと手のひらで包むように持って、ふうっと優しく息を吹きかける。ジリジリとかすかな音を立てて火口が燃え始め、次の瞬間、ぼうっと大きな火が上がった。火傷をしないうちに素早く即席の焚き火台へ置き、息をかけながら燃えやすい乾いた小枝を足してゆく。


「すごい……火が」

「慣れるまでは少し難しいけど、練習するといい。できるだけ鋭い角の部分を合わせるのがコツだ」

「接触箇所の面積が小さい方が強い力が加わるからですか」

「たぶんそうだ」


 そうして作った種火の上に手早く薪を組み上げ、パチパチと燃え出した火のそばに、イーレンの肩まである巨大な豆の鞘を並べる。


「鞘ごと炙ると、中の水分で蒸し焼きになって美味いんだ」

「私は煮豆しか食べたことがありません」

「そうか。明日には肉も焼いてみよう。短刀一本でも、小さめの兎くらいなら狩れると思う。塩がないから薄味だけど、きっと美味しい」

「はい……短刀?」


 そんなもの持っていたのか、という視線を向けてくるユゥラに、イーレンは「うん」とささやき返して、懐から螺鈿の装飾が施された美しい守り刀の鞘を取り出した。


「祭主さまに渡されたんだ。彼に突き落とされる寸前に」

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