二 握れた

 湿った苔の上に倒れ込み、ごろんと仰向けになる。腹の底から、なぜだかむくむくと愉快な気持ちが込み上げてきて、イーレンは声の出なくなった喉を震わせて笑い出した。その顔を見下ろして目をぱちくりとさせたユゥラが、そっとささやく。


「笑うときは顔も笑顔にした方がいいと思います、イーレン」

「ああ、忘れてた」


 パッと満面の笑みになったイーレンを見て、ユゥラがもう一度目をしばたたいた。ああ、急激すぎたのかと思って一度真顔に戻し、じわじわと再び笑顔にしてゆくと、彼女は祭主そっくりの顔で眉間に皺を寄せ、まじまじとイーレンを見つめる。


「今のは自然、だッ──」


 自然だったろう? と言おうとして、イーレンは喉を押さえて咳き込んだ。血がボタボタと滴ったが、慌てて立ち上がったユゥラに首を振ってみせる。


「っ大丈夫。ちょっと失敗しただけだ」

「声を出してはいけません、手話を使ってください。それと、今の一連の表情は全く自然ではありません」

「……えっ」

「声を出しては」

「いや、手話なんか、使えないし」


 確かに喉は息だけの小声でもひどく痛んだが、小さくささやくだけなら、そう傷を悪化させている感触はない。咳をこらえるイーレンのかたわらにユゥラが膝をつき、おそらく背をさすろうとしたのだろう。厚い花嫁衣装がもぞもぞと動いている。


 イーレンは今度こそ自然と思われる微笑を浮かべると、片手を振って彼女へ立ち上がるよう促した。不思議そうに従った彼女の両肩を掴んで後ろを向かせ、ガラの花を模した難解な飾り結びに手を掛ける。センダほどではないが器用な長い指が素早く結び目をほどき、連なった鈴がシャリンと澄んだ音を立てて苔の上に落ちた。首の後ろにある同じ結び目が同じ速さで解きほぐされると、背中に寄せられた豪奢な襞がゆるまり、重い紅色の花嫁衣装がするりと肩を滑って脱げ落ちた。厚手の黒い長衣姿になった彼女は、足首までの裾を翻してイーレンを振り返る。


「……イーレン」


 鈴を鳴らすような澄んだ声が、震えて掠れる。イーレンは浄衣の内側の汚れていない部分で念入りに手の泥を拭い、細く白い彼女の両手をそっと取った。折れそうなほど華奢だがあたたかく握り返してくる、生きた人間の手。


「……もう一度、握れた」

「イーレン、なぜ泣いているのですか」

「君と同じ理由だと思うよ」


 肩を引き寄せて強く抱きしめると、おずおずと背に腕が回り、そのままくずおれるように彼女は朝露で濡れた苔の上に座り込んだ。片膝をついてその体を支え、イーレンはまだ香の香りが残る真紅の髪に頬を寄せた。



   ◇



 このままずっとこうしていたかったが、いつまでも泣いてはいられない。イーレンは腕の中の泣き声がおさまったのを確認すると、肩に押し付けられた頭をひと撫でして立ち上がった。慎重に足元の強度を確かめながら、ギリギリまで穴の縁に寄って空を見上げる。


「かなり落ちたな……ざっと二百階層ってところか」

「舞台が、あんな遠くに」


 後ろを追ってきたユゥラがか細くつぶやく。イーレンはじわりと表情を変化させ、シエンが相手を安心させるときの微笑みを作った。


「心配しなくていい。でも、戻るのは時間がかかりそうだ」

「里へ戻るおつもりなのですか?」

「あの里には帰れないかもしれないが、少なくとも最上層へは。ここは穴の縁にしか光も届かないし、そもそも上とは全く生態系が違う。異形の化け物だらけだから」

「化け物……」

「だから、あまり長居はしない方がいいな」


 半ば己に言い聞かせるようにそう言って、イーレンは森の奥へ目をやった。ぼこぼこと歪に膨れた木々の節は、枝の折れた痕というよりは虫瘤のように見える。何か異形のものをその中で育てているのだろうか。樹皮は燃え尽きて灰になったような奇妙な色をしていて、枝を伸ばしているのにその先に葉はなく、代わりに蔓とも根ともつかぬ太い何かがうねうねと頭上を這い回り埋め尽くしていた。


 そんな不気味な籠天井の隙間からは、上層の木の根がだらりと垂れ下がる。足元は濁った薄紫色の苔で覆われ、ところどころにひょろりと白い花だかキノコだかわからないようなものが咲いている。


「あれが咲いている周辺の水は汲むな。近くに何かの死骸が埋まってる。この真っ黒い、花弁のような形の葉を持つ苔。ここを狙って押すんだ。これは雑菌の少ない場所でしか育たない。ここに溜まった朝露ならそのまま飲める」


 ぐいぐいと押して苔をへこませ、溜まった水を手のひらに掬って一口飲んだ。


「大丈夫そうだ。ユゥラも」

「コカゲノシッポゴケですね。日光の届かない三層奥地でも生育する種です」

「……詳しいな」

「夜間ならば書庫へ出入り自由な環境で育ちましたから」

「なるほど」


 そういえば、あそこには植物図鑑もあったかもしれない。


「人体に無毒で、葉に強い殺菌作用を持ちます。擦り潰すと薬になるそうです」

「へえ」


 早速手のひらで潰して爪の割れた部分に擦り込んでいると、ユゥラは不思議そうに言った。


「けれど、水を汲むための指標になるのは知りませんでした。どうしてイーレンはそんなことを知っているのですか? 神官なのに」

「父が探索隊の隊長をしているんだ。子供のころはよく森に連れ出されたから」

「イーレンの、お父様」

「うん。でもユゥラのような植物学の知識は持ち合わせてないから、助かるよ。香の知識ならあるけど、薬学にもそれほど詳しくない」


 するとユゥラはきらりと瞳を光らせて、あちらこちらを指差しては周囲の植物の解説をし始めた。


「あの少しだけ葉が退化せず残っている木本性の蔓植物は、解熱効果があります。上層特有の種と書いてありましたが、大穴を通って種が飛んだのでしょう」

「植物としてはクロフジノキという名ですが、上の方に生っているあの豆はオオエダマメと呼ばれます。味は大豆に似ていて、食べられます。豆ですが、若いものなら壊血病の予防になります」

「あの紫の苔は知らない種ですが、可愛らしい花が咲いています。しかし正確に言うとあれは花ではなく、胞子体です」

「それからあのふわふわは、枕になるかもしれません」

「枕……?」


 細い指がさしている先を見ると、気味の悪い灰色の木から白い綿毛がもこもこと咲いていた。これは採っておこうと早速むしりに行けば、ちょこちょこと後をついてきたユゥラが「きっととてもやわらかいです」と誇らしげに口の端を上げた。


「……君のおかげで、下層の森でも生き残れそうだ」

「イーレンの役に立ちましたか?」

「ああ」


 青い瞳が、眩しいくらいにきらめいた。ふわっと頬が赤くなり、ユゥラはこれ以上なく嬉しそうに破顔して「あれはおそらく毒です!」と毒々しい紫の斑点がある巨大なキノコを指差した。流石にそれは言われなくてもわかる。


「なら、朝食はあの豆にしておこう。この……枕の材料は火口にもなりそうだから、おそらくそれで火を熾せる」

「はい!」


 生き生きとしているユゥラにおそらく自然な笑みを返し、その笑顔のまま、イーレンは重い気持ちで花嫁衣装が放り捨てられている場所を振り返った。

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