一 届け

 杖を放り出し、目の前に広がる朱色へ必死に手を伸ばした。一度かすり、二度目で掴む。左腕で引き寄せて、右手で彼女の頭の後ろの結び目を解いた。手を離れた灰色の布があっという間に吹き飛んでゆく。いや、それだけの速さでイーレンたちが落下しているのだ。


「イーレン」


 ユゥラが彼の名を呼んだ。どこか泣きそうな声で。


「せっかく、君を助けられたと思ったのに。どうして俺の死を無駄にするんだ?」


 少年が耳元でささやく。風の音がうるさいなか、本当はもう少し大きな声を出したかったが、彼の喉はもう血を噴く寸前で、激痛に掠れた声しか出なかった。そんなイーレンをじっと見つめ、贄を免れた少女が言う。


「私のせいです」

「だから、一緒に死のうと? 大きなお世話だ。さすがにこの状況じゃ、もう君を助けてやれない。地表までどれだけの距離があると思ってる? 俺を下敷きにする程度ではどうにもならない」


 それでも、独りでないことに少しだけ安堵してしまうのが悔しい。念入りに表情を消したイーレンが「馬鹿だな、君は」と言うと、ユゥラは「自死のつもりはありませんでした」と言った。


「ただ、あなたが遠ざかってゆくのを見送れないと、そう思ったのです」

「どうして」

「……わかりません」

「そうか」


 面紗はとうの昔に吹き飛んで、顕になった水色の双眸がイーレンの黒い瞳を覗き込む。困惑しながらも、なぜか悲しさや絶望の色が見えないそれを見つめ返し、イーレンはちらと穴の底を見下ろすと、ほとんど聞き取れない掠れ声で言った。


「……ユゥラ、喰われるかもしれない覚悟は決められるか?」

「え?」

「もう一度、竜を喚んでみよう」

「歌えるのですか、その喉で」

「君のためなら」


 どうせ、生き残ったところで帰る場所などない。その場でなぶり殺しか火炙りか、温情をかけられたとしても、待っているのは里を追われ森で孤独に野垂れ死ぬ未来。だから祭主に突き落とされた瞬間、イーレンは少しだけほっとしていたのだ。無惨な死に様を師匠やシエン、そしてユゥラに見られずに済んだと。悔いはないと。


 しかし、この腕の中にユゥラがいるとなれば話は違ってくる。それも彼と死ぬためではなく、追いかけてきた少女がいるとなれば。自分が生きようとしていることに気づいてすらいないこの子の人生は、やりきって終えようとしているイーレンとは違う。まだ始まってもいないのだ。


 絶対に、死なせるわけにはいかない。


 イーレンはこくり、こくりと慎重に二度唾を飲んで、枯れた喉を潤した。少し動かしただけで痛みが走るが、まだ裂けてはいないようだ。


(よし、いけそうだ)


「一か八かの賭けだ。竜は応えないかもしれないし、俺たちを喰うかもしれない。でも、死ぬときは一緒だから」

「はい」

「覚悟はいいか」

「はい」

「喉が潰れる前に言っておく。君が好きだよ、ユゥラ」

「はい」


 命懸けの告白をかなりあっさりした感じに受け止められ、イーレンはちょっぴりもの哀しい気持ちになったが、まあ、こうして彼女を抱きしめられただけ僥倖だろう。真顔のまま気を持ち直し、ぐるりと竜へ体を向けた。


『来ま、せ……ッ!』


 喉から血の雫が飛んだ。咳き込みそうになるのをギリギリで堪える。いま咳なんてしたら、更に大量の血を吐くことになるのは目に見えている。


『来てくれ、竜よ!』


 鮮血色をした叫びに、ゆったりと泳ぐように先を行っていた竜が顔を上げた。無数の細い脚は壁面を掴める形状には見えないが、なぜかその場でごく自然に身を留まらせ、匂いをかぐように鼻面のあたりをスンスンと動かし、そしてふいと顔を背ける。


(くそ、ダメか!)


 歯を食いしばって、湧き上がりそうになった絶望を逃がす。死を目前に思考が急加速し、助かるためのあらゆる可能性を探る。円筒型をした大穴のど真ん中、壁面にはどうやっても手が届かない。竜が先行する穴は周囲の全てが破壊されていて、蔓の一本も横切っていない。その竜もイーレンの声に応えない。どうすればいい、どうすれば。


「応えました、イーレン」


 そのとき、ユゥラがぽつりと言った。どこか嬉しそうな、希望に満ちた声。イーレンは瞠目して腕の中を見つめ、そして再び竜を見据えた。


(そうだ、竜は振り返った。応えていないわけじゃない――!)


 ぬる、と妖艶に竜の全身がくねる。泥を纏った黒い肌。そのなめらかさに一縷の希望を見出して、イーレンは唇を真紅に濡らしながら叫んだ。


『――居りませ、そこに!!』


 無駄に長い神官服の袖を伸ばして、ユゥラを隠すように抱え込む。どこか困ったように降下を止め、こちらに向かって首を伸ばした竜の頭に、体を捻って背中から落ちた。


(やわらかい!)


 賭けに勝った少年が「よし!」と掠れた叫びを上げる。彼は少女を抱えたまま素早く立ち上がり、服の裾から泥を散らして竜の背を走り始めた。


(あと少し!)


 ぶよぶよとやわらかな肌に足が沈み込み、何度もよろめきながら、『居りませ! 居りませ!』と繰り返し歌って、そしてイーレンは跳んだ。荒れた灰色の森の端に泥まみれの手が掛かり、そしてずるりと滑る。


 この十年で新たな枝葉を伸ばしたばかり。まだまだ堅牢とは言えないその場所は、しかも竜の跳躍で幹ごとへし折られたばかりだ。苔と梢で作られた地盤は、人ふたり分の体重すらも支えられないほど弱かった。ずるずると滑ってゆく体を止めようと、何度も千切れた根を掴み、共に滑り始めたそれを放り捨てて、また手を伸ばす。


(諦めて、なるものか……!)


 左腕に抱えたユゥラは、未だ鈴帯で縛られたままだ。イーレンが落ちれば、彼女は絶対に助からない。


(この似合わない朱色を着せたまま、死なせはしない!)


『届け! 届け……っ!』


 その竜声が己を傷つけるばかりだということを忘れ、遠ざかってゆく太い枝を神の声で引き寄せんと、イーレンは無我夢中で叫んだ。掴んだ苔の切れ端をかなぐり捨てて、喉から血を吐きながら、爪の割れた指先を伸ばす。


 無駄な足掻きに思えたその詠唱が奇跡を喚んだ。緩慢に首を持ち上げた竜が、滑落するイーレンの背を鼻先でツンと触る。その巨大な口に咥えたままだった花咲くガラの枝を、イーレンは死にものぐるいで捕まえた。手の中で潰れた真紅の花が赤い汁を滴らせる。鉄の匂いが鼻をつく。


 竜はそのままゆっくりと森の中へ頭を突っ込み、少し揺すってイーレンを枝から振り落とした。頑丈な土台の上で転がって、少年が振り返る。それに小さく唸ってみせた竜は、再びのっそりと頭を下へ向けて、最下層の棲家へと帰っていった。


『――ありがとう、竜よ!』


 その一声で喉が潰れた。ひしめく不協和音がそれに応えた。

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