第四章 下層
光(ユゥラ視点)
私は、己の殉教を嘆かない。
そう告げたのは決して嘘ではなかった。けれど、花嫁衣装を纏った自分を見つめる彼があまりに辛そうな目をするものだから、ほんの少しだけ、名残惜しくなった。そんな一時の気の迷いで「忘れないでいてくれますか」などという呪いの言葉を彼に刻みつけたのを、ユゥラは今、ひどく後悔している。口に含んだ結び目をそっと舌で押し、筆談も身振り手振りもできない衣装を見下ろす。
(ごめんなさい、イーレン)
罪悪感は重く重く胸の内側に居座って呼吸を妨げた。けれど、口に出した呪いの言葉をもう二度と訂正できないことに、なぜか深い安堵を覚える。
(ごめんなさい、イーレン。私を忘れないで)
たった一度、ほんのひととき顔を合わせただけの少年に、なぜあんな言葉を言ってしまったのか。彼女の十五年の人生をかけて築き上げた信仰心が、なぜその表情ひとつで揺らがされたのか、その理由はユゥラにもよくわからなかった。ただ、痛みと苦しみでいっぱいになったその瞳がとても澄んで見えて、気づいたら、口に出していたのだ。
(贄が、もし、私でなかったら)
そうしたら、友として彼と過ごす穏やかな日々があったのだろうか? 不意にそう考えて、面紗の下でそっと首を振る。女のユゥラでは神官にはなれないし、神官は俗世の者とめったに口を利かない。どうせ、友達になんてなれなかった。
きっと、その初めて抱いた未練のような何かに困惑していたせいだ。神に――竜に向かって「決して喰わせない」などと叫ぶ彼を止められなかったのは。確かにそのときユゥラは口を利けなかったし、服には袖がなかったが、服の下の腕まで縛られていたわけではない。強引に衣装を捲り上げ、目の前の肩を掴むことはきっとできたはずで、脚だって自由だった。それでもなぜか、己の前に立つその背を見上げて身動きひとつとれなかった。
(だからこれは、竜そのものの声で歌う彼に希望を抱いてしまった、私の罪だ)
そんな風に考えたのは、踏みきってしまった後のことだった。背中から落ちてゆく彼を追って跳んだ瞬間は、ただ、熾火のようにこの胸を焦がす未練を追いかけねばと、それしか考えていなかった。
(彼と、共にあらねば。私の呪縛を解いてくださった彼と、共に)
生きたい生きたいと叫び、夢を奪われたと咽び泣きながら死んだエナのことを、ユゥラは哀れに思っていた。信仰心を持たなかったせいで、不必要な苦しみを抱いてしまったかわいそうな人だと。
(けれど、違った。誰よりも貧しい生を送っていたのは私の方だった)
喉を潰しながら叫んだイーレンの言葉は、それほど強烈だった。己の全てを懸けてユゥラを、ユゥラの抱いてもいない夢と未来を守らんとするその絶叫は、死の淵にいる彼女に生への未練を――目のくらむようなまばゆい希望をもたらした。
(竜よ、呼び出しておいてごめんなさい。私はあなたに食べられるため生まれたのではないの)
その光の中で目にした竜は、もはや彼女にとって神ではなかった。
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