第三章 嫁入り

一 居りませ

 ユゥラと話したあの朝以来、急激に表情が変わることで皆に少々怖がられていたイーレンの顔は、魂をなくしたような無表情で固定された。大半の人間はそれを「多少は不気味さが薄らいだ」と好意的に受け止め、師ジレンとシエンはイーレンが心を病んで感情をなくしてしまったのではと心配したが、実際のところその心配は見当違いだった。


(むしろ、今までの方が無感情だったのかもしれない)


 嫁入りの行われる満月の日まであと三日となった今、イーレンの心は怒りの業火に燃やし尽くされる寸前だった。彼はこの半月、祭主の元へ通って神韻詠唱の修練に励んだ。ユゥラと約束した通り、いずれはウロの跡を継いで祭主となるため、嫁入りだけでないあらゆる儀式の采配を覚え、祝詞を覚え、ガラの花から茶や香を作る技術を学んだ。恋した少女を竜の生贄にするための力をつけてきた。そんな状況をどうにもできないどころか、己の意志で毎夕欠かさず学び続ける自分自身が、イーレンは心の底から憎くて、憎くて仕方なかった。


りませ』


 衛舎の裏の森に立ち、深く唸り揺れる声でイーレンが歌うと、眠りにつこうとしていた鳥たちが警戒の叫びを上げながら一斉に逃げていった。腕を組んで聴いていた祭主が頭を押さえて片膝をつき、掠れた声で「素晴らしい」と言う。


「竜の声そのものだ……君は、歴代の中で最も神に近しい祭主になるだろう」

「恐れ多いことでございます」


 礼儀正しく両手の人差し指と中指の先を合わせ、幽鬼のように虚ろな顔でイーレンが答えた。そんな彼を見て、祭主がほんのり口の端を上げて微笑む。氷のようなまなざししかできないのだと思っていた彼は、勤勉で才能のある弟子にほんのわずか、親愛の表情らしきものを見せるようになっていた。厳しい師に期待され、それに応えることができるという事実を少しだけ嬉しく思ってしまう己を、イーレンは更に激しく嫌った。


「よいか。君の才は唯一無二だ。笛の和音と合わせずして神の声を出すことのできる君は、決して『来ませ』と詠じてはならぬ。当日までは必ず『居りませ』と」

「そう幾度も忠告されずとも、心得ております」


 イーレンが肩をすくめると、祭主は微笑とわかる程度に笑みを深めた。


「それは私もわかっているとも。しかし、若者の好奇心というものは時に本人にも制御が難しい。どれほど小さな声でも、閉ざされた場所でも、決して口にしてはならぬぞ」

「はい」


(ならば、当日に『居りませ』と歌ったら)


 実行してやろうか、という気持ちが湧きあがったが、イーレンはその考えを丁寧に腹の底へ仕舞い直した。そんなことをしても、ユゥラの命がほんの数日伸びるだけだ。イーレンの身柄は拘束され、歌えぬよう喉を潰され、そうして彼女は誓いを破られた喪失感を胸に、父親の歌で死んでゆく。それはあまりにも自分勝手だ。しかし、だからといって、風習のいいなりになって竜を喚ぶ自分を許せるわけでもない。


 祭主の元を辞し、すぐに帰る気にもならずふらふらと森へ分け入って、イーレンは大穴の縁までやってきた。深い地表を覗き込み、半月前よりもわずかに侵食が進んだ森を見る。下層の方の木々は普段日光の届かぬ場所に生えているからか、乾いた灰色の幹が歪にうねっているばかりで、枝葉などないように見える。あの魔物のような植物がどんどん増え、高層まで上がってきたら、と思うと確かに恐ろしい。目を上げて、三日後に備えてすっかり補修の済んだ舞台を見る。血糊の真紅を隠す艶やかな漆黒に塗られ、大穴の真ん中まで迫り出して、静かに神の訪れを待っている。


『居りませ』


 小さな声でイーレンは歌った。穴の底へ向けて、古い言葉で唸るように。


『居りませ、居りませ、大地の竜よ。永遠とわに久遠に、其処へ居りませ』


 地表からの返答はなかった。夜を迎えた深い森が、ただ静謐にそこにあった。


「俺の声は、竜に通じるんじゃなかったのか」

 ささやきが穴に吸い込まれてゆく。

「なあ、俺ではいけないか? 人を喰いたいなら、生贄は俺じゃだめなのか」


 両手で顔を覆う。目頭が熱くなりかけたが、イーレンは細く息を吐いてそれをやり過ごした。失意に歪んだ顔から力を抜いて、元の虚ろな顔に戻そうと試みる。笑うことはできないのに、なぜ苦痛の表情だけは意識せずとも浮かんでしまうのだろう。


「イーレン」

 とその時、後ろから彼を呼ぶ声。びくりとして振り返った。


「師匠、どうしたんですか」

「帰りが遅かったからね」

「どうしてここだと」

「私はお前の師匠だから」


 杖をつきながら、いつもよりも早足に歩いてきたジレンは、手を伸ばしてイーレンの腕を握った。その力の強さに叱責されるかと思ったが、黒い瞳はこちらを案じているだけだった。


「身を投げようなんて思っていないね、イーレン?」

 抑えた声でそう問われ、どきりとした。確かに、それに近しいことを考えていたからだ。


「なぜ? 俺はもう決めたんです、役目を全うすると。迷いはない」

「その強がりが支えになるならと思ったが、逆に追い詰めてしまったようだ」

「何を」

「イーレン、逃げてもいい。お前のその優しさを、私は誇らしいと思うよ」

「……何を」


 当然なにを、とイーレンは動揺した。今朝まではいつも通りだったじゃないか。いつも通り、彼が何の修行をしているかよくよく知った上で、引き止めることなく社へ送り出したじゃないか。


「逃げるって、そんな」

「花嫁の父であるウロや、仲の良いシエンに肩代わりさせるのを気に病んでいるなら、私が代わってやる。私にはもう、擦り切れてしまうようなものは残されていない。五人の花嫁を黄泉へ送り、亡き妻の忘れ形見を抱いて悲嘆に暮れる青年にその重荷を背負わせた。私の罪悪感はこれ以上増えようもない。イーレン、私に任せておきなさい」


 それを聞いて、「今更言われたって遅い」と師を責めようとしていたイーレンは言葉を引っ込めた。


「……師匠って、元祭主だったんですか」

「結局最後まで笛頼りで、竜声は出せなんだ。才能ある若者にその位を譲ったこと、彼を鬼に変えてしまったことを、私は生涯悔やみ続けるだろう」


 いつもおっとりと微笑み、学問においては厳しいがそれ以外は弟子に甘すぎる老人が、初めて見せた苦悩の顔だった。イーレンはしばしその様子をじっと見つめたが、ひとつため息をつくと、揺れる瞳に目を合わせてハッキリと告げる。


「俺、ユゥラと約束したんです。歴代最高の歌で送ってやるからって」

「イーレン、自分のことを考えなさい」

「竜の声も出せないようじゃ、全然だめですね。彼女の嫁入りに相応しくない。俺は譲りませんよ、絶対」

「よく聞きなさい、お前は」

「――俺は!」


 大きな声を出すと、ジレンは口をつぐんだ。その体がひどく小さく見えて、自身の言葉が彼をひどく傷つけてしまうだろうことに罪悪感を抱く。けれど、彼にはそれでも言っておかねばならぬ言葉があった。


「俺は、皆の夢のために恐ろしい運命を受け入れた彼女の勇姿を、最後まで見届けたいんです。そんな彼女の純粋で頑なな瞳に惚れたから。彼女が最期に聞く声は、俺の声であってほしいと思うんです。それで俺の心が壊れたとしても」


 その言葉を聞いたジレンは案の定、固く目を閉じて沈黙した。数分の静寂の後、師はゆっくりと低い声で呟いた。


「……お前が全霊を込めて歌えば、最高の嫁入りになる。私が保証する」

「ええ、俺がそうします。俺の歌でたちどころに現れる神を、それを見て歓喜する人々の顔を、彼女に見せてやるんです」


(エナ姉さんが最期に見たのはきっと、青い顔で泣きながら手を伸ばす俺の顔だ。次は絶対に微笑んで見送る。君の犠牲が皆の夢を守るのだと、誇らしげに笑って見送る。絶対に)


 涙を堪えるような笑顔。震えそうなのを我慢している唇。すみません、と心でつぶやいたが、イーレンはそれを口に出さなかった。代わりに眉を下げ、小さく肩をすくめて「失恋したら、また慰めてください」と言う。


「……神職の身で神へ横恋慕など、身の程を知らんか」

「だから、師匠にしか言えないんじゃないですか」

「全く、甘やかしすぎたか」

「外ではきちんとしてますって」


 半月ぶりに悪戯っぽい笑みを作ったイーレンは、もう泣かなかった。振り返って仰いだ月は、残酷なほど真円に近づいていた。


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