四 花嫁
ガラの花が満開に近づいていた。
一輪だけだった花が二分咲き、五分咲きと増えてゆくたびに、イーレンは眠れなくなった。今日も早々に目を覚ましてしまって、彼は果物を少し齧っただけの朝食を済ませると、まだ薄暗い明け方の神域を歩いていた。真昼の光の下ではくすんだ赤錆色をしているガラの花は、やはり夜明けの光の中で見ると鮮血のようにあざやかな紅色に見える。
視界のほとんどが血に染まったようなこの光景が、これから一月ほど続く。「嫁入り」は、すべての蕾が開いて最初の満月の朝と定められている。今日は新月なので、残りちょうど半月だ。
神官たちの手によって丁寧に世話をされている神域のガラは、やはり特別に花付きがよい。天井も床もみっしりと紅に埋め尽くされた圧巻の情景をおぞましいと思いながらも、どこか心奪われてしまう自分が憎い。
(せめてもっと汚らしく咲いてくれれば、ここまで皆に愛されなかったろうに)
ため息をついて周囲を見回した、そのとき。真っ赤な花畑の真ん中から突然人影が立ち上がって、イーレンは腰を抜かしそうになった。
「うわあ!」
「きゃっ」
少年の叫び声に、鈴を鳴らすような悲鳴が続いた。焼き入れが施されたなかでも一番小さい、最も可憐な音の鳴るそれを連想させる声。
よく見れば人影は、華奢な少女の姿をしている。そのことに少し安堵しつつ、なぜこんなところに女の子が、と混乱した頭で考える。神職には男子しかなれず、参拝客はこんなに奥まで来ない。
「……あ」
そうかこの子が、とすぐに思い至ったが、しかしイーレンはもう一度少女をまじまじと見て、自分のその推測を疑った。咲き乱れる花の中に立つ彼女が、とても人の子には見えなかったからだ。
「君……その髪は」
ささやくように問う。夕暮れ時の霧のような灰紫の衣を纏った彼女は、周囲に咲いた花々と全く同じ、鮮烈な紅色の髪をしていた。それが彼女をガラの花の妖精のように見せているのだが、足元から摘み取った花を一輪、怯えたように胸元へ引き寄せ、じっと彼を見つめ返す大きな瞳は、祭主とそっくり同じ薄青色だ。
(なんて──)
祭主の娘であろうその少女を、イーレンは魂を抜かれたような顔で見ていた。彼にしては実に珍しく、表情と感情が完全に一致していた。
突然現れた神官の問いに、紅色の少女は答えなかった。彼女は心もとなげに握った花の茎をいじり、胸元に垂れた髪を少し触って、イーレンを見つめたまま一歩後ずさった。
「あ、その……俺は、散歩をしていて、あの、ここの神官で怪しい者じゃ、ほらこの服、名前はイーレンっていって、そうだ、父君から聞いていないか、えと、その、君がユゥラ姫か?」
シエンの危惧した通り、女子禁制の神殿で育った少年は表情を取り繕う余裕もなく、あたふたと両手を空中にさまよわせながら、半分裏返った声で支離滅裂にしゃべった。が、逆にそれがよかったらしい。普段は温度のない表情が冷酷そうにも見える、どちらかというと祭主と似た雰囲気を持っているイーレンだが、女子と初めて話す緊張で弱々しくなった彼を見た少女は、もう一歩後退しようとしていた足を元に戻した。そして、こくんと小さくうなずいて、ごくごく小さな声で言った。
「あなたの名は、聞いています」
「ユゥラ、もう少し近くに……行ってもいいか」
もうひとつうなずき。イーレンは野生動物に忍び寄るときのように、足音を立てずゆっくりと少女に近づいた。少女は逃げない。イーレンは心の中でよし、と拳を握った。
「君は、ここで何を?」
ユゥラはよく見ていなければわからないくらい、かすかに首をかしげた。困ったように顔の前に花を持ってきて、花弁の陰から上目遣いにおずおずとイーレンを見上げる。
(可愛い)
そう思ってしまってから、少年はあわてて澄んだ水のような瞳から目をそらし、深く息を吐いた。今のは神職にあるまじき思考だった。慣れない女性との会話に戸惑う程度ならまだしも、可愛いからじっと見てしまうとか、美少女すぎて緊張するとか、そういうのはいけない。
「ええと……言葉に、何か不自由が?」
尋ねると、今度は首が横に振られた。
「俺と話さないよう、祭主さまに言いつけられている?」
また否定。
「俺が怖い?」
少し迷って、否定。
「もしかして、人見知りとか」
不安そうだった目が一瞬だけパッとかがやき、今までで一番大きくうなずいた。人見知りだった。
笑いがこぼれそうになって、しかし彼女に感じた微笑ましさの分だけ、胸の奥が抉られるように痛む。イーレンはわずかでも己の顔が憐憫の表情を浮かべぬように、意識して目元口元の力を抜いた。美しい姫君を前に少々緊張していた少年の顔から、ストンと魂が抜け落ちる。突然生気のない虚無の面持ちになった彼を見て、ユゥラは長い紅色の睫毛を瞬かせた。
「……えっ」
少女は花の陰から顔を出し、鈴のように綺麗な困惑の声を漏らした。一歩、二歩とイーレンに近寄って手を伸ばし、トントン、と指先で彼の肩を叩く。
「大丈夫、ですか?」
「はい?」
ごく普通にイーレンから返答があって、ユゥラは変な虫を見つけた子猫のように毛を逆立てて飛びすさった。長い服の裾を踏んで倒れかけたのを、すんでのところでイーレンが支える。
「……大丈夫ですか?」
なぜか少女が、小声で問うた。
「それ、俺のセリフじゃないか?」
足は捻っていなさそうだと一安心したイーレンが彼女を立たせてやると、ユゥラは少し話すことに慣れてきたのか、花を胸元に下ろしてそっとささやいた。
「なにか……意識が朦朧としているような顔をしているので、お加減が悪いのかと思いました」
そんなことを言われたのは初めてだ。
「意識はハッキリしている。無表情なのは元からだ」
「けれど、初めはもう少し表情がありました」
「気になるなら笑顔にしておこう」
パッと満面の笑みになったイーレンを見て、ユゥラはもう一度目をまん丸にした。
「突然、笑顔になりました」
「少し歯を見せながら口角を引き上げ、目を細め、眉を少し下げる。息を吐きながらやると自然な笑顔になりやすい」
「自然な、笑顔……?」
ユゥラはパチ、パチ、と静かに瞬いて、考え込むように人差し指の第二関節を唇に押し当てた。真剣な表情を浮かべると子猫のような雰囲気が鳴りを潜め、静かに獲物を狙うフクロウのような顔つきになった。祭主から恐ろしさを抜いて、愛らしさを足したような。
「……祭主様も、若いころはそういう髪だったのかな」
つぶやくと、ユゥラはまだ何か考え込んでいる様子で、上の空に答えた。
「この紅色は父からの遺伝ではありません。母が赤髪だったそうです。両親共に、古代で言うところの異国の血筋なのだそうで」
「異国?」
「先代のエナ姫は脱色の上で染髪していましたが、私の髪はそのままでよいと言われました」
「……君は、先代の」
花嫁がどうなったか知っているのか、と問いそうになって、危ういところでそれがどれだけ残酷な質問なのか気づいた。しかしユゥラは意に介する様子もなく、まるで空が青い理由でも語るような口調で言った。
「エナ姫の嫁入りは私も見届けました。花嫁がどのようなものか、私は知っています。知った上で、身も蓋もない言い方をするならば殉教を、私は受け入れています。人類の夢を繋ぐため、私は竜神へ嫁ぎます。その手助けをしてください」
「……祭主さまに、言わされているのか」
「いいえ。これは私自身の素直な気持ちであり、思想です。……ところでイーレン、あなたの顔はなぜそのように、あまりにも急激な表情の変化を起こすのですか? 考えてもわかりません」
「あまりにも急激」
「表情に乏しい己を隠すためならば、突然死んだような顔になるのはおかしい」
「突然、死んだような」
「表情筋に問題があるのですか?」
「みんなだって、嬉しいことがあるとパッと笑顔になるとか、とにかく常に笑顔を浮かべてるわけじゃないだろう。無表情のときだってある」
「なるほど、観察眼に問題があるのですね」
ユゥラはなぜか深く納得したようにうなずき、唇に当てていた手を下ろすと、そこでようやく初対面の人間と話していることを思い出したらしい。ハッと気づいた様子でイーレンを見上げ、わずかに頬を赤くすると握っていた花を頬のところに持ち上げ、蚊の鳴くような声で「これは、昼食後のお茶にします。少し甘くて苦いです」と言った。
「……そうなんだ」
「イーレン、あなたは気に病まなくてよいのです。あなたがその類稀な才で神を喚んでくださることが、私の喜びですから」
ふた呼吸分の沈黙ののち、イーレンは言葉を絞り出した。
「……わかった。ありがとう。君が苦しんでいないと知って、とても気が楽になった」
イーレンのそのときの作り笑いは、過去最高の出来だった。ふわりと浮かんだ信頼と安堵の微笑を見て、ユゥラはほっとした笑みを返した。透き通った美しい瞳が木漏れ日を受けてキラキラと光り、イーレンは十年ぶりに、否、幼かった十年前とは違う、本能を揺さぶる苛烈な恋心が燃え上がるのを身の内に感じて、せっかく初めて成功した笑顔が崩れないよう必死で堪えた。残念な観察眼をしていたが表情筋の操作だけならば長けていた彼は、その試みに成功した。
憂いの晴れた穏やかな笑顔で儀式の成功を約束し、父君の跡を継いでこれからも人類の夢を守ってゆくからと誓い、少女と別れて足取り軽くその場を去ったイーレンは、苔殿の裏の壁に縋って泣き崩れた。
〈第二章 了〉
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